チョコレートフィクション

人混みを縫うように廊下を走り抜け、階段を二段飛ばしで駆け上がる。息が切れて、頭がくらくらした。酸素が足りないと心臓が叫んでいるが、今は無視して足を働かせる。
頭の中に器の顔が浮かんでいた。唸る感情で胸の内が張り裂けそうになる。息が苦しいのはきっと、走っているからだけではないだろう。
今日、確実に人が来ないのは特別棟四階くらいだ。そこを目指して一気に駆け上がる。
喧騒から離れ、四階に辿り着いても不安は拭えなかった。
走って一番奥の教室を目指す。器と先生のキスを目撃した、あの部屋。この奇妙な関係が始まった部屋へ。
扉を開けるのすらもどかしく、扉の隙間に身体をねじ込むようにして教室に飛び込む。
「器!」
思った通りそこには器がいた。先生とともに。
「あ……」
さぁ、と先生が顔を青ざめさせる。しかしそんなことはどうでもいい。
器は先生の背に手を回し、先生も同様に彼の背に手を回していた。しかも二人は恋人のように顔を寄せあっている。唇は触れ合う直前だ。
「一景」
器が驚いたように俺の名前を呼んだ。しかしその驚きは一瞬で、彼は少し安心したように顔を綻ばせてみせる。
「……せん、せい」
俺と先生は互いの顔を見つめ、固まっていた。喉が痛いくらいに乾いている。多分、先生も同じだろう。
視線を逸らしたら死んでしまうような、どうしようもない緊張感が漂っていた。
「留金くん……あの、これは……」
先生は言い訳にもならない言葉を吐いて、非を認めるように目を逸らした。その仕草にかぁっと頭の中が熱くなる。
「器から離れてください」
「その」
彼女は動かない。
「離せよ!!」
思わず怒鳴る。空気が殴られたように震えた。怒気の籠った声に慌てて自身の口を塞ぐ。
しかし何もかもが手遅れで、先生は青い顔をますます青くした後「ごめんなさい」と小さく呟いて逃げていった。
足音が遠ざかっていく。教室に俺と器、二人だけが取り残される。
「一景、来てくれたんだ」
器は俺の名前を呼び、俺の方に歩み寄り、俺の首に腕を回してくる。
もう慣れた香水の甘い匂い。それとは別に、彼の唇からココアの匂いがした。
喉の奥が、内側から引き裂かれそうなほどに痛かった。
「……器」
頭がぐらぐらしていた。気持ち悪くて吐きそうな上、血が沸騰するように熱くて仕方ない。行き場の無い熱が身体の内側を巡り続け、俺の何かを壊していく。
彼の頬に手をあてると、器は目を細めて笑った。誘惑じみた笑みにも見えたし、無邪気な少年らしい笑みにも見えた。
「ねぇ、俺。ちゃんとね」
器が何か言おうとする。その先を聞きたくなくて、でもどうすればいいか分からずに首を振った。
「……んー、そっか、なるほどね」
彼の笑みがかちりと、スイッチを切り替えるみたいにして妖艶なものに変わる。
それから器はわざとらしく俺の耳元に吐息をこぼして、囁いた。
「俺、せんせと何もしてないよ? ちょーっと触っただけ」
「どこ」
圧のかかった言葉に自分でも戸惑う。しかし、やめられない。
「腰とか、背中とか? あと……首とか」
器はそんな中で、自身の腰に手を這わせた。しっとりとした指先が目に焼き付き、頭の中がますますぐらぐらする。
手を伸ばして彼の腰に触れた。制服が煩わしく感じる中、指先を押し付けながら腰に手を回す。ずる、と制服が擦れる音が響いた。
「背中も……首も、触って」
とん、と彼の肩甲骨辺りに指を置いた。半円を描くようにその指をゆっくりと上へ滑らせ、彼の首筋にも触れる。汗ばんだ肌の感触が腹の底を熱く掻き立てていく。
何か醜悪な衝動が俺を乗っ取ろうとしている。それを理解しているのに抗えない。
「これだけか?」
「そうだよ。ここだけ」
器は笑ってそう答える。心の内に安堵が滲んだ。器が何もしてなかったという安堵ではない。これ以上この衝動を燃やさずに済むという安堵だ。
しかし、それを見透かしたように器は笑みを深めた。
「今日は、ね」
気が付けば、その場で器を押し倒していた。器は抗うことなく身を委ね、その場に倒れ込む。その妙に慣れた動きが俺の頭の中にあった重要なものをぶっ壊していく。
自分の中にあるものを言葉に出来ないまま、彼の唇に自身の唇を被せた。これ以上どう侵食すればいいか分からなかったが、器は導くように口を開き唇を舐めてくる。
だからそこに舌を入れた。器は飴でも舐めるみたいに俺の舌を舐めた。ぐちゅ、と内臓を掻き回すような音が響いて吐き気がする。
けれど止められない。舌を擦り付けて、唇を噛む。
どうにかして、彼の中に何かを残したかった。
「ん……」
大袈裟に喉奥を鳴らし、器がぐっと顔を寄せる。経験が透けるその行為が目障りだった。
だからつい、彼の舌を噛んでしまった。びくりと器の舌が震えたあと、謝るように俺の唇をつつく。
謝らないで欲しい。俺が悪いのだ。だけれど、苦しくてやめられない。
俺の手が彼の肌を滑っていく。器は俺を止めようとはせず、むしろ自らワイシャツのボタンを外し始めた。
「一景、触って。はやくお前のものにして」
キスの合間にそんな言葉を囁かれる。ぷつ、ぷつとボタンがひとつずつ外れる。
その音すらうざったくて、俺は最後のボタンを自らの手で外してやった。
器のワイシャツが開かれ、薄い肌着一枚になる。
「こうなるって分かってたら、下着、着てこなかったんだけどな」
器は自ら肌着を捲りあげた。胸元や腹があっさりとあらわになり、白い肌が脳の奥深くまで欲望を煽ってくる。
彼の胸元を撫でた。硬くて、しっとりとしていた。服越しに触れるのでは決して知ることができない、生々しい湿度だ。
でもこの湿度を知っているのは俺だけではない。この教室でキスをされた時から十分わかっていたはずなのに、今はその事実が苦しかった。
「くすぐったい、一景」
甘えるような瞳で器が笑う。苦しい。辛い。身体がばらばらになりそうだ。
招くように器が俺の身体を撫で、ワイシャツのボタンに触れる。ぷつ、とボタンが一つだけ外された。
「くすぐったくて、気持ちいいよ」
苦しい、辛い、気持ち悪い。
でも、それ以上に彼のことをどうにかしたい。
黙って器のズボンに指を引っ掛けた。器は笑って自らベルトを外した。金具の音が教室の中に響く。文化祭の喧騒がとても、とても遠い。
これ以上はまずい。本当に取り返しがつかなくなる。なけなしの理性はそれを理解しているのに、焼ける衝動がそれを許さない。
彼のズボンを下着ごと、少しだけ下げた。鼠径部がみえた。ほくろも傷もシミもない、真っ白な肌と滑らかなくぼみがそこにあった。
「一景、俺はさ、」
全てを委ねるように器が俺の背に手を回す。唇が唾液で淫靡に艷めいている。
鼠径部に指を押し当てる。脂肪の柔らかさと筋肉のしなやかさがあった。
器が嬉しそうに笑った。
「この教室でお前と会った日から、ずっとお前のものになりたかったんだ」
強烈な吐き気がした。思わず口元を押さえてその場で嘔吐く。器が慌てて俺の背をさすった。
「一景、一景!?」
「ごほっ……けほっ」
吐き気はするのに何も出てこない。ぬるい唾液だけが汚らしく手を濡らしている。
背中をさする手は優しくて、俺を見つめる器の目には純粋な心配が浮かんでいる。だからより吐き気が強くなった。
頭が痛い。心臓が暴れるように鳴っている。胃の奥がゆっくり蠢き、何かを吐き出させようとしてくる。
「ごめ、ん」
指の隙間から唾液が落ちた。上滑りするような謝罪の言葉が気持ち悪かった。
器は一度不思議そうな顔で俺を見て、それから優しく背中を撫でてくれる。
「いいよ、一景」
彼の声は甘い。内臓も思考も無責任に腐ってしまいそうなくらいに。
汗ばんだ肌から、俺があらわにしたその肌から甘い匂いがする。こいつは腰にも香水をつけているんだなと、場違いなことを思った。
器が笑う。声にも、香水にも負けないほど甘く。
「もっと、好きにして」
吐き気が酷くなった。思わず後ずさる。窓から差し込む光が怖いくらい眩しかった。
どこからか聞こえる喧騒は俺を責めているかのようだ。
「器」
後ずさった俺に対し、器は驚いていた。そんな彼になにか言おうとして、何も言えなかった。
だから背を向けて逃げた。廊下をみっともなく走り抜けて、特別棟からも逃げ出して、学校の隅で何度も嘔吐いた。
こんなにも吐きそうなのに吐き出せるものはやはりなく、唾液がぼとぼとと落ちていくだけだった。
俺は器のことが好きだ。恋愛的に。
その事実にこんな形で気付いてしまった。
「器、どうして……」
しかしその気付き以上に俺を支配しているのは器の笑みだ。俺を許して、俺のものになりたいと囁く彼のことだ。
「どうして、許したりなんかするんだ」
俺はその日、早退した。両親は俺を心配してくれたが、それすら振り払って自室のベッドに引きこもった。
二人で見ようと決めた花火は見えず、この部屋には音すら届かなかった。