海鳴りが聞こえる街で

 この街は、草木と共にある。
 冬を越えた木々が、鮮やかな緑色の葉を茂らせ、桜も、少しずつ花を咲かせ始めている。
 薄紅色の花びらが、山の緑の中に、ちら、ほら、と見られるようになった。
 つつましく揺れている若々しい花弁は、恥じらいながら、周囲の木々に挨拶をしているようだった。
 この街は、風が季節の香りを運んでくる。
「行ってきます」
 夕陽が玄関の戸を開けると、草の匂いが鼻をついた。
 ご近所の誰かが早起きをして、草刈りをしたのだろう。
 風がそよいだ。
 まだ肌寒いけれど、やわらかくて、やさしい風だった。
 草の匂いと、なにかの花の香りが混じっている。
 春の風だ。
 その新鮮な風は、心に躍動感を与えてくれる。
 新しい一歩を踏み出すにはうってつけだった。
 夕陽は、すーっと息を吸うと、お腹と足に力を込めて、いざ、我が家から出立しようとした。
 だが……。
「将さん。やっぱり、私だけでも、夕陽ちゃんと一緒に行ったほうがいいと思うの」
「友菜さぁん……」
 かっくんと膝を折る夕陽。
 いままさに、人生の区切りの第一歩を踏み出そうとしていたのに、出鼻をくじかれてしまった。
「朝ご飯のときから、ヘンだなって思ってたんだよ」
 なんかそわそわしてるし、やけにテキパキ洗いものを片づけてるし、そのあと、部屋にこもってなにかしているし……。
 友菜を見れば、服装こそセーターとジーパンの上に割烹着といういつもの恰好だけど、すでにメイクはばっちり。
 なにかあれば、いつでも外に出て行けるぞという態勢だった。
「あとは、スーツを着ればすぐだから。ね?」
 合わせた両手を斜めにして、小首をかしげてみせる。
 夕陽より十歳以上年上のくせに、かわいらしいお姉さんである。
 きっとお父さんは、この天然もののかわいらしさに心を射抜かれたんだろうなぁ。
 夕陽は、将が友菜に求婚するに至った心境を推察した。
「入学式は10時からなんだから、私と一緒に来たら、何時間も待つことになっちゃうよ?」
 現在、朝の6時30分すぎ。
 夕陽たち生徒は、ホームルームがあるからいいけれど、友菜は時間を持て余すことになる。
「大丈夫よ。適当に時間をつぶしているから」
「友菜。夕陽は恥ずかしいんだよ」
 なんせ夕陽は、今日から高校生。周囲の視線が気になるお年ごろ。
 母親同伴で登校なんてしたら、自立できていないみたいに思われるかもしれない。
 周囲の人たちが、本当にそう思っているかどうかは別の問題で、夕陽自身が、そういう感情を抱いてしまうのが嫌なのだ。
 将は、そう説明して友菜を言い諭そうとしたが、
「年ごろの女の子の気持ちは、将さんより私のほうがわかってます」
 頬をふくらませて、不服そうに言う友菜。
 しかし。と夕陽は思う。
 父と結婚するまえから、どこかの奥さんのように……、なんなら、すでに出産を経験しましたよっていうくらいに大人っぽかった友菜の、子ども時代が想像できない。
 夕陽みたいに、女子高生だったこともあっただろうけれど、この人が、入学式くらいで浮かれていたとも思えない。
「それに、都会の怖さも二人より知っているわ。夕陽ちゃんはこんなにかわいいんだもの。危ない人が近寄って来るかもしれないわ」
 こんなにも落ちついていて、大人っぽい友菜なのに、夕陽のことを心配し始めると、周りが見えなくなるのである。
 愛されるのは幸せだけど、友菜のそれは、たまーに行きすぎる。
(それに、友菜さんの愛情って、たぶん……)
 夕陽は、その思いを頭から消し去った。
 こんな邪推をするなんて、愛情を贈ってくれる人に対して失礼だ。
 しかしまぁ、そうは言っても、だ。
 天然かわいらしい記念物に指定されてもおかしく無い友菜ならまだしも、自分をつかまえてかわいいというのは、身内びいきもはなはだしい。
 たしかに、夕陽の背丈は同世代の女の子よりも小さい。
 だけどそれは、かわいらしいということにはつながらない。
 性格だって男勝りだし、かわいいなんていう言葉とは縁遠い。
「でも友菜さん。毎日、一緒に登校するわけにはいかないでしょ」
 夕陽は、これから三年間、何度と無く自宅と学校の間を往復することになる。
 危ない、心配だといっても、まさか、ずっと一緒に登下校してもらうわけにもいかない。
「でも……」
 と考え込んでいた夕菜だったけれど、すぐに穏やかな笑みに切り替えて、
「わかったわ。それじゃあ、後でね」
 夕陽を送り出してくれた。
 両親の見送りを背に受けて、夕陽は駅に向かった。
 家から離れたところで、ちょっとだけ早足になる。
 次の電車がやって来るのは、7時ちょうど。
 駅までは、歩いて約10分。
 時間はじゅうぶんにあるけれど、玄関で立ち話をしていたぶん余裕が無い。
 次の電車を待つとなると、登校時間ギリギリ。
 入学式から、まさかの遅刻なんていう事態は避けないといけない。
 だから彼女の足は、自然と早く動いていた。
 朝の潮風が、夕陽の頬を撫でる。
 ざぁ……。
 ざざぁ……。
 生まれたときから慣れ親しんできた音。
 波が寄せては帰って行く音。 
 ざぁ……。
 ざざぁ……。
 決して、止まることの無い音。
 この街は、海が奏でる音と共にあった。
 防波堤を兼ねている高い道路の上から、海を横目に見る。
 朝陽が、海を照らしていた。
 黄金の光が、海面を輝かせている。
 駅に到着した。
 かんかんかん……。
 遠くから、徐々に近づいてくる踏切の音は、うち寄せて来る波音に似ているような気がする。
 電車がホームに流れて来て、緩やかに停車した。
(この時間じゃ、誰も降りてこないよね)
 それもそのはず。もう陽は昇っているので、朝釣りをするには微妙に遅い。
 車両に足を踏み入れても、座席はほとんど埋まっていない。
 ほぼ必ず座ることができるのは、田舎の駅の、数少ない利点だった。
 夕陽は、カバンの中から文庫本を取り出した。
 電車が揺れる。
 海沿いに敷かれた線路の上を、電車が走る。
 窓から朝陽が伸びて、床を照らす。
 手にしていた文庫本から目を離して、顔を上げた。
 電車の窓に、自分の姿が映っている。
 パリッとした、ま新しい制服を身にまとっている自分がそこに居た。
 なんだかこそばゆい。
 彼女の気恥ずかしさを見透かしたように、朝陽がこちらを覗いている。
「行ってきます……」
 夕陽は、他の人に聞こえないように、小声で告げた。
 そして夕陽は。
 お母さん。
 という言葉を胸の中に隠した。