海鳴りが聞こえる街で

 アーケード街のベーカリーから、焼きたてのパンの香りが流れてくる。
 これから三年間、この香りを吸い込み続けるのが日課になるだろう。
 しっかりご飯を食べてきたのに、食欲が刺激される。軽めのパン一個くらいなら、食べても平気じゃないかと考えてしまう。
 開店まえから、数人の行列ができているけれど、気持ちはわかる。
 受験の日の帰りに、愛梨と一緒にパンを買って食べたけれど、これが期待どおりにおいしかった。
 ご飯党の夕陽なのに、胃袋をがっちりつかまれた。夕陽と愛梨は、あのパン屋のリピーターになることだろう。
 ファーストフードやチェーンの定食屋では、サラリーマンたちが、朝の栄養補給を行っている。
 今日は、受験日とはうって変わって、晴天だった。
 ステングラスが張りめぐらされたアーチ状の天井から、虹色の光が振ってきて、街路樹がまとっているゴールドやシルバーのアクセサリーを、てらてらと照らす。
 商店街を抜けた先には、住宅やマンション、会社の事務所が入ったビルが並んでいる。
 その中に、昔ながらの商店や駄菓子屋、年季の入ったラーメン屋や居酒屋なんかがあって、生活臭のする街並みを形成していた。
 用水路に添ってまっすぐ歩く。
海藍(かい)くんは、なんで宮ノ森に進学しようと思ったの?」
 夕陽の右手を愛梨がにぎっていて、愛梨の隣を海藍が歩いている。
 なので、海藍に話しかけるときには、愛梨越しに話しかけることになるので、少々、めんどい。
 しかも愛梨ときたら、ぜんぜん海藍に話しかけないものだから、夕陽が気を遣って話の種を提供しないといけないのだ。
 海藍に話かけながら愛梨の顔をチラ見すると、貝みたいに口を閉ざして、むっつりと押し黙っている。
 社交的で明るい性格をしているっぽいのに、どうしたのだろう。
(もしかして、男の人が苦手とか)
 と思ったけど、男の人が苦手なんだったら、自己紹介を終えてからずっと、愛梨が海藍の隣を歩いているのは意味がわからない。
「進学するなら、自分の成績に見合った学校にしなさいって、先生からも親からも言われたんだよ。幸い、実家はそれなりに裕福だし、学生のうちは甘えておこうかなって」
 宮ノ森は、県内有数の進学校として知られている。
 仲の良い友達と一緒の高校に通いたいとかいう心構えで受験したところで、返り討ちに遭うだけ。時間と受験料をどぶに捨てるようなものだ。
「夕陽ちゃんは、どうして宮ノ森にしたの?」
「えっとね……」
 なぜ夕陽は、宮ノ森を第一志望にしたのか。
 両親に、莫大な借りを作ってまで、私立を目指したのか。
(宮ノ森の生徒になりたかっただけ。って言ったら、おかしいと思われるよね)
 夕陽が抱えている事情は、浅いようで深い。まるで、海みたいに。
 そこのところを、かいつまんで説明すると、宮ノ森に通いたかったから。ということになる。 
 高校生活は、夕陽たちが大人になるための、過渡期といえる。
 これから先、大学に進学したり、就職をしたり、様々な選択が待ち受けている。
 だけど夕陽は、将来のことを、あんまり考えたくない。
 宮ノ森の生徒になったという、その実績さえあればいい。
 これからの三年間が、無味無臭で、からっぽな日々の繰り返しであっても、かまわないと思っている。
 すごく、極端なのだ。
 そんな極論を他人にうちあけることに、ためらいを感じる。
 だから、愛梨に同じ質問をされたときも、口をつぐむしかなかったのだ。
「はぁー。成績に見合う高校が宮ノ森とは、たいしたもんですなぁ」
 おおげさに肩をすくめてみせる、愛梨。
文月(ふみつき)くんは、勉強もできるんだねぇ。うらやましい」
 困っている夕陽を助けようという意図では無い。敵意しか感じられない言いかただった。
 夕陽のことは、すぐ名前呼びしてきた愛莉が、海藍に対しては苗字呼びしていることからも、海藍に対する敵意を感じ取ることができた。
 ときおり、海藍が助けを求める視線を送ってくるけれど、夕陽だって、愛梨のことは、まだまだ知らないことだらけなのだ。助けてあげたいけれど、手段がわからない。 
(なんか気まずいなぁ)
 決して、会話の仲裁が得意なわけでは無い夕陽が、さじを投げかけたとき。
 用水路を隔てた向こう側に、私立宮ノ森学園のグラウンドと校舎が見えてきた。
 このあと、校舎に入るまえに、所属クラスの確認をする。
 クラスが分かれてしまえば、この二人のことで思い悩むことも無くなる。
 ついさっき知り合った人と同じクラスになるなんて、
(そんな、漫画やアニメやゲームじゃあるまいし、あるわけないよね)
 などという慢心は禁物なのだということを、夕陽はこのあと、思い知ることになる。