チョコレートフィクション

校舎全部を使った謎解き、体育館でのダンスパフォーマンス、校庭で開催中のフリーマーケット。あれやこれやを楽しんでいれば、気が付くと昼時になっていた。
「この時間は食べ物系の屋台、結構混むね」
器はそう言いながら人混みの中を進んでいく。彼の言う通り、たこ焼きやクレープといった食事になりそうな屋台はどれも混んでいた。文化祭に合わせて通常営業している食堂も、当然混んでいる。
「器は何食べたいんだ?」
あちこちから漂うソースや砂糖の焦げる匂いが食欲を唆り、腹が減ってくる。
「お。一景、俺の希望に合わせてくれる感じ?」
「誕生日、だからな。当日じゃないけど」
ちょっと嫌味っぽく言ってやるが、器は涼しげな表情で躱す。そしてくるりと周囲を見渡したあと、窓の外に見える自動販売機を指さした。
「今一番混んでると思うから、飲み物でも買って落ち着くの待とうよ」
「そうだな。それもありか」
「俺、飲み物買ってくる。一景は中庭のベンチを確保しといて」
器はそう言って去っていく。俺も急いで中庭に出て、運良く空いてたベンチをひとつ確保した。
中庭は休憩スペースとして解放されており、生徒や参加者が座っている。何か食べている人も多く、つられてますます腹が減ってきた。
「思ったより腹減ったな……」
来年は早めに昼食を確保しようと決めていれば、器が中庭にやってきた。
彼は周囲をぐるりと見て、俺を見つけると目を細めて笑う。
それは一目見てわかるほど、特別な感情を滲ませた笑みだった。何となく心の奥底がざわざわする。
「ただいま、一景」
器は俺にココアと書かれた缶を差し出した。二本ある。
「おかえり。……紅茶じゃなくてココア買ってきたのか」
「今は腹にたまるやつの方がいいでしょ。一景の分どうするかきき忘れたから、同じやつね」
はい、とココアの缶を渡される。温かいやつかと思ったが、冷たいやつだった。
「そういえば器ってアイス派だっけ」
「そうだよ。覚えててくれて、嬉しい」
缶を開けて飲み込めば、苦味を伴った甘さが口の中を滑り抜けていく。器が缶を差し出してきたのでそれも開けてやった。
「久々に飲んだけどやっぱり美味いな。ココア」
「俺も久々。でも美味い」
ミルクのマイルドさも、口の中に残るココアのざらつきも、なんだか懐かしい。ゆっくりとココアを飲んでいると、器が少しだけ俺の方に身体を寄せた。
不自然にならないような動作だった。だから彼が身を寄せたことも、その一瞬で俺に囁きかけたことも、俺以外は気がついていないだろう。
「そういえば、チョコレートって惚れ薬だったらしいよ」
器の肌から少しだけ、あの甘い匂いがした。
「俺の事、好きになってきた?」
あくまで友達みたいな距離感を保ちつつ、彼はそう問いかけてくる。しかしその声はココア以上に甘く、視線は火傷しそうなほど熱い。
「……ココアは、チョコレートじゃない。だから惚れ薬じゃない……」
器のことが直視できなくて、声が少しだけ上擦った。
「カカオ成分が惚れ薬なんだよ。一景ならそれくらい知ってるよね」
知っている。そして器はそれを見透かしている。
目を逸らそうとすれば、器が俺の指先に自身の指先を触れさせた。
急に周囲のざわめきが遠ざかる。触れ合った指先の感覚だけが熱いほど鮮明になる。
今までもっと過激に迫られたことは何度もあった。そのはずなのに、たったこれだけで息が詰まる。
「みんな文化祭に夢中で俺たちのことなんて気にしてないんだから、何言ってもいいよ」
頭がぐるぐるする。何故かすぐ耳元で囁かれているような心地になる。指先が触れているだけなのに、身体をぴったりと寄せられているような気がする。
目眩がした。熱に浮かされるような、どうしようもない目眩だ。
「そろそろ、俺の事好きになってきたでしょ?」
何か言おうと思ったのに、喉がひきつるだけで終わってしまった。器がうっそりと微笑んで、少しだけ俺の方に身体を傾けた。
ピリリリリ! と俺のスマホから甲高い電子音がした。はっと我に返りスマホを手に取る。誰が電話をかけてきたかも確認せずボタンを押した。
「もしもし!!」
『え、な、なんで食い気味? 機嫌悪い?』
電話の向こうから聞こえたのはクラスメイトの声だった。ビビり散らかしているその声を聞いて、慌てて声を潜める。
「いや、なんでもない。なんだ?」
『や、ちょっと悪いんだけど、部活の方でトラブルがあって……。どうしてもそっち行く必要あってさ。今から展示の受付係してくれないか? もちろん早く来た分、早く帰っていいから』
俺はそう言われて器を見た。隣にいた器も電話内容をしっかり聞いていたようで、頷く。
「全然いいよ。時間前倒しになるだけでしょ? 行ってきなよ」
「あ、ありがと」
「いいって。俺、さっき言った通り親切な一景が好きだから。ほんと気にしないで」
受付係を歓迎するように微笑まれる。何故か心の底がざわついた。
「……じゃあ、今行く」
スマホにそう告げると、電話越しでもわかるほど相手の声が嬉しそうに跳ね上がる。
『助かる! マジいつも感謝、受付椅子の裏に唐揚げ屋台クーポン貼っておくから回収してくれよな!』
電話はそのまま切れた。一応立ち上がるものの、足は妙に重い。どうしてかは分からない。
「一景? 何立ってるの、早く行きなよ」
器がココアを飲みながら俺を見上げる。俺は残りのココアを飲み干した。甘ったるく、苦い何かが喉の奥へと流れて行った。
「行ってくる、器。待っててくれ」
器は笑い、俺に手を振る。
「いってらっしゃーい。缶は捨てとくね」
缶を預け、多目的ホールへ向かう。器の視線が最後まで背中に突き刺さっていた。


一景の背中が見えなくなり、俺は息をついた。残ったココアを飲みつつ、缶を抱える。
「一景、テンション下がってたなー。ついて行きたいっていえばよかったかな」
一景が受付係をするのは事前に聞いていた。彼はずっと一緒では無いことを少し申し訳なさそうにしていたが、俺は全然構わない。誰かに頼られる一景が好きだから。
「でも、仕事の邪魔はできないしなぁ」
それはそれとして、行ってらっしゃいと言った時、一景は残念そうに見えた。
もしかしてあいつ、独占欲を見せる子の方が好みなのだろうか。
「うーん……」
好みには合わせたいが、一景の人生の邪魔はしたくない。まぁ大したことでは無いので、必要に応じて考えるようにしよう。
しかし、急に時間があいてしまった。文化祭をひとりで回ってもいいのだが、ナンパされるのが面倒だ
というか、この時点であちこちから視線を感じる。一景といちゃつくのをやめた途端にこれだ。いっそ人に見つからない場所で時間を潰した方がいいかもしれない。
そうすれば
「誰にも見つからない場所で、ちゃんといい子にしてたよ?」
と、一景に報告出来るわけだし。褒めてくれるかも。
「それじゃあ……やっぱ、特別棟の四階かな」
特別棟は文化祭の出し物で賑わっているが、その四階は封鎖されている。邪魔な荷物や機材を四階に放り込んでいるからだ。
封鎖されているから一般客は来ない。文化祭で使わない物を詰め込んでいるので生徒も来ない。あそこは今日も人のこない秘境だ。
そう考えるとさっさと移動するのがいいように思えてきた。視線を無視して特別棟へ向かう。
大勢の人たちとすれ違い、遠ざかり、人混みを縫うようにして前に進んでいく。その時、誰かの手が俺の手を掴んだ。
「見つけた!」
振り返る。そこにいるのは豊かな黒髪を持った、綺麗な女性。いつかの教育実習生だった。
彼女は取り繕うように笑い、どこか焦ったように話す。
「あの、最近メッセージが素っ気ないから。ううん、返事して欲しい訳じゃなくて心配で。それで、文化祭があったなって。あの、ごめんね。ごめんね……」
彼女は長々とした言葉で「会いたかった」と言う。そのまま彼女は羞恥と熱を秘めた目でこちらを見上げた。二人きりになりたいと思っているのが、それだけでわかった。
彼女の相手をしていたらきっと三十分以上かかる。そうなると受付が終わった一景を迎えにいけない。一景との時間が減ってしまうのは凄く勿体ないことだ。
しかし、期待がよぎる。
ここで彼女に手を出したら、一景が叱ってくれるのではという期待が。
「……」
ごく、と喉がなった。それはあまりに甘美で魅力的な未来だった。
彼に叱って欲しい。なんでそんなことしたんだって怒鳴って欲しい。そんなのもうやめろって言われたい。目いっぱい心配して欲しい。
「器くん……?」
俺の駄目な部分を駄目だと諭して、優しくして、怒って、俺の形を彼の望む形に押し潰して欲しい。
だから、彼女の手を取った。
「先生、四階行かない? ……人、いないから」
先生は目に熱を浮かべ、迷いながらも頷いた。
「う、ん。行こう、器くん」
二人で四階へと、人の少ない方へと向かう。
先生のことは好きだ。一景は大人が子供に手を出すなんてと言うけど、俺の顔に見惚れてくれた先生を先に誘惑したのは俺だ。俺が悪いのだから、その点で先生を嫌うなんてありえない。
そもそも、俺は俺をかまってくれる人に等しく感謝しているし、等しく好意を持っている。
だからこんな風に好きな人を叱ってもらうための種にして、一線を越えようなんて思う俺はきっと酷いやつなんだろう。でも、一景に叱られたい。
彼が俺の空っぽを満たしてくれると、知ってしまったから。
先生と手を繋いで、俺は階段をのぼった。