海鳴りが聞こえる街で

 駅を出ると、塩の匂いが鼻をくすぐっていった。
 懐かしさを覚える香りだ。
 夕陽の足どりは軽い。
 弾むように、海藍の数歩先を歩いている。
 海藍は、その後を歩いた。
 鼓膜の奥に届いてくる波の音は、急いで足を進めることをためらわせる。
 せわしなく歩を進めるのはもったいない。
 そう思わせてくれる護城浜の海は、やさしい旋律を奏で続けていた。
 横目に眺める海面は、海の藍色と、夕陽の茜色とが仲良く交わっていた。
「ここだよ」
 夕陽が立ち止まった。
 駅から10分ほどだった。
 道路沿いの古風な街並みの中に、木造の建築物があった。
「もしかして、民宿やってる?」
 綺麗に黒のペンキで塗られていたその建物は、民家というよりもお店に見えた。
 入り口には、【潮騒】という毛筆体の、立派な看板がかけられている。
 こっち。と誘導する夕陽と一緒に、建物の横に回り込む。母屋へは、こちらから入るらしい。
「海藍くんが言うように、もともとは民宿だったんだよ」
「ということは、いまは違うの?」
「うん。居酒屋」
「へぇー」
 路地のような通路の先に、玄関があった。正面から見ただけではわかりにくいが、縦長の建物のようだ。
 すん……。
 と、なにかの香りが鼻をついた。
(これ、なんの匂いだっけ?)
 海藍が首をかしげていると、
「ただいまー」
 夕陽は玄関の戸をあけて、家族に帰宅を告げた。
「おかえりなさい」
 ぱたぱたとスリッパの音を鳴らしながら、洗濯籠を持った女性が現れた。
(お母さんかな?)
 ずいぶんと若い。そして美人だった。
 夕陽を出迎えるその顔つきだけで、夕陽が愛されているのが良くわかった。
「どうも、初めまして」
 海藍は、頭を下げて挨拶をした。
 しかし海藍の挨拶が終わらないうちに。
 がたんっ! 
 ばさばさばさーっ! 
 夕陽の母親とおぼしき女性は、盛大に洗濯物をぶちまけた。
 そして本人は、舞台女優のような自然な動作で、膝から崩れ落ちた。
「友菜さん!」
 慌てて夕陽が駆け寄ろうとするも、彼女は四つん這いになり、
「将さん! 将さん!」
 と叫びながら、家の奥に消えて行った。
「しまったなぁ。先にメールしておけば良かった」
 靴を脱いだ夕陽は、あーあと嘆きながら、散乱した洗濯物を籠に入れていった。
 海藍がそれを手伝っていると、どったんばったんと、作られたようなあわただしい音が聞こえてきて、夕陽の母親が、男の人を連れ立って戻って来た。
 彼は海藍を一瞥するや、
「うぉっ!」
 と驚きの声を漏らした。
 そして、
「夕陽。大物を釣り上げたな」
 でかしたでかしたと、夕陽の頭を撫でていた。
「将さん! そんな呑気なことを言っている場合じゃないわ!」
 その横でわめきちらす友菜。
(なんか、ややこしいことになってしまった……)
 失念していたが、自分と夕陽は男と女。
 当人たちは、どこまでいっても友達だと、互いに距離感を保って親しくしているが、他人からは、いろんな見かたができる。
 ましてご両親からすれば、娘が男を家に連れてきたわけだから、
「夕陽ちゃんには、まだ早いわ!」
 とご心配されるのも、無理は無いわけで……。
「あ、あの……。お母さん」
 友菜は海藍に、おぞましいまでの憎悪を向けた。
 糸のように細い目をぐばっと開き、にらみつける。
 おめぇにお母さんと呼ばれる筋合いは無ねぇ! 
 ということである。
 海藍にとっては、新鮮だった。
 女性から、こんなにも忌み嫌われた瞳で見られたことは、人生で初めてだった。
 しかし、よくドラマは、お父さんのほうが娘の結婚に反対するものだが、ここのご家庭では逆のようだ。怒りが治まらない奥さんを、旦那さんがなだめている。
「もう! 二人とも落ち着いてよ! 海藍くんは、ただの友達!」
 そこで夕陽が、思考が先走っている両親を叱りつけた。
「友達ぃ……?」
 それでも友菜は、丹念に手入れをしている整った眉をひそめ、懐疑的な視線で海藍を見つめる。
「なんにしろ、せっかく来たんだ。俺は仕込みがあるからお構いできないけど、ゆっくりしていきなさい」
 家主である将が許可したのならばしかたない。
 友菜は、しぶしぶ海藍を居間に通した。
「私の部屋でもいいけど」
 夕陽はそう言ったが、海藍は固辞した。
 これは、信頼とかそういう問題とは別だ。
 ただでさえ、光や愛梨よりも先に夕陽の家に上げてもらったというのに、部屋にまで入ってしまうなんて、とんでもない。
 なにより。
 友菜が定期的にやって来て、襖の反対側から、海藍を見張っているのである。
 将の手伝いをしているのか、夕飯の準備をしているのかは知らないが、その手に包丁が握られているのが、障子の影に映っている。
 この状況下で、夕陽の部屋に入るなどという愚行を犯すことができるのは、人並外れた命知らずだけである。
 この歳で命を落としたくは無いし、友達の母親を犯罪者にもしたくない。
「友菜さん! なにしてるの!?」
「ゆ、夕陽ちゃん……」
「海藍くんは大丈夫だから!」
「で、でも……」
「包丁なんて持ち歩いて、危ないでしょ」
「うぅ……」
 襖の向こうが騒がしい。
 着替えを終えた夕陽が、二階から降りて来たようだ。
「お待たせ―」
 友菜を退散させた夕陽は、襖を開けて居間に入った。
「なに?」
「あ……。ゴメン。私服姿、初めて見るから」
 制服姿の夕陽しか知らない海藍の目には、私服の友人の姿が新鮮だった。
「見せるほどのものじゃないけどね」
 照れくさそうに座布団の上に座った夕陽は、グレーのTシャツに短パンという格好。
 健康的で能動的な、夕陽のイメージにぴったりだと海藍は思った。
 夕陽は、コップに麦茶を注ぎ、ビニールを切って、バームクーヘンを口に入れた。
 それを食べ終えるのを待ってから、
「今日は、どうして家にまで呼んでくれたの?」
 きっと夕陽は、海藍がしたような話をしたがっている。
 海藍と友達になるために、愛梨と光の好意に応えるために。
 話をするだけなら、学校で済む。だけど海藍は、夕陽の地元でその話をすることに意味があるのだと推測していた。
「もういらない?」
 夕陽は、麦茶の入った容器を持ち上げた。
「じゃあ、もう一杯だけ」
 海藍のコップと自分のコップを麦茶で満たして、
「もう一杯飲んだら、行こうか」
 息を吐いた。
 海の底にまで届いてしまいそうな、深い深い息だった。
 きっとそれは、これから彼女がする話と、同じだけの深さなのだろう。
「本当に、僕でいいんだよね」
 唐突に海藍は、不安になった。
 その話を聞く資格が、自分にあるのか。
 その話を受け止めるほどの度量を、自分は持っているのか。
「うん。海藍くんに聞いてほしくて、呼んだから」
 そんな海藍の不安を払拭するように、夕陽は即答した。
 夕陽は、海藍に聞いてもらうのがベストだと判断した。だから海藍を誘ったのだ。
「ちょっと待ってて」
 腰を上げた夕陽は、廊下を渡って行った。
「お父さーん! 花水木の花、もらってもいいー?」
 という夕陽の声で、海藍は気づいた。
 玄関に入るときに嗅いだのは、花水木の香りだったのだと。
 そして、家に上げてもらったときから感じていた、漠然とした違和感の正体にも気がついた。
「よし、行こう」
 襖を開けた夕陽の手には、スーパーのビニール袋が握られていた。