海鳴りが聞こえる街で

 電車から降りた客たちが、いっせいに歩き出していく。
 その半分以上が、スクールコートを着た受験生だった。
 まだ参考書を手放せず、本を読みながら歩いている人も、けっこういる。
(足をすべらせて、怪我したらどうするんだろ)
 ぎりぎりまで参考書を手放せなかった夕陽だけど、そっちのほうが心配だった。
 一昨日から、県の全域で雪が降り続いていて、ホームや階段は濡れているし、場所によっては凍っているところもある。
 受験当日に大雪で電車が止まったら大変なので、現地での前泊も視野に入れていた。
 母にいたっては、一緒にホテルに泊まろうと言ってくれたのだけど、旅行みたいな雰囲気になって、緊張感を失ってはいけないので、丁重にお断りした。
(こっちは、人が多いなぁ)
 改札口に出ると、学生だけでなく、社会人の姿も目につくようになって、大勢の人が行き交っている。
 そのほとんどが、他人同士。
 この地域では、それが当たりまえなのだろうけど、地元の人間全員が顔見知りという環境で育った夕陽には、慣れない状況だった。
(なんか、人が多くて疲れる)
 夕陽は、県南部の、のどかな田舎町の出身だった。
 同級生は、休日を利用して、都市部のほうに遊びに来たりしていたみたいだけど、夕陽は、中学三年生になっても、地元近辺から外に出たことは無かった。そのため、見ず知らずの他人に気を遣いながら歩くという行為への違和感がぬぐえない。
 改札を出て、ようやくひと息ついたときだった。
 夕陽は、立ち止まっていた。 
(うそ……。どうしよ……)
 コートのポケットからハンカチを取り出して、口を押えた。
 気分が悪くなってしまった。
 例えば、地元だったら、顔見知りの老人たちが、朝から声を張り上げて、大声で笑い合っている。夕陽の姿を見つけたら、必ず、おはようと挨拶をしてくれるのに。
 この都市では、改札を抜けた人々は、川の支流のように分岐して、各々、無機質に目的の方角に流れていく。
 それがすごくさみしくて、気持ちが萎えてしまったのだ。
 小走りに、トイレを探した。
 たまたま、駅構内の奥のほうに、人気の少ないトイレがあったので、すぐに駆けこんで、個室のドアを閉めた。
「どうしよう」
 受験の当日なのに。
 憧れの高校の試験日なのに。
(なにやってんの。ちゃんとしないと)
 とにかく、気持ちを落ち着けないといけない。 
 でも、焦ってうまくいかなくて、情けなくなってきた。
 自分への怒りがこみ上げてくる。
(まずい。〝あれ〟が来ちゃう!)
 体内に蓄えていた酸素が、失われていくような錯覚に陥る。
(なんで、今日に限って来ちゃうの?)
 無意識に、呼吸が荒くなる。
「はぁっ、はぁっ……!」
 苦しい。
 コートの上から、胸もとをつかんだ。
 ドアにおでこを押し付けた。
 苦しい。息が苦しい。
 この苦しさは、ただの錯覚。脳が見せてくる幻覚でしか無い。それは、何度も医者に言い聞かされてきたし、夕陽も理解はしている。
 だけど、この幻覚は、あまりにも現実味がありすぎる。
 なぜなら、これは、まぎれも無く夕陽が体験したことだからだ。
 幼いころに感じた、「あのとき」の感覚を、脳は、はっきりと記憶していて、いまでも夕陽に襲いかかってくる。
 懸命に、口を塞いで酸素が外に漏れるのを防ぐけれど、この深い闇のまえでは、無駄な抵抗だった
 闇に呑まれてしまえば、すぐに体内に溜め込んだ酸素は無くなって、夕陽は、人としての生命活動を終える。
 ひとりぼっち。好きな人たちに見守られることも無く、たった独りで闇の中に消えていくんだと悟ったときの絶望とむなしさ。
 そして。
―――夕陽っ! 夕陽ぃっ!―――
 悲痛な叫び。
 最後に耳にした、愛する人の声を、脳は鮮明に記憶している。
 いま、この瞬間の出来事であるように。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 こみあげてくる後悔が、涙となって流れ落ちる。
 泣いても、なにも変わらない。
 失ったものは、とり戻すことはできない。
 この罪を、夕陽はこれからも背負い続ける。許されることの無い罪を。
 肩が上下している。
 涙をハンカチで吸いとった。
「終わった……」
 スマホで、時間を確認した。天候が悪いこともあって、余裕をもって出かけて来たので、試験の時間には、じゅうぶん間に合う。
 だけどこれじゃ、完全に消化試合だ。
 ボロボロに崩れたメンタルで試験に臨んだところで、結果は見えている。
 座椅子に腰かけて天井を仰ぐと、個室のドアがノックされた。