チョコレートフィクション

満足とは、どうすれば手に入るのだろうか。
俺の人生は空虚だ。学校に通っても、誰かと話していても、映画を見ても、ゲームをしても、旅行に出かけても、食事をしても、常に心のどこかが「これじゃ足りない」と訴えている。
これは幼い頃からずっとそうで、俺は満足というものを体験したことがなかった。
別に人生がつまらないとか、そういう思春期らしいことを言うつもりはない。学校は程よく乱雑で面倒だし、他者との会話は楽しいし、映画は心を震わせるし、ゲームは闘争心を煽るし、旅行は開放感を与えてくれるし、美味しい食事は幸福を教えてくれる。
ただいそう言った感情がふとした時に心を上滑りし「これじゃあ足りない」と思っている自分に気付いてしまうだけなのだ。
だから俺は自分を満足させてくれるものを探すようになった。刺激を求めて夜の街に向かうと、大人たちは俺に色んなものを差し出した。
でも酒は苦いだけ、煙草は煙いだけ。これじゃあ満足とは程遠い。殴られたこともあったけど、これでもなかった。
その時、俺のことを好きだと言う女性にセックスしようと誘われた。したことはなかったが、やり方を教えてもらって言われるがまま抱いた。
セックスは普通に気持ちよかったけど、その程度だった。やっぱり満足はできない。
ただその時に触れた人の肌が、心地よかった。
これで満足はできない。けれど誰かに触れている間は安心できて「満足できない」という事実を忘れさせてくれた。
これでは満足できないのに、満足出来ないことを忘れたくてのめり込んだ。別に人肌さえ貸してもらえればセックスはしなくていいかと思ったけど、服を脱いだら大抵の人はしたがった。
だから俺は思った。セックスを対価に支払えば、人肌を借りられるのだと。
抱くのも、抱かれるのも、どっちでもいい。ただ伸ばした手の先に誰かの肌があればいい。あれは温かくて、気持ちいい。
でも足りない。これじゃあ足りない。足りないと思ってしまうことを忘れたい。
こんな自分は、まるでフィクションだ。
だって俺はこんなにも足りないのに、何故足りないのか、何が足りないのか言葉にもできない。
足りないなんて設定だけを渡された、薄っぺらいフィクションだ。
何かが足りない。これ以上の設定なんて用意されてないから、何が足りないか分かる日は来ないんじゃないか。そんなふうに思ってしまう。
今日もまた誰かの隣で朝が来て、満たされない心を再確認する。今日も何かが足りなくて、それが少しだけ苦しい。
その苦しみを忘れたくて、もう一度眠ってしまいたいと思った。


パパ活、援交、ママ活、売春。そういう言葉が浮かんでは消え、汗が滴る。
「蝶番」
言葉が上手く出なくて、名前だけが零れた。声は面白いくらいかすれていた。蝶番がにやにや笑っている。
「びっくりした? それとも予想出来てた?」
サプライズプレゼントを渡すような気軽さで彼が言う。その声が弾んでいるように聞こえるのは気のせいだろうか。
「もしかして怒ってる? 怒られちゃうかな?」
そんなことを言う割に彼は笑みを崩さない。その瞳を怪しく輝かせ、俺を見ている。
誰かの部屋から響いていた歌声が、急に遠くなった気がした。
「これって、身体、売ってるってことか」
「まさか。そんな話、DMでしたら下手すると垢BANくらうって。あくまで食事、デートだけ……でもいい雰囲気になったら自由恋愛みたいな?」
そういうのはよく分からないが、食事とデートだけで四万とは思えない。確実にそれに見合う何かが別にある。
「まぁ俺、お金なんていらないんだけどさ。お金なしって言うと逆に詐欺を疑われるみたいで……。困っちゃうよね」
猫が膝の上に載って降りてくれない時みたいなテンションでそう言われる。そんな場合ではないのに。
「……一景? 大丈夫? 思ったより静かになっちゃったけど……」
蝶番がそう言って俺に指を伸ばす。その指を掴み、引き寄せた。
「わっ」
蝶番は派手にバランスを崩し、俺の胸に倒れ込む。手から蝶番のスマホが滑り落ち、ソファーの上で小さくはねた。
「こんなのやめろ」
心臓が早鐘をうっている。掴んだ指を強く握った。
蝶番は俺を見上げ、緩やかに目を細める。
「じゃあ、一景が相手してくれる?」
彼の手が俺のうなじを撫で、髪の根元を柔らかくすぐった。薄暗い部屋に二人でいる事実が浮き彫りになっていく。また甘い匂いがする。都合のいい、作り物の匂いだ。
身体を一層寄せられた。俺の胸に彼の胸がぴたりとのしかかり、心臓の音と筋肉の厚みと彼の重さを感じた。汗が滲む。
「俺、お金が欲しい訳じゃないんだよね。それに一景とは本気でセックスしたい」
触れる手は焦らすようでありながら優しくて、何故だか悲しくなった。誘惑のような吐息が頬を掠めるが、それすらも切ない。
「しない。するわけないだろ……」
何がこんなにも悲しいのか分からなかった。だが悲しんでいる場合ではないと、それだけはわかる。
悲しみを振り払うように首を振って、握っていた手を離した。代わり彼の肩へ手をおき、逃げないよう力を込める。
「俺はお前とはしない。それに、他の奴ともさせない」
言葉にすると悲しみはやるせなさに塗りつぶされた。俺を見てにやにや笑う蝶番に対し怒りが湧いてくる。
「お前、笑ってんじゃねぇぞ!」
「あっ、急に怒った」
「もっと」
言葉が途切れた。蝶番がキスでもするように顔を覗き込み、続きを促す。それを引き剥がして叫ぶ。
「もっと、健全に生きろ!」
俺の叫びが薄暗いカラオケボックス内に反響する。
そしてその音がすっかり無くなった頃、蝶番が腹をおさえて笑いだした。
「あっははは……! 面白すぎる……! 面白すぎる! 面白すぎる!」
「三回も言うな!」
「でも、そんな所が好きすぎる!」
散々笑い、彼は目元の涙を拭いながら俺を見た。
「一景が心配してくれて嬉しい。えー、本当に嬉しい。これでセックスはさせて貰えないって、ほんと?」
「しつこいぞ、お前……」
「ごめんって。健全って言ってたもんね」
宥めるように額をくっつけられるが、即座に引き剥がす。悲しい気持ちはもうどこかに行っていた。
「でも実際問題、健全って何? 大人からお金を貰ってデートしたり自由恋愛したら駄目なら、同年代なら健全?」
未だにのしかかり続ける彼をきちんとソファーに座らせ、俺もしっかり座って彼の方を向く。
この雰囲気を察したのか、蝶番も軽く居住まいを正した。
「そういうの、分からないのか」
「そうだね。一景程健全に詳しい訳じゃないかな」
「じゃあ、お前のことは俺が見張る」
その言葉に蝶番がぱっと顔を明るくする。
「いいの?」
その目は期待できらきら輝いていた。妖艶さを取っ払った笑みにたじろぐが、それ以上に今の発言が気になる。
「なんで一言目がいいの? なんだよ。普通嫌だろ、見張られるの」
「好きな人には見てて欲しいものでしょ? そういうことなら相互監視アプリ入れようよ。俺のスマホに関するあらゆるデータが見れるから俺がDMで誰かと会話すると全部わかるよ」
「入れない! あと相互監視なら俺のデータも見えるだろうがそれ!」
慌てて自分のスマホを鞄に放り込んだ。残念そうな顔をされるが、データを見るのも見られるのも怖すぎる。
蝶番は渋々といった様子で自分のスマホをポケットに仕舞いこんだ。
「じゃあやめる。やめる代わりにお願いがあるんだけど」
「お願い?」
ここでお願いを聞いてやる義理はひとつもないのだが? そう思うものの、断ったら脱がされるかもしれないので一旦聞く姿勢を見せる。
めちゃくちゃ警戒する俺を見て、蝶番はおかしそうに笑った。
「器って呼んでよ、一景」
警戒してた割に、願いはあっさりしていた。ついじっくりとその顔を見てしまう。なにか裏があるのでは、と思わざるを得ない。
「ステップアップってやつだよ。いいでしょ?」
しかし蝶番は笑っている。にやにやと、それでいて楽しく嬉しそうに。
「お前」
何考えてるんだ。そう言おうとしたが、言えなかった。蝶番がコップのふちを口元に押し付けてきたからだ。烏龍茶の匂いがした。
俺のコップが押し付けられているのか、彼のコップが押し付けられているのかは、分からなかった。
「器って呼んで」
強請るように言われると、抗えない。コップから唇を離し、囁く。
「……器」
「はーい」
機嫌よく器が笑う。それが少年らしい方の笑みだったので、なんかもうどうでも良くなってしまった。
気が抜けた息を吐き、だらだらした座り方に変える。
「はぁ……。疲れた。とりあえず、お前の家教えろ」
「俺の家? 別にいいけど、用事?」
「迎えに行くから、明日」
ごく当たり前の流れとして言ったつもりだったのに、器は「え」と驚いていた。若干してたやったりな気持ちになる。
「……あはは、俺って朝からサボって不健全なことしに行くと思われてるんだ。えー」
「だってお前ちょいちょいサボってるだろ。ついでだからそこも含めて見張る。引きずってでも登校させてやるからな」
あはは、とまた器が笑った。彼は烏龍茶のコップに口をつけ、唇を僅かに濡らす。
「一景と初めてキスした日から、毎日ちゃんと登校してるけど?」
「え?」
言われてみれば、登校する度必ず器に構っていた気がする。俺は休んでないので、彼も同じくサボってなかったということだ。
「き、気付かなかった……」
「いないなら気にするけど、いることは気にしないからね。っていうかさ、一景が学校にいるのに行かないわけないよ。でも迎えに来てくれるのは嬉しいから、毎日迎えに来て欲しいな」
器がにやりと笑ってこちらを見る。その瞳は光にかざした飴玉のように煌めいていて、急に言葉が出なくなった。
「俺が悪いことしないか、ずっと見張ってて。一景」
器がそう言った。どうして彼がそんなことを望むのか、分からなかった。