チョコレートフィクション

文化祭が終わり、文化祭の振り返りとして休みだった月曜日も終わり、火曜日。
今日からいつも通りの授業が再開される。しかし器を迎えには行かなかった。
事前に「迎えに行けない」とメッセージ入れたものの、既読になるのを見るのすら怖くて通知は切ってしまった。
久しぶりに一人で通学路を歩く。この数日全く眠れておらず、脳の芯がぼんやりしていた。同時に頭を締め付けるような頭痛もする。
両親は俺を見て「今日は休もう」と説得してきたが、それは出来なかった。
脳裏には常に器のことが浮かんでいた。文化祭での全ては俺が悪かったと思う。しかし同時に彼を恐れる気持ちがあって、恐れてしまう自分が許せない。
学校が近づくにつれ足が重くなる。俺は身体を引きずるようにして教室へ向かった。
いつもならすれ違う人々から挨拶をされるのに、誰も俺に声をかけなかった。
「…………」
無言のまま教室に入る。既に教室にいた砥石と向風がこちらを見たが、二人とも慌てた様子で視線を逸らした。ひそひそと話し合うふたりを横目に自分の席に座り、机につっ伏す。
誰かが「教授、風邪?」「蝶番くんと登校してこなかったね」「揉めた?」と噂しているのが聞こえる。
器はまだ教室に来ていなかった。時間ギリギリに登校すれば良かったなと思いつつ、目を閉じる。眠気が襲ってくるが、それ以上に胸の中が痛い。
器が誰かと触れ合うのが嫌だった。独占欲と呼ばれるであろうあれは、本当におぞましい感情だった。自分が器にそんな欲求をぶつけてしまう人間だと思いたくなかった。
自己嫌悪と後悔が押し寄せている。うっすらと吐き気が込みあがってきたところで、教室がざわめいた。顔をあげると、器が教室に入ってくるのが見えた。
視線を逸らそうとするが、それより目が合ってしまう。器はにこりと微笑んだ。
「おはよ、一景」
いつも通りの挨拶だった。浮かんでいるのは無邪気な笑みでも妖艶な笑みでもなく、場に合わせて作り上げたような偽物の笑みだ。
「……おは、よう」
見たこともないその表情に何を言えばいいか分からない。器が怒っているのか、悲しんでいるかもわからなかった。
そのまま器は席に座る。これ以上器を見ていられなくて、俺は自分の手に視線を落とした。
色々な考えが絡み合い、胸の奥で泥のように濁った感情が蠢いている。結局なんの答えも出ないまま、朝のホールルームが始まった。


当然、授業には身が入らなかった。内々から湧き上がるものに耐えかねているうちに昼休みとなり、俺は弁当を持って慌てて教室を出る。
砥石と向風が呼び止めようと口を開いたのが見えたが、悪いけど無視した。とにかく器から離れるのが先だ。
人気がない場所へ向かう。しかし特別棟には近付きたくなくて、俺は校舎の隅にある階段の踊り場に座り込んだ。誰かが通りかかる可能性はあるが、あの教室にいるよりずっとマシだ。
「はぁ……」
ようやくまともに呼吸ができた。弁当を抱えたまま、ずるずると座り込む。
腹が減っているはずなのに食べる気にならない。ふと、器を押し倒した時の光景を思い出した。器の肌の色が、熱が、感触が、そしてあの日の昂りが勝手に蘇る。
ここ数日でまとわりつくようになったその妄想を振り払い、床に座ったまま弁当箱を開けた。
弁当箱には唐揚げと、生姜焼きと、肉入りチャプチェと、スコッチエッグが入っていた。しかも弁当箱に貼られた付箋には『早退しても大丈夫だよ』と書いてある。添えられたおにぎりはいつもより大きい。
栄養ガン無視のメニューから両親の気持ちが伝わってきて、絶望感が強くなる。
一口、二口と食べ進めた。美味しいはずなのに味はなく、砂でも噛んでいるようだ。
食べ終わっても昼休みはまだまだあった。時間がわざとらしいほど長く感じる。
弁当箱を片付けつつ、もう何度目か分からないため息をついた。
辛い。苦しい。けれどこの苦しみから解放されることはない。じっと生活を繰り返し、耐え忍ぶしかない。
器に謝ることも考えた。でも、謝るって言ったって、どうやって。
そこで足音がした。身構えるよりも先に、階段の上から誰かが飛び跳ねる音がする。
「よっと」
階段から飛び降りたのは、他でもない器だった。
長い髪が踊り、金を紡いだみたいにきらきら光る。自由落下する彼が俺を見つけ、安心したように笑った。
「いた、一景」
俺は反射的に彼へ駆け寄り、その身体を受け止めようとする。しかし間に合わず、器は倒れ込むように着地した。
見るからに衝撃を殺しきれてない着地だ。器が痛そうに口元を歪め、背筋が冷たくなる。
「器!?」
蹲る器の肩に触れる。肩の感触に文化祭での記憶が疼いたが、それどころではない。
「怪我してないか!? お前、なんであんな危ないこと」
「注目。ここでクイズ」
話を遮りながら器が指を立てる。淡いピンク色の爪が宝石みたいに光っていた。
に、と器が子供っぽく笑う。
「どうして俺は、飛び降りたと思う?」
器の頬には汗が浮かんでいた。首筋に髪が張り付き、服はいつもより乱れている。呼吸も僅かに荒い。
彼がさっきまで走っていたのは明白だ。しかし今の彼は走り出す素振りを見せない。
それはつまり、もう走る必要がないから。
「……俺を探してた、から……?」
身体の内側が一気に冷たくなった。それなのに器は正解を喜ぶように笑みを明るくする。
「そうだよ。校舎中走って、一景のこと探してたんだ」
器が抱きついてきた。拒むことは出来なかった。
「階段降りる時間も惜しくて、飛び降りちゃった」
そんな理由で飛び降りたのか。
階段から、しかも一番上から飛び降りるなんて危ないに決まっているのに。そんなことを簡単にしてしまうのか、器は。
「でも、すぐ見つかって良かったー」
頬を擦り合わせられる。汗で濡れた肌が張りついてくる。
体温のせいか、いつもよりも甘い匂いが強烈だった。
「一景、好きだよ」
ここに人はいない。しかしここが階段の踊り場という開けた場所であることには変わりない。それなのに器は俺の背中に手を回してくる。
「あの日、どうして抱いてくれなかったの」
声が熱っぽく注ぎ込まれる。彼の唇が耳を掠める度、背筋がぞわぞわした。
暴かれたくない熱を暴かれて、簡単にその気になっていく身体にも吐き気がする。
「ようやくお前のものになれると思ったのに、俺の何が不満だったの? 俺の何が足りなかったの?」
与えられる言葉の意味を理解したくなかった。器の声が寂しそうに震えるのが嫌だった。
ひとつになりたいと強請るように服を捲られ、背中を直接指でなぞられる。背中のくぼみに溜まった汗が、彼の指を伝っていくのがわかった。
「はぁ……走ったから汗かいちゃった。こういうのってやっぱり好みじゃない? ね、それなら、俺の家に来てよ。ちゃんとシャワー浴びるし」
焦るように器の声が上擦っていく。
「放課後……って言うか今から行かない? 本当は授業を受けてる一景が好きなんだけど、今日は一緒にサボりたいかも。それで今度こそ、抱いてよ」
縋るように触れられる。背中を撫でる指が濡れているのは、俺の汗のせいだろうか。それとも器の汗のせいだろうか。
彼が少しだけ身体を離して、軽くキスをした。
「だから一景、俺じゃだめなんて言わないで」
怖い。
「お前のにしてよ。お願い」
気持ち悪くて、全部、吐きそうだ。
「……無理だ」
喉奥が引き攣り、掠れた声が出た。器が驚いた目で俺を見たあと、傷ついたようにその目を細める。
そんな目をさせたくないと思うのに、俺は目の前の器に心が怯えきっていた。
「……それは、俺じゃだめってこと?」
「違う」
「じゃあ説明してよ。わかんないよ、一景」
器が俺を抱き締めた。制服に皺がよる。深く、深く。
「……怖い」
絞り出すように言った。器は分からないとでも言いたげな顔をした。
「何が」
「お前が」
俺の声はすっかり震えていた。自分が加害者だったことも忘れ、自分に縋ってくる少年を見下ろす。
「お前が、怖い……」
器が一度目を閉じた。言葉を咀嚼するような仕草だった。
次に器は目を伏せた。何よりも深く傷ついた仕草だった。
その次に器は息をついた。ぬるい諦めがこもった仕草だった。
最後に器は笑った。残ったものをかき集めて、急拵えで作り上げたはりぼての笑顔だった。
「そっか」
彼は俺から手を離すと、現れた時同様にあっさりと消えていく。階段を降りる背中が遠ざかっていくのを、俺は引き止められなかった。
むしろ俺は器が消えることに安堵すらしていた。そして、そう思う自分を嫌悪していた。
昼休みが終わって教室に戻る。授業の開始時間になっても、器は戻ってこなかった。
「あいつ、サボり癖再発か?」
授業に来た先生は困ったように俺を見たが、慌てて目を逸らした。
自分がどんな顔をしているのかは、分からなかった。