海鳴りが聞こえる街で

「夕陽。わかってる? 病気っていうのは、調子が悪くて仕事に行けないとか、いつもの日常生活が送れない状態のことを言うのよ」
「わかってるよ。今日だって、朝ご飯も二杯までしかおかわりできなくて、それでまた、夕菜さんに心配されたんだから」
「よーし、健康体。いつもの薬以外の処方は必要無い」
 早希英はカルテにペンを走らせて、帰った帰ったと夕陽を診療所から追い出そうとした。
「病院の先生が、そんなのでいいの?」
「病院の先生が暇なのは、いいことでしょうよ」
 早希英が診療室の窓を開けると、さわやかな春風が、レースのカーテンを揺らす。
 診療所の庭に生えている桜の木から、花びらが舞い込んできた。
 護城浜の住人……、とりわけ老人たちは、腰が曲がったりとか、目や耳の機能の衰えはあるものの、みんなそろって、医者いらずの健康体。
 おかげさまで、早希英が運営しているこの病院に、重病人がやって来ることは無い。
「そうなんだけど、ここが無くなったら、みんな困るよ」
 夕陽が目をやった先、診療室のドアの向こうの待合室からは、談笑する声が聞こえる。
 病人はいないはずなのに、なぜか待合室は満員御礼。ご老人たちが、机を囲っている。
 各々、お茶やらお菓子やら漬物やらを持ち寄って、和気あいあいとコミュニケーションをとっていた。
「うるさい! 麻雀は向こうでやれ!」
 難しい顔つきで将棋の盤をにらんでいた一人の爺さまが、じゃらじゃらと麻雀の牌を混ぜている爺さまたちを叱りつけた。
 このように、将棋盤や碁盤、麻雀の牌を病院に置いておき、みんなで集まって対局を楽しむ人たちもいた。
 数少ない病院の職員たちも、それをとがめることはしない。
 この医院は、先代の老医師のときから、地域のコミュニティ施設として機能していた。
 こうやってみんなで集まっていれば、それぞれの家族も安心できるし、なにより、病院なので、具合が悪くなってもすぐに診てもらえる。
 だから、病院としての機能は薄くても、地域の人にとっては、この医院に無くなってもらっては困るのである。
 もちろん、本当に病人がやって来たら、みんな、すぐに静かにする。
 将棋や麻雀に熱中している人たちも、そのくらいの分別は、ちゃんとある。
「だぁーいじょうぶだって。行政は、ここを潰せやしないわよ」
 ここは個人開業医だけど、この近辺では唯一の医療施設であるため、行政から支援されていた。
 だから、廃業する心配は無いのである。
「我ながら、ここの先生は天職だわ」
「悪い人」
 にひひと笑う早希英に、ジト目を向ける夕陽。
「その悪い人に相談しにきたのは友菜でしょ」
 早希英は煙草に火をつけて、
「ていうかさ。そういうのは、私よりも先に、夕菜さんに相談したらどうよ」
 ふーっと窓の外に吐き出した。
「だって、夕菜さんは……」
「夕陽の気持ちは、わかったうえで言ってるのよ」
 早希英は、化粧っ気の無い唇で煙草をふかす。
「しかしまぁ、まさか夕陽から、恋愛相談をされる日がくるとはね」
「れっ、恋愛とか、そこまでの話じゃないよ!」
「高校生の女の子が、男から好意を伝えられました。初めてのことなので、どうしたらいいかわかりません。なにか助言をください。どこが恋愛相談じゃないってのよ」
 夕陽が持ち込んできた相談は、あの光という男の子から告白された事件のことだった。
 今日、明日と、休日が終わったなら、クラスメイトなので、どうしても顔を合わせないといけない。
 それで夕陽は、信頼できる大人の女性に相談しようとしたのである。
 しかし、早希英からしたら、それはもう甘酸っぺぇ青春話であり、カルテに書き込んで記録しておき、夕陽が大人になったときに見せてやろうかと思ったが、自重した。
「私、どうしたらいいの?」
「んぉ? なんもしなくていいよ」
 切実な夕陽とは裏腹に、能天気に応える早希英。
「男に任せておきなさい」
 女のほうからは、なーんもする必要は無いと説いた。
「で、でも……」
 任せるって、あの、なにを考えてるかわからない男に……?
 夕陽の胸に、おおいなる不安がよぎった。
 任せろと言うが、彼のことを知らないから、そんな無責任なことが言えるのではないだろうか。
「好きって気持ちはね、強いわよ。夕陽」
 なにか根拠があるのだろうか。
 早希英はやけに自信があるようだった。
 そして。
「もちろん、その子が本気だったら、の話だけど」
 窓の外を眺めた。
 夕陽のほうは見ない。
 手に持っていた灰皿に吸い殻を押しつけて、夕陽にほほ笑みかけた。
「だから、相手が本気だってことを信じるだけよ」
 いつもの能天気な白川先生の顔とは、かすかに違っていた。