海鳴りが聞こえる街で

「そう。それなら、いいわ。ゆっくりしていってね」
 友菜は、表面上だけは友好的な笑顔を作って、家の奥に消えて行った。
 ありえないけれど、もしも、の話。海藍が夕陽の部屋に入ろうとしたら、どんな未来が待っていたのだろう。
「親に、連絡だけしておくよ」
 海藍は、自宅に電話をかけることにした。
 海藍と自分のコップに麦茶を注いでいた夕陽の耳に、ちょっと甲高い、女の人のような声が入ってくる。
「あー。俺、海藍」
 おっ? と夕陽は感動を覚えた。
 いつもやさしくて、丁寧な口調で話す海藍なのに、家族に対しては、ぶっきらぼうな口調になるみたいだった。
「ご飯食べていきなって誘われて……。うん。だから晩飯(ばんめし)いらないから。家の人に代われ!? いまお忙しいみたいだから、迷惑になるって。あー、はいはい。わかってるから。うん。わかってるって。んじゃ」
 ふー、と疲れたように息を吐いた海藍は、座布団に座った。
 麦茶を差し出され、
「ありがとう」
 とニヒルに笑っている海藍の顔を、夕陽はのぞき込んだ。
「な、なに」
「家だと、あんな感じなんだ?」
「う……、聞こえないところで話すべきだったか……」
 ニコニコと笑う夕陽から、顔を背ける海藍。
「いいね。友達の知らないところを知れるの、たのしい」
「男子って、どこの家庭もこんなだと思うよ」
 これまで海藍は、堂々と母親と仲良くしている同級生を見たことが無い。
 自分自身が恥ずかしいと感じるということもあるけれど、周囲の目も気になる。
 あいつ、かーちゃんと仲良くしてんだぜー、などと学校で吹聴された日には、生きていくのが辛すぎる。
「それに、僕ももうこの歳だからね」
 高校生にもなれば、自分のことは自分でできるようになってくる。
 というよりも、大人になる準備として、最低限のことは自分でできないといけない。
 という、なんとなくの自覚が芽生え始めてくる。
「それなのに、ちゃんとお礼を言いなさいよーとか、他人様の家なんだから、いつもみたいにバクバク食べるんじゃないわよーとか言われると、反発もしたくなるよ」
 夕陽も海藍の気持ちがわかった。
 方向性は違うけれど、友菜にしても海藍の母にしても、子どものことが気がかりなのだ。
 子どものためになにかをしなくてはと想う余り、心配をしすぎて、言わなくてもいいことを言ってしまうのだ。
「そうだよね。みんな、完ぺきじゃないんだよね」
「夕陽ちゃん?」
 それきり、夕陽は黙った。
 わずかに潮騒の音が聞こえる。
「やぁ。なにもお構いできなくて、悪いね」
 お店の仕込みを終えた将がやって来た。
 海藍は居住まいを正し、
「いえ。お忙しいところにお邪魔してしまい、申し訳ありません」
 正座をしたま、儀礼的なお辞儀をする。
「母からも、よくお礼を申し上げておくようにと言われました。日を改めて、ぜひお礼をさせていただきたいとのことで……」
「おいおい。そんなにかしこまられちゃ、こっちが申し訳無くなってしまうよ」
 楽にしていいからと言い、将自身が、座布団の上にあぐらをかいた。
 それで海藍も、足を崩した。
 自分の親に対しては、ちょっとぶきっらぼう。
 他人の親に対しては、すごく礼儀正しくて。
 友達には、とてもやさしくて気遣い屋さん。
 いろいろな姿を見せてくれる海藍が、夕陽にはおもしろかった。
「普段この家は、女二人に男一人だから肩身が狭くてね。だから、訪ねて来てくれて嬉しいよ」
「そう言っていただけると、僕もうれしいです」
「彼氏か旦那さん候補だったら、もっと良かったのになぁ……」
「お父さん!」
 腕を組んでしんみりと言う将に、夕陽は声を荒げた。
「いいじゃないか。いつか、夕陽の旦那さんと一緒に酒を呑むのが、父さんの夢なんだから」
 娘に叱られたにもかかわらず、気にした素振りを見せない将。
「私、友菜さんを手伝ってくる」
 そうして夕陽がいなくなっても、
「ありゃりゃ、嫌われちまった」
 気にしていない様子だった。
 このくらい図太くないと、女性二人を相手にする日常には耐えられないのだ。
「夕陽は、学校ではどんなだい?」
 将は、海藍の手元のコップを麦茶で満たした。
 彼の夢を叶えるためには、本当はお酒がいいのだろうけれど、あいにくと海藍は未成年。そして残念ながら、夕陽の彼氏でも旦那でも無いし、その候補になることも無い。
 それでも、夢の疑似体験ができたことで、将は多少なりとも満足そうだった。
「元気、ですね」
 言ってから海藍は、もっと気の利いた返しは無かったのかと反省した。
 でも将は、
「ああ。それが一番だ」
 至極、満足そうに目を細めた。
「あの歳になると、親に言えないことが増えていくだろうからね。友達の口から元気っていう言葉が出てくれば安心だよ」
 まして将は男親なので、自然と夕陽との距離は離れていく。
 そこにきて、いまの母親である友菜と夕陽の関係も複雑。
 夕陽は、どこで溜め込んだ気持ちを昇華しているのだろう。
 そのうちに、パンクしてしまわないだろうか。
 等々……。
 親御さんとしては、心配が尽きないところだろう。
「お待たせ―」
 夕陽は、お盆に食事を乗せて運んで来た。
 大皿の中には、赤身や青魚の区別無く、サイコロ状に四角くカットされた魚の切り身が入っていた。
 各々に配られた小鉢には、ひじきの煮もの。お味噌汁の具は、いろんな野菜の切れ端が入っていて具沢山だった。
「うちの夕飯は、ほとんど賄い料理みたいになるんだよ」
 将が説明してくれた。
 お店のお客さんには出すことができない切れっ端や余りもので、なんかしらの料理を作って家族で消費する。それが今野家の日常なのだそうだ。
「だからさっき、かえって申し訳が無いって言ったんだよ。手抜き料理だからね」
 どうせほっといたら捨てる食材なんだからと将は謙遜したが、切れ端とはいえ、魚は、地元の海で獲れた、新鮮なものであるはずだ。
「それじゃ、いただきます」
 友菜と夕陽が席につくのを待ってから、みんなで手を合わせた。
 ご飯の上に、種々様々な魚を乗せて、わさびと醤油をかけ、頬張る。
(こ、これは良くない……。贅沢すぎる……)
 お店で食べる海鮮丼と遜色無いうえに、賄い料理というお手軽感もある。
 海藍は、母との約束を反故にして、他人様の家のご飯を遠慮なくバクバクと食べてしまったのだった。