転びそうになりながらも駆け抜け、器のマンションに辿り着く。たった数日来てなかっただけだと言うのに、やたら懐かしい。
マンションの中に入り、インターフォンに部屋番号を入力する。しかし返事はない。部屋番号を間違えたかと思ったが、無言のまま自動ドアが開いた。
「入れってことか……」
直接会うまで話したくないのかもしれない。口の中に溜まった唾液を飲み込みながら、自動ドアを潜り抜けた。
器の部屋は四階だ。エレベーターで行こうかと思ったが、使用中だったので階段をのぼる。
一歩一歩のぼるたび、器の元に近づいている実感があった。心臓は既に張り裂けそうな程強く鼓動している。風はここまで吹いてこないはずなのに、少しだけ身体が震えた。
階段はあっという間にのぼりきってしまい、とうとう彼の家の玄関まで辿りつく。
玄関に設置されたインターフォンに指を置く。覚悟を決めて一気にボタンを押し込む。
軽やかにチャイムの音が鳴った。しかし、人が出てくる様子はない。試しにドアノブへ手をかけると、玄関扉はあっさり開いてしまった。
鍵のかかっていない部屋。それは彼の無防備さを彷彿とさせる。
身体の奥から染み出す恐怖を踏み潰しながら、中に入った。
玄関は空っぽだった。ファミリータイプの広々としたつくりの中に、器の靴が一つだけ置かれている。なんか寒々しい。
靴を隣に並べ、短い廊下を進み、おそらくリビングに繋がるであろう扉を開けて進む。
「一景、来てくれたんだ」
リビングのソファーには、器がいた。彼は嬉しそうにこちらへ歩み寄ってくる。
しかしそれ以上に、この部屋の光景が俺の目を奪った。
部屋の中には大きな食卓やファミリー用ソファー、三つのスリッパ、三人分の椅子と言った、三人家族らしい品々が揃っている。
だがそれらは一人分を除き、使用された痕跡がなかった。
家族暮らしの体裁だけを整えたような、不自然で寂しい部屋だった。
「あのさ、一景。俺ね」
前に立った器が俺を見つめている。この部屋を当たり前みたいに受け入れて、俺に笑っている。
「お前、ここに住んでるのか」
「え?」
呆気にとられた声が聞こえた。器はかなり不思議そうにした後、とりあえずといった様子で頷く。
「そうだよ。ここ、俺の家。俺の部屋もあるよ」
そうか。ここが、器の家。
この不自然で、寒々しくて、空っぽで、世間体の為だけに三人暮らしの見た目をしている家が器の家なのか。
器の話を思い出した。両親と似ていないせいで二人が不仲になり、器を押し付け合った結果逆に離婚していないのだと。
「……あれって」
露骨に真新しい椅子を指さす。椅子に置かれたクッションはまるで新品だ。
あの見るからに誰も使っていない椅子が母親が父親の椅子なのか。そんな意味を込めた問いかけだったが、言葉足らずだった。
器は首を傾げ、椅子の近くに置いてあったスリッパを見てしまう。
「あー、ごめん。一景が来てくれると思ってたのに、来客用のスリッパ出てなかったね」
彼はスリッパを手に取ると、俺の足元に置いた。新しいスリッパだった。
「これ、父さんか母さんのだから、一景が使っていいよ。だってあの二人、帰ってこないし。家っぽくしたいからあるだけで、今まで一度も使ってるところ見たことないし」
ここに器の両親がいなくてよかった。
そうしたら俺が最初に取った行動は、彼らをぶん殴ることだっただろう。
「ここは俺一人だから、気兼ねしなくていいんだよ」
安心させるように言葉をかけられる。俺は黙って器を抱きしめた。
「えっ……」
器が驚きの声をあげるが、すぐさま甘えるように背中に手を回してくる。頬を寄せられるが、拒まなかった。
むしろ撫でるように頬を合わせ、その身体を強く抱き締める。
「ごめん、器」
言葉は意外とスムーズに出た。
「いいよ。襲ったことに謝ってるのか、怖いって言ったのを謝ってるのか、踊り場で突き飛ばしたことを謝ってるのかわかんないけど、全部許すよ」
って言うか、怒ってないし。そう囁いて、器は少しだけ身体を離す。
二人で目を合わせた。鼻と鼻が触れ合いそうな距離だった。
「あのさ、文化祭の時、俺もすっごく悪かったなって。一景に叱って欲しくて先生に手を出したけど、あれで一景にさせたかもって思ったよ。それに先生にも酷いことしちゃったし」
少しだけ申し訳なさそうに器が目を逸らし、もう一度俺を見やる。珍しい仕草だと思った。これだけ付き合っていても、彼のしおらしいところなんてほとんど見たことがなかったから。
「本当はね、あの時、ようやく一景のものになれると思って嬉しかったんだ。だからそれが叶わなかったのが嫌で……。もう一回やり直そうと思って襲った。一景が自分の行動にショック受けてるのにも気付いてたのに、襲ったんだ。セックスなんて大したことないって思ってたから」
怯えるように器の瞳が揺れた。
「でも、怖がらせただけだった。ごめんね、一景」
「そんな、お前のせいじゃ」
「さすがにここは俺のせいでしょ。謝らせてよ、一景」
器は俺にスマホを見せる。そこには『アカウント 削除』のボタンがあった。
いつの日か、器が押したボタンだ。
「アカウント、一定期間内なら復活できるけど……復活してから三十日以内にもう一回消すと完全に削除されるんだ」
スマホを手に押し付けられる。
「一景、消して」
液晶は熱を帯びていた。
「俺から差し出せるものなんてほとんどないけど、せめてこれだけは謝罪代わりにあげる」
「差し出すって」
「お前以外とセックスしないよ。これはその約束」
器が笑う。それは綺麗な笑みで、何故か酷く苦しくなった。
「……お願い、押して。俺、謝り方が分からない。押してくれなきゃ、一景に謝れないよ」
笑みから溢れる言葉が震えている。俺は黙ってボタンをタップした。アカウントは即座に消え『削除されました』の文言が浮かぶ。
ふ、と器が笑った。今度は安心したような笑みだった。だからもう一度彼の背に回して抱き締めた。
目の奥が熱い。ぼた、と涙が落ちて器の肌を汚して言った。
「嘘、泣いてる?」
慌てて器が身体を離してこちらを見ようとする。でも、抱き締める手は決して緩めなかった。
「え、えー……」
困惑しながらも器が優しく背をさすってくれる。慰めるような手つきが苦しくて、いちど強く目を閉じた。目に溜まっていた分の涙もぼろぼろと流れていった。
「泣かないで、一景。なんで泣いてるかは分かんないけど。俺のせいなら堪能した後に、謝るし。上手く謝れるか分からないけど」
数度背中を撫でたあと、器がゆっくりと身体を離そうとする。
丁寧な手つきだったので大人しく従うと、器は俺の顔を正面から見たあとに涙を舐めた。
「しょっぱい。美味しくない」
「……美味いわけ、ないだろ。そんなもん舐めるな……」
そう言ってもべろ、ともう一度舐められる。官能的な仕草と言うよりは、犬みたいだった。
「漫画だと甘いって書いてあったりするじゃん」
「それはフィクションだ……」
「うんうん。そうだねー」
返事の合間に何度も涙を舐められる。でも剥がす気は起きなかった。ようやく涙が止まると、目元に軽く口付けられる。あやすようなキスだった。
「なんで泣いてるの、一景」
器は困ったように笑っていた。その表情に愛おしさが滲んでいる。それが自惚れでも間違いでもないことは、十分に知っていた。
彼の背に回す手に、ぐっと力を込めた。それが伝わったのか器も一度瞬きをする。
「お前が好きだから」
「……」
器が俺を見た。さっきまでの表情はもうなく、そこにあるのは突然二足歩行を始めた犬を見るような目だった。
「ごめん、なんて?」
「お前が好きだから」
静かに器が瞬きをする。それから首を傾げた。
「はぁ……」
よくわかってい無さそうな返事だ。それも少しだけ、悲しい。
「お前も、俺が好きなんだよな」
器の手が柔らかくて、身体が温かい。今なら怖いと、踏み込めなかったその奥まで踏み込める気がした。
「好きだよ」
当たり前のように、恥じらいも躊躇いもなく器はそういう。
「でも、お前は付き合いたいって言わないよな。俺のものになりたいって、そればっかりだ」
「まぁ、俺は恋人じゃなくて一景のものになりたいだけだし」
「なんで?」
問いかけると、不思議そうにされた。しかしすぐに器は真面目な顔になり、自身の口元に触れる。
「お前が優しいから」
「……もっと具体的に」
わがままだなぁ、と笑われた。綺麗な笑みだ。壊れそうなくらいに。
「俺さぁ、なんか何しても満足できないんだよね。美味しいものを食べても、誰かと喋っても、心の中が空っぽなんだよ。ただ人の素肌に触れるとその気持ちを誤魔化せるんだ。で、だいたいの人はセックスすれば触らせてくれる。だから俺はセックスするの」
彼の瞳が希望を映すように煌めく。
「でも一景が口元を拭いてくれた瞬間、その空っぽがちょっと埋まった気がしたんだ。だから、好き」
彼は語る。自身の価値観が一般的なものであるかのように。
「だから俺、俺の全部を支払ってお前のものになれば、お前がまた同じことをしてくれるかなって思ったんだ」
彼は語る。変なところなんてまるでないみたいに、自然に。
「でも、そんな利益だけじゃないよ? それに一緒にいるうちに目いっぱい優しくしてもらって、一景のことがもっと好きになった。だんだん支払いとかじゃなくて、本気でお前のものになりたくなった」
窓から差し込む夕日がどんどん暗くなっていく。蛍光灯が自動的に明るくなり、部屋の中を無機質に照らした。
「お前の制服はいい。制服にチョークの粉がついたらはたいて貰えて、ブラシもかけてもらえる。お前のリュックはいい。底が抜けないよう荷物の量を調整してもらえる。お前のハンカチはいい。ポケットに入れる前にいつも畳んで貰える」
少しだけ、制服に爪をたてられる。嫉妬するみたいな仕草だった。
「お前の持ち物が羨ましかった。俺も同じようにして欲しい。だから、お前のものになりたいんだよ」
堪えていたはずの涙がもう一度落ちた。器がまた目元を舐めたので、自分で涙を拭った。口元に滑り落ちた涙は生温かくて、しょっぱかった。
「なんで泣くの、一景は意味わかんないなー。でも、これって多分俺のためだよね。嬉しいかも」
器の声が弾む。自分の話をひとつもおかしいと思ってなくて、俺の涙を心から喜んでいるのが分かって、ますます涙が出た。
「お前が怖い」
「うん」
「普通はそんなこと思わない。思わないんだよ」
「そっか。知らなかったな」
器は異常だ。本能は彼に怯え、俺の中に溜め込んだ常識は「彼はおかしい」と囁いている。
「……お前の話は、悲しい」
「うん?」
しかし恐怖以上の悲しみがあった。胸の内で燃えるそれは行き場を探し、涙になって流れ落ち続ける。
「悲しい……、悲しい。俺の話が?」
器は未知の言語を確かめるみたいに、もう一度「悲しい」と呟いた。その幼くて無知な仕草が本当に悲しかった。
彼は支払うといった、俺のものになりたいと言った。
それじゃあまるで、器の中で器は人間じゃないみたいだ。
「俺はお前が誰かに身体を明け渡そうとするのが見過ごせないって、言った」
「そうだね。確かに言われた」
「お前が心配だからだ」
「うん」
喉奥が引き攣る。涙が詰まり、声が濁る。
それでも器に語らなければいけない。
「お前が簡単に、俺にその身体を差し出すのが怖い。俺を受け入れるお前も、俺のものになりたがるお前も、支払いだとか言い出すのも、怖い」
器の手が涙を拭う。優しい手つきだ。だからこそ苦しくなる。
器のことが好きだ。落っこちるように好きになり、指先ひとつから魂の一片まで、彼を彼たらしめる全てを愛してしまった。その分だけ苦しくて仕方がない。
「お前はお前を守ろうとしない。お前にとってお前はものみたいで、使える道具みたいだ。そう言うのが、自分が大事じゃないみたいなのが、怖くて、悲しい。悲しいんだよ……」
涙で視界が歪んだ。その中でも器が俺を見つめていることだけはわかった。
「だから嫌がったんだ? 抱いてって言うの」
「……そうだ。嫌だ。文化祭の時もそうだ。あれは酷いことなんだ。そんな俺の事なんて許さないで欲しかった……」
ぼろぼろと涙が落ちる。保健室で飲んだスポーツドリンクの分がそろそろ無くなりそうだ。
それなのに涙は未だ熱く、胸の内は火傷でもしてるのかと錯覚するほど痛い。
だから痛みにつられて、口を滑らせた。
「そもそも、好きになった経緯が嫌なんだ俺は。俺以外にお前の血を拭うやつはもっといるべきで、それ以外にもお前に何かしてやる奴は沢山いるべきだ。あんなの普通のことなんだ。あれが初めてみたいなの、本当に、おかしいんだよ……」
身体の奥から隠していたものを引きずり出すように、それだけを一気に言った。
瞬間、不味いと頭が冷えた。しかし胸の内は熱く渦巻いたままで、身体の内側を冷たさと熱さが巡る。
今まで好き勝手に流れていた涙が引っ込んだ。こんなタイミングで落ち着いた視界の中、器がこちらを覗き込んでいる。
「じゃあ一景は好きになったことが間違いだったって、そういうの?」
器の声は淡々としていた。その表情にも変化はない。
だからこそ、何を考えているか分からない。
「……ごめん。そんな酷いこと言うつもりなくて」
申し訳ない気持ちはあった。
「でも、お前が『あんなこと』で人を好きになるほど、大事にされてないことに納得出来ない」
しかし、ここまで来たら本音を隠すことができない。
顔色を伺いつつそう言えば、器は何故かにっと笑った。そして俺の首に腕を回し、額を合わせてくる。
「じゃあ、これからあれが特別じゃないって俺に教えてよ。一景」
「え」
予想外の言葉に口が開く。けれど器は上機嫌のまま、俺を置いて勝手に話を進めてしまう。
「だって俺、一景の言ってること全然わかんない。一景がメソメソするなら直そうかなーとは思うけど具体的にどこをどう直せばいいのかさっぱりだし。正直、大事とか大事じゃないとか、そういうのほんと意味わかんないって思ってるからね?」
くすくす、器が笑う。少年らしい透き通るような笑みでありながら、どこか大人びた意味合いを含めた笑みでもあった。
「だから教えて、一景」
ぶつかった額から器の体温を感じる。いつも通りの甘い匂いが鼻をくすぐった。
彼の長い髪がベールみたいに垂れている。彼の体温が肌の中に滲んで、俺のものになっていく。
「自分を大事にするってこと、大事にされる人生っていうの、他でもないお前に教えて欲しい。お前が泣かないような俺になりたい。お前が納得できてなくても、今の俺はお前が好きなんだから」
「……」
上手く返事ができなかった。身体の中では色んな意見や感情が渦巻いて、言葉になるようなものがなくて。
「教授だから、そういうの得意でしょ?」
「……それは、俺がつけたあだ名じゃない……」
結局、最初に出たのはそんなどうでもいい言葉だった。
一度そう言ってしまうと急に色々どうでも良くなり、がくりと身体から力が抜けた。
「……わかった。俺が全部教えてやる。で、お前が色々勉強したあとに謝ることにする」
「え? 何、謝るって何の話?」
「……お前、その、手、出したこと。謝らないとだろ……」
あー、それかぁという顔をされた。全然気にしていない様が、やっぱり悲しい。
「そんなの、別にいいのに……って言うのが、一景は嫌なんだっけ?」
「そうだ。よくわかったな。偉いぞ」
「褒められた。でも、これくらいはね? 俺、現国の点数、結構高いよ」
「お前、筆者の気持ちを云々系の問題で点落としてるだろ。どれだけ一緒に勉強したと思ってるんだ。知ってるからな」
指摘しても器はけらりと笑い、甘えるように吐息を絡めて囁く。
「でも、実際問題、俺、一景になら襲われてもいいよ。実際好きって気持ちには変わらないから。って言うか俺が襲うし」
「……聞き捨てならない話をしたな、お前」
「あはは。今って二人きりだし、俺の家だし、もしかしてチャンス?」
押し倒すように体重をかけられたので足に力を入れ、その重さに対抗する。
「……あー、でも、そっか。そういうことか」
ぐいぐいと体重をかけながら、器はそう呟いた。完全に余計なことに気がついた口ぶりだった。
今のうちに口を塞いでやった方がいいかと迷っているうちに、器はにやりと笑って話し始める。
「一景って俺に性欲あるんだよね? だって襲ったから。独占欲で性欲だよね?」
「…………」
答えたくない。口をぐっと閉じたが、この時点で答えを言ってるのと同じだ。
器が「じゃあ、別の質問しよっか」とにやにや笑いを止めないまま問いかける。
「一景は俺に『大事にする、される』っていうのを教えてくれるんだよね?」
「……あぁ、そうだ。俺が教えてやる」
ここで頷くと、多分ろくでもないことを言われる。でもこの言葉を否定することはできない。
器が目を細めた。チェシャ猫みたいに。
「じゃあ俺は、誘惑って言うのを教えてあげる」
蠱惑的に囁かれた。先程まであった甘い匂いが一気に濃くなった気がする。触れた体温がやたら鮮明に感じられた。
首筋を爪先でなぞられる。ぞく、と腹の底が疼く。
「だって、一景の言いたいことわかんないし。何より一景は『大事』ってことに囚われてるから悲しんだりするんでしょ? じゃあ俺が、それを忘れさせてあげるから」
甘い、甘い声が注がれる。脳の心を溶かす声だ。聞けば聞くほど理性を蝕むと分かっているのに、拒めない。
「本能で気持ちいいことして、それだけでいっぱいになるようにしてあげる。悲しみなんて入らないくらい、大事とか大事じゃないとか考えられないくらい」
するり、と彼の指先がうなじを這った。産毛をくすぐられ、息が詰まる。
「もう俺が、お前を悲しませたりしないよ」
それは、とんでもない力技だ。
「お前、正気か?」
「正気、正気。ちゃんと一景の言うこときこうかなって思ったけど、俺が従順なのも悲しいんでしょ? じゃあ俺ができる悲しませない方法って、これだし」
「……」
彼がこれしかないというのも、悲しい。
でも俺の悲しみばかり押し付けられない。それに悲しませたくないという気持ちは、少し嬉しかった。
だから、彼に笑みを作った。
「じゃあ、勝負だな」
「そうかもね。でも一景が教えてくれることも楽しみに思ってるから。俺、一景に人生を変えられるの超楽しみ! 早く作り直して欲しい!」
「……そういうところだぞ」
この自分を物のように扱う様も悲しいのだが、ここもおいおい俺が教えていくしかないのだろう。
教授。これはただのあだ名だったはずなのに、こんなことになるなんて。
「って言うかさ、キスしてよ」
不意に器がそう言って、何か企んでいる時の笑みを見せた。嫌な予感がした。
「してくれたらお前に襲われたこと、怖いって言われたこと、気持ちを否定されたこと、全部チャラにしてあげるから」
「げっ!」
「どう? 一景からぜひキスさせてくださいお願いしますってするくらい好条件でしょ?」
そう言われると断れない。思わず後退りそうになるが、その分距離を詰められた。
「な、なんで急に」
「急じゃないよ。いつもしたいなーって思ってる。それに何より、俺を避けてた一景がアカウント見てここまで飛び込んできてくれたんだから。超嬉しい。これはキスしないと収まらないよ」
そう言われると、セックスしなきゃ収まらないとか言われるよりマシな気がしてきてきた。完全に毒されている。
「それに、拒否できる立場だと思ってる?」
「ぐっ……! 全然気にしてなかったくせに、ここぞとばかりに……!」
「あ、口にしてね。きつねじゃないよ? 一景の口でね」
逃げ道も塞がれた。渋々唇を寄せる。
「…………」
無言で、しかし期待に満ちた瞳で見つめられる。何度目かのキスだと言うのにこんなにも緊張するのは、一度好きだと自覚してしまったからか。
僅かに強ばる指先を握り締め、ええいままよとその口に唇を押し付ける。
柔い唇だった。単純に肌を触れ合わせているだけなのに、背筋の辺りがぞわぞわする。それが性欲なのかキスの快感なのかは、いまいちよく分からない。
誘うように腰を撫でられた。まずいと思って唇を離す。
「舌、入れて」
瞬間、そう囁かれた。
「無理。パス。無理!」
「じゃあ入れさせて。えげつないキスさせてよ」
「…………」
「どんなキスしてもらえるかって、俺が決められるよね?」
「ぐっ……! お前は本当に、本当に!」
だが罪があるのはこっちだ。キスひとつでチャラにして貰えるだけ感謝するべき立場なのだ。
そう、俺が悪い。本当に俺が悪い。やるしかない。
「わぁ、すごく嫌そうな顔」
「嫌だからな……」
「えー、その顔、マジでいい。やっぱ俺が抱いていい?」
黙ってもう一度キスをした。こちらの口に入り込もうとするその舌をねじ伏せ、器の口に舌を入れる。
彼の舌は唇より柔らかかった。歓迎するように舌の表面を舐められる。
自分から舌を入れるのは二度目だが、冷静な状態でするのは初めてだ。いざやってみたら気持ちよさとか背徳感とか以前に困惑が勝る。最初に相手の口に舌を突っ込もうと思ったのはどこの誰なんだろう。
とりあえず器の舌を舐めてみた。器も甘えるように舌を寄せてくるが、これが正解なのか分からない。ただ器の口内は熱くて柔らかくて、そこに舌を這わせる感覚は悪くなかった。
もう一度だけ舌を擦り合わせ、唇を離す。器が露骨に不満そうな顔をした。
「短くない? あとやってること少なくない?」
「短くない。やってることは……まぁ、その、あれだ。今はレパートリーが少ないから……」
「じゃあそこは俺が教えてあげる。ありとあらゆる人間を泣くほど絶頂させるキスのやり方」
知りたくない。
「ここで教えてあげてもいいんだけど……。一景はそういうことしたくないんだよね?」
ぱ、と器が腕を解いて俺から離れた。俺の服にすっかり彼の体温が移っている。
「したくないというか……お前にそういうのを許して欲しくない」
「じゃあしたいことはしたいんだ」
「……ひ、否定しきれない……」
「脈アリで何より」
彼のにやにやした笑いに喜びが滲む。それがどうにも悲しい気がしたけれど、これで喜ばれるのが嬉しいとも思ってしまう。少しだけ。
器は俺の胸にもたれ、くるくると胸元に円を描いてきた。
「で、さ。一景は俺に大事にされる人生っていうのを教えてくれるんだよね? それって俺にとっていいことしてくれるってことだよね?」
「お前、何か頼む気だろ。言質取ろうとするな。何回も言わせようとするな。もうキス……とか、そういうのしないからな」
彼が飛びかかってくる前に何歩か引いて距離を取る。器は笑みを崩さず、露骨な猫撫で声で言った。
「今日、泊まってってよ。一人じゃ嫌だな、俺」
演技じみた上目遣いでこちらを見やる器。白々しい。
しかしこうやってお願いする時は、彼も結構本気だ。なんとなくわかってきた。
「……明日も学校だろ。制服、どうするんだよ」
一応そう言ってみるが、断れる気がしない。だいたい相手が誰であれ、頼み事には弱いのだ。器からの頼み事なら尚更だ。
「乾燥機あるから制服くらい余裕で乾くって。パジャマも下着も貸すし」
「あ、明日の分の教科書もない。明日の予習ができない」
「うわ、学校に教科書とか置いてきてないんだ。真面目~~」
でも好き、と器が囁く。彼はにこっと笑ったあと、自身の制服に手をかけた。あっという間にボタンが二つ外れ、胸の辺りが露出する。
「一景……。予習とか復習するより、俺に教えることがいっぱいあると思わない? 服を脱いじゃだめなタイミングとか」
「わかった、泊まる、泊まる!」
慌てて彼の服を掴み、ボタンをとめなおした。ついでに上着も整えてやる。
「いえーい。ベッドひとつしかないから一緒に寝よ」
ピースされる。されても困る。
「嫌だ。そこのソファー貸せよ……いや、万が一両親帰ってきた時にここにいたら迷惑か。一応たまに帰ってくるんだよな?」
「大丈夫。昨日帰ってきたからひと月は帰らないよ」
「……そうか」
思わず目を伏せると、器がにこりと微笑む。
「一緒じゃないと悲しいからさ。今夜は何もしないし、寝てくれるよね?」
「……わかった」
さっきよりもずっと断りにくい、断りたいと思わせない頼みだった。
こんな寂しい家で一夜を過ごさせるくらいなら、添い寝のひとつやふたつ安いとすら思えてくる。
「日付変わった瞬間、もう今夜じゃないとか言い出すなよ」
「げえっ」
一応念押しすると、器が図星の声をあげた。少し気持ちが冷めてきた。
「言わないな? 言わないよな?」
「……言いませーん。今日と明日は」
油断も隙もない器は、そのまま奥へと引っ込んで俺を手招きした。
「こっち、一景。俺の部屋。来て」
長い髪が揺れている。白くしなやかな手が俺を呼んでいる。つい近寄ってその手を握ると、器は当たり前みたいに握り返してきた。
器の肌から、そして俺の肌から、甘い匂いがした。長く抱きしめあっていたせいか、すっかり彼の香水が移っていた。
この匂いは未だに慣れない。ただつないだ手の温度はこの身体に馴染んでいて、俺はここでようやく気が付いたのだ。
「離れられないな……」
もう彼と別々に生きることを、考えられない。絡め取られたような気になって、それでも悪くないような気すらして、思わず笑ってしまった。
「よく分かんないけど、俺もそう思うよ」
本当によくわかっていない顔で、それなのに躊躇いもなく、器も頷いた。
マンションの中に入り、インターフォンに部屋番号を入力する。しかし返事はない。部屋番号を間違えたかと思ったが、無言のまま自動ドアが開いた。
「入れってことか……」
直接会うまで話したくないのかもしれない。口の中に溜まった唾液を飲み込みながら、自動ドアを潜り抜けた。
器の部屋は四階だ。エレベーターで行こうかと思ったが、使用中だったので階段をのぼる。
一歩一歩のぼるたび、器の元に近づいている実感があった。心臓は既に張り裂けそうな程強く鼓動している。風はここまで吹いてこないはずなのに、少しだけ身体が震えた。
階段はあっという間にのぼりきってしまい、とうとう彼の家の玄関まで辿りつく。
玄関に設置されたインターフォンに指を置く。覚悟を決めて一気にボタンを押し込む。
軽やかにチャイムの音が鳴った。しかし、人が出てくる様子はない。試しにドアノブへ手をかけると、玄関扉はあっさり開いてしまった。
鍵のかかっていない部屋。それは彼の無防備さを彷彿とさせる。
身体の奥から染み出す恐怖を踏み潰しながら、中に入った。
玄関は空っぽだった。ファミリータイプの広々としたつくりの中に、器の靴が一つだけ置かれている。なんか寒々しい。
靴を隣に並べ、短い廊下を進み、おそらくリビングに繋がるであろう扉を開けて進む。
「一景、来てくれたんだ」
リビングのソファーには、器がいた。彼は嬉しそうにこちらへ歩み寄ってくる。
しかしそれ以上に、この部屋の光景が俺の目を奪った。
部屋の中には大きな食卓やファミリー用ソファー、三つのスリッパ、三人分の椅子と言った、三人家族らしい品々が揃っている。
だがそれらは一人分を除き、使用された痕跡がなかった。
家族暮らしの体裁だけを整えたような、不自然で寂しい部屋だった。
「あのさ、一景。俺ね」
前に立った器が俺を見つめている。この部屋を当たり前みたいに受け入れて、俺に笑っている。
「お前、ここに住んでるのか」
「え?」
呆気にとられた声が聞こえた。器はかなり不思議そうにした後、とりあえずといった様子で頷く。
「そうだよ。ここ、俺の家。俺の部屋もあるよ」
そうか。ここが、器の家。
この不自然で、寒々しくて、空っぽで、世間体の為だけに三人暮らしの見た目をしている家が器の家なのか。
器の話を思い出した。両親と似ていないせいで二人が不仲になり、器を押し付け合った結果逆に離婚していないのだと。
「……あれって」
露骨に真新しい椅子を指さす。椅子に置かれたクッションはまるで新品だ。
あの見るからに誰も使っていない椅子が母親が父親の椅子なのか。そんな意味を込めた問いかけだったが、言葉足らずだった。
器は首を傾げ、椅子の近くに置いてあったスリッパを見てしまう。
「あー、ごめん。一景が来てくれると思ってたのに、来客用のスリッパ出てなかったね」
彼はスリッパを手に取ると、俺の足元に置いた。新しいスリッパだった。
「これ、父さんか母さんのだから、一景が使っていいよ。だってあの二人、帰ってこないし。家っぽくしたいからあるだけで、今まで一度も使ってるところ見たことないし」
ここに器の両親がいなくてよかった。
そうしたら俺が最初に取った行動は、彼らをぶん殴ることだっただろう。
「ここは俺一人だから、気兼ねしなくていいんだよ」
安心させるように言葉をかけられる。俺は黙って器を抱きしめた。
「えっ……」
器が驚きの声をあげるが、すぐさま甘えるように背中に手を回してくる。頬を寄せられるが、拒まなかった。
むしろ撫でるように頬を合わせ、その身体を強く抱き締める。
「ごめん、器」
言葉は意外とスムーズに出た。
「いいよ。襲ったことに謝ってるのか、怖いって言ったのを謝ってるのか、踊り場で突き飛ばしたことを謝ってるのかわかんないけど、全部許すよ」
って言うか、怒ってないし。そう囁いて、器は少しだけ身体を離す。
二人で目を合わせた。鼻と鼻が触れ合いそうな距離だった。
「あのさ、文化祭の時、俺もすっごく悪かったなって。一景に叱って欲しくて先生に手を出したけど、あれで一景にさせたかもって思ったよ。それに先生にも酷いことしちゃったし」
少しだけ申し訳なさそうに器が目を逸らし、もう一度俺を見やる。珍しい仕草だと思った。これだけ付き合っていても、彼のしおらしいところなんてほとんど見たことがなかったから。
「本当はね、あの時、ようやく一景のものになれると思って嬉しかったんだ。だからそれが叶わなかったのが嫌で……。もう一回やり直そうと思って襲った。一景が自分の行動にショック受けてるのにも気付いてたのに、襲ったんだ。セックスなんて大したことないって思ってたから」
怯えるように器の瞳が揺れた。
「でも、怖がらせただけだった。ごめんね、一景」
「そんな、お前のせいじゃ」
「さすがにここは俺のせいでしょ。謝らせてよ、一景」
器は俺にスマホを見せる。そこには『アカウント 削除』のボタンがあった。
いつの日か、器が押したボタンだ。
「アカウント、一定期間内なら復活できるけど……復活してから三十日以内にもう一回消すと完全に削除されるんだ」
スマホを手に押し付けられる。
「一景、消して」
液晶は熱を帯びていた。
「俺から差し出せるものなんてほとんどないけど、せめてこれだけは謝罪代わりにあげる」
「差し出すって」
「お前以外とセックスしないよ。これはその約束」
器が笑う。それは綺麗な笑みで、何故か酷く苦しくなった。
「……お願い、押して。俺、謝り方が分からない。押してくれなきゃ、一景に謝れないよ」
笑みから溢れる言葉が震えている。俺は黙ってボタンをタップした。アカウントは即座に消え『削除されました』の文言が浮かぶ。
ふ、と器が笑った。今度は安心したような笑みだった。だからもう一度彼の背に回して抱き締めた。
目の奥が熱い。ぼた、と涙が落ちて器の肌を汚して言った。
「嘘、泣いてる?」
慌てて器が身体を離してこちらを見ようとする。でも、抱き締める手は決して緩めなかった。
「え、えー……」
困惑しながらも器が優しく背をさすってくれる。慰めるような手つきが苦しくて、いちど強く目を閉じた。目に溜まっていた分の涙もぼろぼろと流れていった。
「泣かないで、一景。なんで泣いてるかは分かんないけど。俺のせいなら堪能した後に、謝るし。上手く謝れるか分からないけど」
数度背中を撫でたあと、器がゆっくりと身体を離そうとする。
丁寧な手つきだったので大人しく従うと、器は俺の顔を正面から見たあとに涙を舐めた。
「しょっぱい。美味しくない」
「……美味いわけ、ないだろ。そんなもん舐めるな……」
そう言ってもべろ、ともう一度舐められる。官能的な仕草と言うよりは、犬みたいだった。
「漫画だと甘いって書いてあったりするじゃん」
「それはフィクションだ……」
「うんうん。そうだねー」
返事の合間に何度も涙を舐められる。でも剥がす気は起きなかった。ようやく涙が止まると、目元に軽く口付けられる。あやすようなキスだった。
「なんで泣いてるの、一景」
器は困ったように笑っていた。その表情に愛おしさが滲んでいる。それが自惚れでも間違いでもないことは、十分に知っていた。
彼の背に回す手に、ぐっと力を込めた。それが伝わったのか器も一度瞬きをする。
「お前が好きだから」
「……」
器が俺を見た。さっきまでの表情はもうなく、そこにあるのは突然二足歩行を始めた犬を見るような目だった。
「ごめん、なんて?」
「お前が好きだから」
静かに器が瞬きをする。それから首を傾げた。
「はぁ……」
よくわかってい無さそうな返事だ。それも少しだけ、悲しい。
「お前も、俺が好きなんだよな」
器の手が柔らかくて、身体が温かい。今なら怖いと、踏み込めなかったその奥まで踏み込める気がした。
「好きだよ」
当たり前のように、恥じらいも躊躇いもなく器はそういう。
「でも、お前は付き合いたいって言わないよな。俺のものになりたいって、そればっかりだ」
「まぁ、俺は恋人じゃなくて一景のものになりたいだけだし」
「なんで?」
問いかけると、不思議そうにされた。しかしすぐに器は真面目な顔になり、自身の口元に触れる。
「お前が優しいから」
「……もっと具体的に」
わがままだなぁ、と笑われた。綺麗な笑みだ。壊れそうなくらいに。
「俺さぁ、なんか何しても満足できないんだよね。美味しいものを食べても、誰かと喋っても、心の中が空っぽなんだよ。ただ人の素肌に触れるとその気持ちを誤魔化せるんだ。で、だいたいの人はセックスすれば触らせてくれる。だから俺はセックスするの」
彼の瞳が希望を映すように煌めく。
「でも一景が口元を拭いてくれた瞬間、その空っぽがちょっと埋まった気がしたんだ。だから、好き」
彼は語る。自身の価値観が一般的なものであるかのように。
「だから俺、俺の全部を支払ってお前のものになれば、お前がまた同じことをしてくれるかなって思ったんだ」
彼は語る。変なところなんてまるでないみたいに、自然に。
「でも、そんな利益だけじゃないよ? それに一緒にいるうちに目いっぱい優しくしてもらって、一景のことがもっと好きになった。だんだん支払いとかじゃなくて、本気でお前のものになりたくなった」
窓から差し込む夕日がどんどん暗くなっていく。蛍光灯が自動的に明るくなり、部屋の中を無機質に照らした。
「お前の制服はいい。制服にチョークの粉がついたらはたいて貰えて、ブラシもかけてもらえる。お前のリュックはいい。底が抜けないよう荷物の量を調整してもらえる。お前のハンカチはいい。ポケットに入れる前にいつも畳んで貰える」
少しだけ、制服に爪をたてられる。嫉妬するみたいな仕草だった。
「お前の持ち物が羨ましかった。俺も同じようにして欲しい。だから、お前のものになりたいんだよ」
堪えていたはずの涙がもう一度落ちた。器がまた目元を舐めたので、自分で涙を拭った。口元に滑り落ちた涙は生温かくて、しょっぱかった。
「なんで泣くの、一景は意味わかんないなー。でも、これって多分俺のためだよね。嬉しいかも」
器の声が弾む。自分の話をひとつもおかしいと思ってなくて、俺の涙を心から喜んでいるのが分かって、ますます涙が出た。
「お前が怖い」
「うん」
「普通はそんなこと思わない。思わないんだよ」
「そっか。知らなかったな」
器は異常だ。本能は彼に怯え、俺の中に溜め込んだ常識は「彼はおかしい」と囁いている。
「……お前の話は、悲しい」
「うん?」
しかし恐怖以上の悲しみがあった。胸の内で燃えるそれは行き場を探し、涙になって流れ落ち続ける。
「悲しい……、悲しい。俺の話が?」
器は未知の言語を確かめるみたいに、もう一度「悲しい」と呟いた。その幼くて無知な仕草が本当に悲しかった。
彼は支払うといった、俺のものになりたいと言った。
それじゃあまるで、器の中で器は人間じゃないみたいだ。
「俺はお前が誰かに身体を明け渡そうとするのが見過ごせないって、言った」
「そうだね。確かに言われた」
「お前が心配だからだ」
「うん」
喉奥が引き攣る。涙が詰まり、声が濁る。
それでも器に語らなければいけない。
「お前が簡単に、俺にその身体を差し出すのが怖い。俺を受け入れるお前も、俺のものになりたがるお前も、支払いだとか言い出すのも、怖い」
器の手が涙を拭う。優しい手つきだ。だからこそ苦しくなる。
器のことが好きだ。落っこちるように好きになり、指先ひとつから魂の一片まで、彼を彼たらしめる全てを愛してしまった。その分だけ苦しくて仕方がない。
「お前はお前を守ろうとしない。お前にとってお前はものみたいで、使える道具みたいだ。そう言うのが、自分が大事じゃないみたいなのが、怖くて、悲しい。悲しいんだよ……」
涙で視界が歪んだ。その中でも器が俺を見つめていることだけはわかった。
「だから嫌がったんだ? 抱いてって言うの」
「……そうだ。嫌だ。文化祭の時もそうだ。あれは酷いことなんだ。そんな俺の事なんて許さないで欲しかった……」
ぼろぼろと涙が落ちる。保健室で飲んだスポーツドリンクの分がそろそろ無くなりそうだ。
それなのに涙は未だ熱く、胸の内は火傷でもしてるのかと錯覚するほど痛い。
だから痛みにつられて、口を滑らせた。
「そもそも、好きになった経緯が嫌なんだ俺は。俺以外にお前の血を拭うやつはもっといるべきで、それ以外にもお前に何かしてやる奴は沢山いるべきだ。あんなの普通のことなんだ。あれが初めてみたいなの、本当に、おかしいんだよ……」
身体の奥から隠していたものを引きずり出すように、それだけを一気に言った。
瞬間、不味いと頭が冷えた。しかし胸の内は熱く渦巻いたままで、身体の内側を冷たさと熱さが巡る。
今まで好き勝手に流れていた涙が引っ込んだ。こんなタイミングで落ち着いた視界の中、器がこちらを覗き込んでいる。
「じゃあ一景は好きになったことが間違いだったって、そういうの?」
器の声は淡々としていた。その表情にも変化はない。
だからこそ、何を考えているか分からない。
「……ごめん。そんな酷いこと言うつもりなくて」
申し訳ない気持ちはあった。
「でも、お前が『あんなこと』で人を好きになるほど、大事にされてないことに納得出来ない」
しかし、ここまで来たら本音を隠すことができない。
顔色を伺いつつそう言えば、器は何故かにっと笑った。そして俺の首に腕を回し、額を合わせてくる。
「じゃあ、これからあれが特別じゃないって俺に教えてよ。一景」
「え」
予想外の言葉に口が開く。けれど器は上機嫌のまま、俺を置いて勝手に話を進めてしまう。
「だって俺、一景の言ってること全然わかんない。一景がメソメソするなら直そうかなーとは思うけど具体的にどこをどう直せばいいのかさっぱりだし。正直、大事とか大事じゃないとか、そういうのほんと意味わかんないって思ってるからね?」
くすくす、器が笑う。少年らしい透き通るような笑みでありながら、どこか大人びた意味合いを含めた笑みでもあった。
「だから教えて、一景」
ぶつかった額から器の体温を感じる。いつも通りの甘い匂いが鼻をくすぐった。
彼の長い髪がベールみたいに垂れている。彼の体温が肌の中に滲んで、俺のものになっていく。
「自分を大事にするってこと、大事にされる人生っていうの、他でもないお前に教えて欲しい。お前が泣かないような俺になりたい。お前が納得できてなくても、今の俺はお前が好きなんだから」
「……」
上手く返事ができなかった。身体の中では色んな意見や感情が渦巻いて、言葉になるようなものがなくて。
「教授だから、そういうの得意でしょ?」
「……それは、俺がつけたあだ名じゃない……」
結局、最初に出たのはそんなどうでもいい言葉だった。
一度そう言ってしまうと急に色々どうでも良くなり、がくりと身体から力が抜けた。
「……わかった。俺が全部教えてやる。で、お前が色々勉強したあとに謝ることにする」
「え? 何、謝るって何の話?」
「……お前、その、手、出したこと。謝らないとだろ……」
あー、それかぁという顔をされた。全然気にしていない様が、やっぱり悲しい。
「そんなの、別にいいのに……って言うのが、一景は嫌なんだっけ?」
「そうだ。よくわかったな。偉いぞ」
「褒められた。でも、これくらいはね? 俺、現国の点数、結構高いよ」
「お前、筆者の気持ちを云々系の問題で点落としてるだろ。どれだけ一緒に勉強したと思ってるんだ。知ってるからな」
指摘しても器はけらりと笑い、甘えるように吐息を絡めて囁く。
「でも、実際問題、俺、一景になら襲われてもいいよ。実際好きって気持ちには変わらないから。って言うか俺が襲うし」
「……聞き捨てならない話をしたな、お前」
「あはは。今って二人きりだし、俺の家だし、もしかしてチャンス?」
押し倒すように体重をかけられたので足に力を入れ、その重さに対抗する。
「……あー、でも、そっか。そういうことか」
ぐいぐいと体重をかけながら、器はそう呟いた。完全に余計なことに気がついた口ぶりだった。
今のうちに口を塞いでやった方がいいかと迷っているうちに、器はにやりと笑って話し始める。
「一景って俺に性欲あるんだよね? だって襲ったから。独占欲で性欲だよね?」
「…………」
答えたくない。口をぐっと閉じたが、この時点で答えを言ってるのと同じだ。
器が「じゃあ、別の質問しよっか」とにやにや笑いを止めないまま問いかける。
「一景は俺に『大事にする、される』っていうのを教えてくれるんだよね?」
「……あぁ、そうだ。俺が教えてやる」
ここで頷くと、多分ろくでもないことを言われる。でもこの言葉を否定することはできない。
器が目を細めた。チェシャ猫みたいに。
「じゃあ俺は、誘惑って言うのを教えてあげる」
蠱惑的に囁かれた。先程まであった甘い匂いが一気に濃くなった気がする。触れた体温がやたら鮮明に感じられた。
首筋を爪先でなぞられる。ぞく、と腹の底が疼く。
「だって、一景の言いたいことわかんないし。何より一景は『大事』ってことに囚われてるから悲しんだりするんでしょ? じゃあ俺が、それを忘れさせてあげるから」
甘い、甘い声が注がれる。脳の心を溶かす声だ。聞けば聞くほど理性を蝕むと分かっているのに、拒めない。
「本能で気持ちいいことして、それだけでいっぱいになるようにしてあげる。悲しみなんて入らないくらい、大事とか大事じゃないとか考えられないくらい」
するり、と彼の指先がうなじを這った。産毛をくすぐられ、息が詰まる。
「もう俺が、お前を悲しませたりしないよ」
それは、とんでもない力技だ。
「お前、正気か?」
「正気、正気。ちゃんと一景の言うこときこうかなって思ったけど、俺が従順なのも悲しいんでしょ? じゃあ俺ができる悲しませない方法って、これだし」
「……」
彼がこれしかないというのも、悲しい。
でも俺の悲しみばかり押し付けられない。それに悲しませたくないという気持ちは、少し嬉しかった。
だから、彼に笑みを作った。
「じゃあ、勝負だな」
「そうかもね。でも一景が教えてくれることも楽しみに思ってるから。俺、一景に人生を変えられるの超楽しみ! 早く作り直して欲しい!」
「……そういうところだぞ」
この自分を物のように扱う様も悲しいのだが、ここもおいおい俺が教えていくしかないのだろう。
教授。これはただのあだ名だったはずなのに、こんなことになるなんて。
「って言うかさ、キスしてよ」
不意に器がそう言って、何か企んでいる時の笑みを見せた。嫌な予感がした。
「してくれたらお前に襲われたこと、怖いって言われたこと、気持ちを否定されたこと、全部チャラにしてあげるから」
「げっ!」
「どう? 一景からぜひキスさせてくださいお願いしますってするくらい好条件でしょ?」
そう言われると断れない。思わず後退りそうになるが、その分距離を詰められた。
「な、なんで急に」
「急じゃないよ。いつもしたいなーって思ってる。それに何より、俺を避けてた一景がアカウント見てここまで飛び込んできてくれたんだから。超嬉しい。これはキスしないと収まらないよ」
そう言われると、セックスしなきゃ収まらないとか言われるよりマシな気がしてきてきた。完全に毒されている。
「それに、拒否できる立場だと思ってる?」
「ぐっ……! 全然気にしてなかったくせに、ここぞとばかりに……!」
「あ、口にしてね。きつねじゃないよ? 一景の口でね」
逃げ道も塞がれた。渋々唇を寄せる。
「…………」
無言で、しかし期待に満ちた瞳で見つめられる。何度目かのキスだと言うのにこんなにも緊張するのは、一度好きだと自覚してしまったからか。
僅かに強ばる指先を握り締め、ええいままよとその口に唇を押し付ける。
柔い唇だった。単純に肌を触れ合わせているだけなのに、背筋の辺りがぞわぞわする。それが性欲なのかキスの快感なのかは、いまいちよく分からない。
誘うように腰を撫でられた。まずいと思って唇を離す。
「舌、入れて」
瞬間、そう囁かれた。
「無理。パス。無理!」
「じゃあ入れさせて。えげつないキスさせてよ」
「…………」
「どんなキスしてもらえるかって、俺が決められるよね?」
「ぐっ……! お前は本当に、本当に!」
だが罪があるのはこっちだ。キスひとつでチャラにして貰えるだけ感謝するべき立場なのだ。
そう、俺が悪い。本当に俺が悪い。やるしかない。
「わぁ、すごく嫌そうな顔」
「嫌だからな……」
「えー、その顔、マジでいい。やっぱ俺が抱いていい?」
黙ってもう一度キスをした。こちらの口に入り込もうとするその舌をねじ伏せ、器の口に舌を入れる。
彼の舌は唇より柔らかかった。歓迎するように舌の表面を舐められる。
自分から舌を入れるのは二度目だが、冷静な状態でするのは初めてだ。いざやってみたら気持ちよさとか背徳感とか以前に困惑が勝る。最初に相手の口に舌を突っ込もうと思ったのはどこの誰なんだろう。
とりあえず器の舌を舐めてみた。器も甘えるように舌を寄せてくるが、これが正解なのか分からない。ただ器の口内は熱くて柔らかくて、そこに舌を這わせる感覚は悪くなかった。
もう一度だけ舌を擦り合わせ、唇を離す。器が露骨に不満そうな顔をした。
「短くない? あとやってること少なくない?」
「短くない。やってることは……まぁ、その、あれだ。今はレパートリーが少ないから……」
「じゃあそこは俺が教えてあげる。ありとあらゆる人間を泣くほど絶頂させるキスのやり方」
知りたくない。
「ここで教えてあげてもいいんだけど……。一景はそういうことしたくないんだよね?」
ぱ、と器が腕を解いて俺から離れた。俺の服にすっかり彼の体温が移っている。
「したくないというか……お前にそういうのを許して欲しくない」
「じゃあしたいことはしたいんだ」
「……ひ、否定しきれない……」
「脈アリで何より」
彼のにやにやした笑いに喜びが滲む。それがどうにも悲しい気がしたけれど、これで喜ばれるのが嬉しいとも思ってしまう。少しだけ。
器は俺の胸にもたれ、くるくると胸元に円を描いてきた。
「で、さ。一景は俺に大事にされる人生っていうのを教えてくれるんだよね? それって俺にとっていいことしてくれるってことだよね?」
「お前、何か頼む気だろ。言質取ろうとするな。何回も言わせようとするな。もうキス……とか、そういうのしないからな」
彼が飛びかかってくる前に何歩か引いて距離を取る。器は笑みを崩さず、露骨な猫撫で声で言った。
「今日、泊まってってよ。一人じゃ嫌だな、俺」
演技じみた上目遣いでこちらを見やる器。白々しい。
しかしこうやってお願いする時は、彼も結構本気だ。なんとなくわかってきた。
「……明日も学校だろ。制服、どうするんだよ」
一応そう言ってみるが、断れる気がしない。だいたい相手が誰であれ、頼み事には弱いのだ。器からの頼み事なら尚更だ。
「乾燥機あるから制服くらい余裕で乾くって。パジャマも下着も貸すし」
「あ、明日の分の教科書もない。明日の予習ができない」
「うわ、学校に教科書とか置いてきてないんだ。真面目~~」
でも好き、と器が囁く。彼はにこっと笑ったあと、自身の制服に手をかけた。あっという間にボタンが二つ外れ、胸の辺りが露出する。
「一景……。予習とか復習するより、俺に教えることがいっぱいあると思わない? 服を脱いじゃだめなタイミングとか」
「わかった、泊まる、泊まる!」
慌てて彼の服を掴み、ボタンをとめなおした。ついでに上着も整えてやる。
「いえーい。ベッドひとつしかないから一緒に寝よ」
ピースされる。されても困る。
「嫌だ。そこのソファー貸せよ……いや、万が一両親帰ってきた時にここにいたら迷惑か。一応たまに帰ってくるんだよな?」
「大丈夫。昨日帰ってきたからひと月は帰らないよ」
「……そうか」
思わず目を伏せると、器がにこりと微笑む。
「一緒じゃないと悲しいからさ。今夜は何もしないし、寝てくれるよね?」
「……わかった」
さっきよりもずっと断りにくい、断りたいと思わせない頼みだった。
こんな寂しい家で一夜を過ごさせるくらいなら、添い寝のひとつやふたつ安いとすら思えてくる。
「日付変わった瞬間、もう今夜じゃないとか言い出すなよ」
「げえっ」
一応念押しすると、器が図星の声をあげた。少し気持ちが冷めてきた。
「言わないな? 言わないよな?」
「……言いませーん。今日と明日は」
油断も隙もない器は、そのまま奥へと引っ込んで俺を手招きした。
「こっち、一景。俺の部屋。来て」
長い髪が揺れている。白くしなやかな手が俺を呼んでいる。つい近寄ってその手を握ると、器は当たり前みたいに握り返してきた。
器の肌から、そして俺の肌から、甘い匂いがした。長く抱きしめあっていたせいか、すっかり彼の香水が移っていた。
この匂いは未だに慣れない。ただつないだ手の温度はこの身体に馴染んでいて、俺はここでようやく気が付いたのだ。
「離れられないな……」
もう彼と別々に生きることを、考えられない。絡め取られたような気になって、それでも悪くないような気すらして、思わず笑ってしまった。
「よく分かんないけど、俺もそう思うよ」
本当によくわかっていない顔で、それなのに躊躇いもなく、器も頷いた。

