海藍は、夕陽と一緒に家の奥へと進んだ。
そこは庭になっていた。すでに洗濯物が取り込まれ、竿だけになった物干し台がある。
家の正面から見たときには予想できなかったけれど、軽いボール遊びくらいなら、余裕でできそうな広さだった。
「ちょっと待ってて」
夕陽はつっかけのサンダルを履いて、庭に降りた。
その先には、立派な花水木の花が咲いている。
(そっか。花水木も、もう旬か)
この花の見ごろは、四月の中旬から下旬。
まだまだ先だと思っていた高校の入学式は、あっという間にやって来た。
そんなこんなをしているうちに、高校生活は終わってしまうのだろうか。
「お待たせ」
夕陽は、三房の花を、ビニール袋の中に入れて戻って来た。
「ちょっと出てくるねー!」
お店のほうに向かって声をかけ、下足入れの中から、トング・サンダルを取り出す。
庭に降りたときに履いたつっかけとは違い、外出するときに使用する、女性もののサンダルだった。ブラウンの紐の鼻緒部分には、黄色い花の飾りつけが施してある。
「フリージアか」
「海藍くん、花にくわしいんだ」
海藍は、飾りものの花の名前を一発で言い当てた。
「ちなみにだけど、花水木の花びらに見えるこの部分、厳密には花じゃないんだよ」
などと、調子に乗って、講釈を垂れ始めてしまった。
「そうなの?」
「うん。総苞片(そうほうべん)っていうんだよ。花なのは、中心の実みたいな部分だけなんだって」
「海藍くん。そんなに花に興味があるんなら、花屋さんになったらいいのに」
「ならないよ」
海藍は、花の名前を言い当てたときよりも、自信をもって答えた。
というか、さっき縁側から見ていたが、花水木の花を摘むときの丁寧な手つきからして、夕陽のほうが、よっぽど花屋に向いている。
「き、気をつけてね?」
玄関まで見送りに来た友菜が、心配そうに、夕陽に言った。
「大丈夫だよ。ちょっとそこまで行ってくるだけだから」
「それなら、いいけれど……」
「それに、海藍くんもいるし」
という夕陽に、おもしろくなさそうな友菜。
男が娘の側にいてくれるのは心強いけれど、素直にそれを喜ぶ気にはなれない。複雑な母親心である。
「行ってきます」
友菜に手を振って玄関を出る夕陽。
海藍が頭を下げると、キッとにらみつけられてしまった。
彼女に信頼されるには、もっと実績を積み重ねなければならないようだ。
夕陽と並んで、横断歩道を渡った。
少しだけ歩道を歩き、階段を下って砂浜に出た。
海が近い。
潮が満ちてきた。
きらきらと輝く海面が、まぶしかった。
「どこまで行くの?」
「すぐそこ」
海藍は、夕陽の背中を追いかけた。
気のせいか、声のトーンに陰りがあった。
海に向かって、コンクリートの堤防が伸びていた。
「足元、気をつけてね」
堤防に波が当たって、ちゃぷちゃぷと音を立てている。
けっこう水深があるようだけど、大人が五人くらい並んで歩けるほどの幅があるので、落ちることは無いだろう。
それでも夕陽は、念のために注意を促した。
二人で、堤防の先まで歩いた。
「ね。すぐそこだったでしょ」
本当に近所だった。
夕陽の家から、5分と歩いていない。
夕陽は、ビニール袋から、一房だけ花を取り出して、海面に向かって投げた。
緩やかな波間で、小舟のようにぷかぷかと浮かんでいた花水木は、やがて波にさらわれて、どこかに行ってしまった。
「私、ここでおぼれかけたことがあるんだ」
その話は、唐突に始まった。
海藍は胸を突かれたけれど、でも、ぼんやりしていたものが、ちょっとずつ形になってきた。
「家からすぐそこだし、数えきれないくらいここに来て遊んでたから、油断してたんだよ」
それに、護城浜の海はやさしいから。
だから、人間に害を加えるなんてこと、これっぽっちも考えていなかった。
「夕陽ちゃん……!」
この話の行き着く先が、なんとなくわかってきてしまった。
ばくばくと心臓が鳴っている。
「話すよ、海藍くん。私が抱えてる、闇」
夕陽は冷たく笑った。
あの夕陽が、こんな顔をするなんて……。
「あの日は、雨が降り続いていた次の日だったから……」
堤防が濡れていて滑りやすかった。
海が荒れていた。
雨続きで外に遊びに行けず、ようやく晴れたので、テンションが高かった。
そうして原因とか一因なんかを挙げていっても、失った時間は、もう、とり返すことはできない。
「足をすべらせて、海に落ちたの」
まるで、地獄に引きずり込まれるようだった。
子どもながらに、死を覚悟した。
「でも、お母さんが助けてくれたんだ」
(それだ!)
海藍は直感した。
「その、お母さんって……」
「海藍くん。鋭い。だから生きにくいんだよ」
「って言うことは……」
「そうだよ。私を助けてくれたのが、実のお母さん。夕菜さんは、お父さんの再婚相手」
「どうりで。夕陽ちゃんのお母さん、高校生の娘をもってるわりに、若いと思ったんだ」
「それ、友菜さんに言ってあげて」
喜ぶから。
と笑った夕陽に、いくぶん、いつもの太陽のような温かさが戻ってきた。
代わりに、海藍の顔が陰った。
(友菜さん……)
その呼びかたが、海藍は、ずっとひっかかっていた。
夕陽は海藍に背を向けた。
「お母さんは、私を助けてくれたあとに……」
「亡くなったんだね」
海藍は、夕陽の言葉をさえぎった。
そのことを、夕陽の口から出させないようにした。
彼女は、とても辛い経験を話しているから。だから、このくらいはしてあげないといけない。
「私を堤防に上げて、そのまま、行方不明になったの」
幼い夕陽は、自分の体力では、母親を助け上げることはできないと判断して、すぐに家に駆けた。
だけど、父を連れて戻ったときには、母の姿は無かった。
捜索でも母親を見つけることはできず、やがて死亡認定がなされた。
「私もお父さんも、死んだところを見てないから、ぜんぜん実感できなかった」
それに、急なことだったから、葬儀などで忙しくて、余計に実感が無かった。
「だから、反動がきちゃって」
じわじわと、自分がおぼれたことで母親を死なせてしまったという罪悪感が湧いてきた。
まだ幼かった夕陽には、それを受け止めることも昇華することもできず、毎日毎日、罪の意識に苛まれるようになってしまった。
「実はね、いまでも病院に通ってるんだよ」
「夕陽ちゃん!」
通院履歴は、人によっては絶対に話したくない、デリケートな部分なのに。
海藍が、あれだけの話をしてくれたから、同じものを返してあげないといけないと夕陽は思っているに違いなかった。
「いいの。海藍くんに隠すことなんて、なにもない」
夕陽は、実直だ。
自分の想いに対して、とても実直だ。
たぶん。だからこそ……。
「聞いても、いい?」
「どうぞ」
「なんで夕陽ちゃんは、いまのお母さんのこと、友菜さんって呼ぶの?」
海藍の問いに。
来たか。と唇を結ぶ夕陽。
「だって、私が……」
歯を食いしばり、悲痛な表情を浮かべる。
「私が、友菜さんのことをお母さんって呼んじゃったら、お母さんが、お母さんで無くなっちゃうじゃない! お母さんが、本当に居なくなっちゃうじゃない!」
だから夕陽は、友菜のことをお母さんとは呼べない。
それは、まえの母親の存在を否定することになってしまうから。
夕陽の悲痛な叫びを、波音がやさしく包んだ。
まるで、夕陽の母親のように、夕陽をやさしく包んだ。
そこは庭になっていた。すでに洗濯物が取り込まれ、竿だけになった物干し台がある。
家の正面から見たときには予想できなかったけれど、軽いボール遊びくらいなら、余裕でできそうな広さだった。
「ちょっと待ってて」
夕陽はつっかけのサンダルを履いて、庭に降りた。
その先には、立派な花水木の花が咲いている。
(そっか。花水木も、もう旬か)
この花の見ごろは、四月の中旬から下旬。
まだまだ先だと思っていた高校の入学式は、あっという間にやって来た。
そんなこんなをしているうちに、高校生活は終わってしまうのだろうか。
「お待たせ」
夕陽は、三房の花を、ビニール袋の中に入れて戻って来た。
「ちょっと出てくるねー!」
お店のほうに向かって声をかけ、下足入れの中から、トング・サンダルを取り出す。
庭に降りたときに履いたつっかけとは違い、外出するときに使用する、女性もののサンダルだった。ブラウンの紐の鼻緒部分には、黄色い花の飾りつけが施してある。
「フリージアか」
「海藍くん、花にくわしいんだ」
海藍は、飾りものの花の名前を一発で言い当てた。
「ちなみにだけど、花水木の花びらに見えるこの部分、厳密には花じゃないんだよ」
などと、調子に乗って、講釈を垂れ始めてしまった。
「そうなの?」
「うん。総苞片(そうほうべん)っていうんだよ。花なのは、中心の実みたいな部分だけなんだって」
「海藍くん。そんなに花に興味があるんなら、花屋さんになったらいいのに」
「ならないよ」
海藍は、花の名前を言い当てたときよりも、自信をもって答えた。
というか、さっき縁側から見ていたが、花水木の花を摘むときの丁寧な手つきからして、夕陽のほうが、よっぽど花屋に向いている。
「き、気をつけてね?」
玄関まで見送りに来た友菜が、心配そうに、夕陽に言った。
「大丈夫だよ。ちょっとそこまで行ってくるだけだから」
「それなら、いいけれど……」
「それに、海藍くんもいるし」
という夕陽に、おもしろくなさそうな友菜。
男が娘の側にいてくれるのは心強いけれど、素直にそれを喜ぶ気にはなれない。複雑な母親心である。
「行ってきます」
友菜に手を振って玄関を出る夕陽。
海藍が頭を下げると、キッとにらみつけられてしまった。
彼女に信頼されるには、もっと実績を積み重ねなければならないようだ。
夕陽と並んで、横断歩道を渡った。
少しだけ歩道を歩き、階段を下って砂浜に出た。
海が近い。
潮が満ちてきた。
きらきらと輝く海面が、まぶしかった。
「どこまで行くの?」
「すぐそこ」
海藍は、夕陽の背中を追いかけた。
気のせいか、声のトーンに陰りがあった。
海に向かって、コンクリートの堤防が伸びていた。
「足元、気をつけてね」
堤防に波が当たって、ちゃぷちゃぷと音を立てている。
けっこう水深があるようだけど、大人が五人くらい並んで歩けるほどの幅があるので、落ちることは無いだろう。
それでも夕陽は、念のために注意を促した。
二人で、堤防の先まで歩いた。
「ね。すぐそこだったでしょ」
本当に近所だった。
夕陽の家から、5分と歩いていない。
夕陽は、ビニール袋から、一房だけ花を取り出して、海面に向かって投げた。
緩やかな波間で、小舟のようにぷかぷかと浮かんでいた花水木は、やがて波にさらわれて、どこかに行ってしまった。
「私、ここでおぼれかけたことがあるんだ」
その話は、唐突に始まった。
海藍は胸を突かれたけれど、でも、ぼんやりしていたものが、ちょっとずつ形になってきた。
「家からすぐそこだし、数えきれないくらいここに来て遊んでたから、油断してたんだよ」
それに、護城浜の海はやさしいから。
だから、人間に害を加えるなんてこと、これっぽっちも考えていなかった。
「夕陽ちゃん……!」
この話の行き着く先が、なんとなくわかってきてしまった。
ばくばくと心臓が鳴っている。
「話すよ、海藍くん。私が抱えてる、闇」
夕陽は冷たく笑った。
あの夕陽が、こんな顔をするなんて……。
「あの日は、雨が降り続いていた次の日だったから……」
堤防が濡れていて滑りやすかった。
海が荒れていた。
雨続きで外に遊びに行けず、ようやく晴れたので、テンションが高かった。
そうして原因とか一因なんかを挙げていっても、失った時間は、もう、とり返すことはできない。
「足をすべらせて、海に落ちたの」
まるで、地獄に引きずり込まれるようだった。
子どもながらに、死を覚悟した。
「でも、お母さんが助けてくれたんだ」
(それだ!)
海藍は直感した。
「その、お母さんって……」
「海藍くん。鋭い。だから生きにくいんだよ」
「って言うことは……」
「そうだよ。私を助けてくれたのが、実のお母さん。夕菜さんは、お父さんの再婚相手」
「どうりで。夕陽ちゃんのお母さん、高校生の娘をもってるわりに、若いと思ったんだ」
「それ、友菜さんに言ってあげて」
喜ぶから。
と笑った夕陽に、いくぶん、いつもの太陽のような温かさが戻ってきた。
代わりに、海藍の顔が陰った。
(友菜さん……)
その呼びかたが、海藍は、ずっとひっかかっていた。
夕陽は海藍に背を向けた。
「お母さんは、私を助けてくれたあとに……」
「亡くなったんだね」
海藍は、夕陽の言葉をさえぎった。
そのことを、夕陽の口から出させないようにした。
彼女は、とても辛い経験を話しているから。だから、このくらいはしてあげないといけない。
「私を堤防に上げて、そのまま、行方不明になったの」
幼い夕陽は、自分の体力では、母親を助け上げることはできないと判断して、すぐに家に駆けた。
だけど、父を連れて戻ったときには、母の姿は無かった。
捜索でも母親を見つけることはできず、やがて死亡認定がなされた。
「私もお父さんも、死んだところを見てないから、ぜんぜん実感できなかった」
それに、急なことだったから、葬儀などで忙しくて、余計に実感が無かった。
「だから、反動がきちゃって」
じわじわと、自分がおぼれたことで母親を死なせてしまったという罪悪感が湧いてきた。
まだ幼かった夕陽には、それを受け止めることも昇華することもできず、毎日毎日、罪の意識に苛まれるようになってしまった。
「実はね、いまでも病院に通ってるんだよ」
「夕陽ちゃん!」
通院履歴は、人によっては絶対に話したくない、デリケートな部分なのに。
海藍が、あれだけの話をしてくれたから、同じものを返してあげないといけないと夕陽は思っているに違いなかった。
「いいの。海藍くんに隠すことなんて、なにもない」
夕陽は、実直だ。
自分の想いに対して、とても実直だ。
たぶん。だからこそ……。
「聞いても、いい?」
「どうぞ」
「なんで夕陽ちゃんは、いまのお母さんのこと、友菜さんって呼ぶの?」
海藍の問いに。
来たか。と唇を結ぶ夕陽。
「だって、私が……」
歯を食いしばり、悲痛な表情を浮かべる。
「私が、友菜さんのことをお母さんって呼んじゃったら、お母さんが、お母さんで無くなっちゃうじゃない! お母さんが、本当に居なくなっちゃうじゃない!」
だから夕陽は、友菜のことをお母さんとは呼べない。
それは、まえの母親の存在を否定することになってしまうから。
夕陽の悲痛な叫びを、波音がやさしく包んだ。
まるで、夕陽の母親のように、夕陽をやさしく包んだ。

