海鳴りが聞こえる街で

「夕陽ちゃん……」
 海藍は、夕陽にどう声をかけていいか、わからなくなった。
 そんな迷いが、モロに顔に出てしまって。
「そんな顔しないで」
 かえって夕陽に気を遣わせてしまった。
 夕陽は小さく笑って、花水木の花を海藍に手渡してきた。
 二人で、残りの二房の花を、それぞれ海に流す。
 輝く海原に、花弁が漂って、やがてどこかに消えていく。
「戻ろう」
 夕陽は、母親の葬儀が済んだあとのことも話してくれた。
 自分を責め続けたせいで、自己肯定感が薄いままに育ってしまったこと。
 そんな自分には、友達を持つ資格は無いと思って、他人と一線を引いて接してきたこと。
 だから、仲の良い友達ができなかったこと。
「友達ができなかったのは、お店の手伝いばっかりしてたことも関係あるんだけどね」
 夕陽の家が近づくにつれて、いい匂いが漂ってきた。
 料理を仕込んでいる匂いだ。
 母が亡くなってから、夕陽は、積極的に店の手伝いをするようになった。
 父と母の二人できり盛りしていたので、人手が足らなくなったということもあるが、夕陽のそれは、罪を償うためという目的のほうが大きかった。
「そうやって、お店で大人の相手をしてたから、精神年齢が、ちょっとね」
 早いうちから働くということを覚えて、大人の相手をしていたから、精神年齢の成長が、同級生たちに比べて早かった。
 だから夕陽には、周りの同級生たちが子どもっぽく見えてしまって、自分と釣り合う友達を見つけるのが難しかったのだ。
「でも、それぜんぶ、言い訳。心の闇から逃げてた。これと向き合うことを避けてたんだ、私」
 そんな夕陽の逃げ道をふさぐように、状況が変わっていく。
 夕陽が中学生のとき、父の将は、いまの妻である友菜と再婚して、夕陽が店に出る必要が無くなった。
「友菜さんには、とっても感謝してる」
 父と結婚して、妻を失った彼を支えてくれたこと。
 夕陽が、勉強にうち込める時間を作ってもらえたこと。
 おかげで、宮ノ森に合格することもできた。
「この闇と、ちゃんと向き合えるかわからない。本当は、私なんか、誰にも愛される資格は無いんだって、ずっと逃げていたい。でも、それじゃダメなんだって、思う」
 覚悟を決めた夕陽の瞳は、気丈さと悲壮さをたずさえていた。
「海藍くんと友達になりたいって、私も思ってた。だから、この場所でちゃんと話そうって決めた」
 海藍は、胸が詰まってなにも言えなくなってしまった。
 こんな瞳に、海藍なんかが、なにを返してあげられる?
 夕陽が意地悪でしかけてきた問いの答えを、懸命に探す。
 仮に夕陽が、この闇を、彼女の胸の内だけに秘めていたとしても、海藍はよろこんで、夕陽の友達であり続けることができる。
 でも夕陽は、それでもいいと、自分を許すことができなかった。
 海藍を信頼している証として、抱えている闇を見せてくれた。
 それが賢い選択であるとは、とても思えない。
 でも……。
 だけど……。
「僕、夕陽ちゃんのこと、好きだよ。これからも、友達でいたい」
 この実直で不器用な人間が、すごく好ましいと感じる。
 嘘、偽りの無い、まっすぐな気持ちを贈ること。
 海藍には、それしかできることは無かった。
 日が沈んでいく。
 海が、満ちていく。
「うん……。うれしい……」
 夕陽がすすり泣く声を、波がかき消してくれる。
 やさしい波の音が、より身近になって、もっとやさしさを感じられるようになって。
 この街の波音は、あたたかい愛情で包んでくれる、母親そのものだった。
(こんなにやさしい波なのに、なんで……)
 なぜ、夕陽に重い荷物を背負わせるような仕打ちをしたのだろうか。
 夕陽が泣き止むまでの間、海藍は、そのことを考えていた。
 答えは、いまだけは海だけが知っていることで、それは、夕陽が見つけないといけないことだった。
 夕陽は、
「ごめん。帰ろう」
 んっんぅっ……、と咳ばらいをしてから、
「ありがとう」
 改めて、海藍にお礼を言った。
「ただいまー」
 夕陽が玄関の戸を開けると、どこからともなく、ぬらりと友菜が現れる。
 さきほど、包丁を持って海藍を見張っていたことといい、まるで妖怪のようだ。
(でも、子どもを心配する母親って、こういうものなのかな)
 自分が醜態を晒すこともいとわず、ちょっといきすぎるくらいに子どもを想う。
 自らの体を投げうってでも、我が子を助けたいと想う。
 それは、母親になってみないとわからない、本能のようなものだ。
「あら?」
 友菜はなにかに気づいた。
 腰をかがめて、じっと夕陽の顔を覗き込む。
「夕陽ちゃん。目、赤くない?」
(鋭いっ……!)
 海藍はたじろいだ。
 これも、我が子を想う母の成せる業か。
 夕陽の目が赤い→泣いたのではないか→なぜ泣いたのか→海藍が泣かせたのではないか。
 という推理を、一瞬のうちに組み立てたようで、海藍を、仇のような目で見つめてくる。
「浜の砂が目に入っちゃって。洗ったから大丈夫だよ」
 すかさずフォローを入れる夕陽。
 嘘が苦手そうな夕陽が小慣れているところを見るに、いつもこうして、友菜に心配をかけないようにしているのだ。
 それは、夕陽が友菜のことを好きだからだ。
(だから余計に辛いんだろうなぁ)
 夕陽にとっては、友菜のことを嫌いでいれたほうが楽なはずだ。
 そうすれば、表立って、まえのお母さんとの思い出に浸っていられるのだから。
 でも、友菜のことが好きだから、それができない。
 友菜のことが好きなのに、お母さんと呼ぶことができない。
 こんなにいろいろなものを抱えて、夕陽の心は疲れてしまわないだろうか。
 明日から、その辺にも気をつけて夕陽に接しようと決めて、海藍は、自宅に帰ろうとした。
「海藍くん。ご飯、食べてくでしょ」
「えっ!?」
 友菜と海藍は、同時に声を発していた。
 慌てて口元に手を添えて、愛想笑いでごまかす友菜。
 露骨に客を歓迎していないかのごとき振る舞いを、反省してはいるようだ。
 手遅れだけど。
「あの……。でも……。ご迷惑がかかるから……。お店もそろそろ開けるんだろうし……」
 海藍は、やんわりと辞去しようとした。
 友菜の様子を伺いつつ、言葉を選んで、じりじりと玄関の戸のほうに体重をかたむける。
「大丈夫だよ。一人増えるくらい。ね、友菜さん」
「も、もちろんよ。ええ。ぜひ食べていって」
 (ほぞ)を噛む。
 苦虫を潰したような。
 という慣用句が、まさにぴったりと当てはまる友菜の渋面。
 現代国語の資料集に、用語と共に彼女の顔写真を掲載したら、さぞかしわかりやすいことだろう。
 もちろん、それを実行する勇気など海藍は持ち合わせていないし、それを実行することが蛮勇であると判断できる正常な脳を、海藍は持ち合わせていた。
「そ、そうですか。じゃああの。お言葉に甘えまして……」
 ひたすら恐縮しつつ、靴を脱いで家に上がる。
 それを引きつった笑顔で迎える友菜。
 異様なまでの緊張感が漂う。
 だが、ただ一人、夕陽だけはどこ吹く風。
「じゃあ、ご飯ができるまで、私の部屋で待ってようよ」
 がしっ!
 夕陽がそれを言い終わるまえに、海藍の肩がつかまれていた。
 すごい力だった。
 海藍は、一歩も動くことができない。
 うなじに鳥肌が立つ。
 ゆーっくりと振り返ると、友菜はかわいらしく小首をかしげた。
 凍りつくような笑顔だった。
「ふ、二人で、居間で待ってよっか」
 これには夕陽も、良くない状況であると察してくれた。