海鳴りが聞こえる街で

 夕陽にとって幸運だったのは、入学式が金曜日に行われたことだろう。
 これは、宮ノ森では毎年恒例のことで、入学式の次の日は、土曜日、日曜日になるように行事予定が組まれる。
 休日を利用して、新入生たちに心の準備をしてもらおうという配慮からだった。 
 ぶぃーん、ぶぃーん、と、スマホが震えている。
 仰向けになって、頭から布団をかぶっていた夕陽は、腕だけを布団から出して、スマホを布団の中に引きずり入れた。
(もう、こんな時間……。起きなきゃ)
 布団から這い出た夕陽は、風邪をひいたときみたいに、体の重さを感じる。
 夕陽の身長は、女子の平均よりも低い。それに比例して、体重も平均より軽い。
 その体が、地面に押し付けられそうなくらいに重い。
 ついでに、頭も重いし、まぶたも重い。
「だっる……」
 不快感をあらわにする。
 他人のまえ、特に両親のまえだったら、絶対にこんな言葉遣いはしない。
 二度寝を決め込みたいところだけれど、夕陽は、寝具をたたんで押し入れにしまいこんだ。
 時刻は、朝の5時。
 この時間に起床して身支度をととのえ、両親と一緒に朝食を摂る。
 それが夕陽のモーニングルーティーン。
 たとえ休日でも、それは変わらないし、変えてはいけない。
 理由のひとつには、休日だからって、だらけた生活は送りたくないから。
 で、それは表向きの理由。
 本当の理由は……。
「おはよう。夕菜さん」
 パジャマから、Tシャツ、ハーフパンツというラフな格好に着替えた夕陽が二階から降りてくると、台所では、夕菜が朝ごはんの準備を始めていた。
 その夕菜にあいさつをして、風呂場の洗面台で洗顔をしてから歯を磨く。
 次に、台所に向かい、おぼんに三人分の食器を乗せて、居間へと運ぶ。
 こうして夕菜の手伝いをするのも、夕陽の日課だった。
「あら、夕陽ちゃん」
「な、なに?」
 呼び止められて、胸がどきりとする。
 体まで震えたら、食器を落としてしまうので、それはなんとかこらえる。
「具合、悪いの?」
「う、ううん。そんなこと無いよ」
「そうかしら。なんだか、いつもより体が重そうよ」
「ききき、キノセイダヨ」
「でも、目も充血しているし」
 夕菜は、夕陽のおでこに手のひらをあてがった。
 すると夕陽の顔面は、かっと熱くなる。病気的な意味では無くて。
「あの、あのー、昨日、入学式で、緊張してたから、かな。なんだか、寝つきが、悪くて。それで……」
「そういうことね」
 夕菜の手が、病的な熱を感知しなかったこともあって、夕菜は夕陽から、手を離した。
「あ……」
「どうかしたの? やっぱり、具合、悪いの?」
「ううん。平気っ」
 食器を落とさないくらいの早足で、夕陽は台所から逃げ出した。
 夕陽が、本当に体調が悪くないかぎり、いつもと変わらないモーニングルーティーンをこなさなければならない最大の理由が、この母親である。
 夕菜は、人一倍の気配り上手で、他人のことをよく見ている。
 そのうえ心配性で、しかも夕陽のことになると、それが増幅されてしまう。
 愛莉も、なにかと夕陽のことを気にかけてくれるけれど、夕菜の足元にもおよばない。
 だから夕陽は、そんな夕菜に心配をかけないように気を遣って、平日だろうが休日だろうが、同じルーティーンを繰り返しているのだ。
「おー、夕陽」
「お父さん。おはよう」
 居間では、将が新聞を広げていた。
「たまには、だらだらした休日をすごしてもいいんだぞ」
「これやってないと、落ち着かないから」
 そうして夕陽は、ちゃぶ台に食器を並べる。
「そうか……」
 将は、新聞を読むふりをしながら、夕陽の様子をうかがっていた。
(なんだかな……)
 将は、娘のことも、妻のことも愛している。
 夕菜は、心の底から夕陽のことが好きだし、夕陽だって、夕菜のことが好きなはずだった。
 あなたのことが、好きです、愛しています。
 それだけで、ぜんぶがつながって、丸くおさまればいいのに。
 それなのに、そういうふうになっていかないのは、〝好き〟の性質や、そこに込められたものや、背後にあるものが、それぞれ違うからだ。
 だけど。
 あなたのことが、好きです、愛しています。
(人間同士がつながる理由なんて、それだけあればじゅうぶんじゃないのかねぇ……)
 でも、それっぽいことを考えている将だって。
「早起きがクセになると、婆さんくさくなっちまうぞ」
 素直にアイラブユーが出てこないのだから、おたがいさまなのである。