つがいがなんだってんだ!◇放課後見聞録◇

 *

 帰りのホームルームの終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、教室のあちこちで椅子を引く音や、張り詰めていた緊張が解けたような笑い声が一斉に広がった。
 
「青葉ー!」
 
 机の上で、鞄へ教科書をしまっていた青葉が顔を上げると、伊織(いおり)がぶんぶんと手を振りながら駆け寄ってきた。
 
「今日さ、ミキティたちがこのあとカラオケ行くって言ってるんだけど。青葉も行くっしょ?」
「あー、ごめん。ハゲ山に呼び出されてるんだよね。卒研のことで」
「あ、そっか……例のやつね」
 
 伊織は一瞬だけ「ちぇー」と残念そうな顔をしたかと思えば、すぐにいつもの太陽のような明るい笑顔へと切り替える。
 
「じゃあ頑張って! また今度、予定合うときに行こ!」
「ありがと。また絶対誘って」
「うん、約束ね!」
 
 その時、教室の後方のドア付近から、遊びに行くメンバーの声が飛んできた。
 
「伊織ー、そろそろ行くよー」
「はーい、今行く!」
 
 伊織は青葉へ、じゃあね、と軽く手を振る。
 
「じゃ、また明日ね!」
「うん。美希(みき)紗耶(さや)も、おつかれ」
「青葉またね、卒研ファイトー」
 
 青葉は苦笑しながら手を振り返し、そのまま準備のために職員棟へ。伊織は美希たちと合流して並んで廊下へと出た。

「青葉、本当に頑張ってんねぇ。なんか最近、前よりさらに燃えてない?」
 
 隣を歩く美希が、感心したようにぽつりと呟いた。
 
「ね! 今、すっごい楽しそうだよ」
 
 伊織は、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張って笑う。
 
「ほんと尊敬するわー。私なんて、赤点回避するだけでいっぱいいっぱいなのに」
「それな。あの膨大な数式とか術式理論とか、私には絶対無理」
「あはは、だよねー」
 
 三人で顔を見合わせて笑い合ったあと、紗耶がふと思い出したように小首を傾げた。
 
「そういえばさ、前からちょっと気になってたんだけど」
「ん?」
「伊織と青葉って、キャラ的にも結構正反対じゃん? ウチらと仲良くなった時には、もう二人仲良かったけどさ、どこに接点あったのかなって」
「あー、確かに。青葉、休み時間も本ばっかり読んでるイメージだし。伊織は逆に、クラスの真ん中で思いっきり騒いでるタイプだよね」
「まあ、それは否定しない!」
 
 伊織はいたずらっぽくペロリと舌を出して苦笑した。
 
「二人はさ、いつからそんなに仲良くなったの?」
「んー、そうだなあ……」
 
 伊織は視線を斜め上へと向けながら、記憶の引き出しをひっくり返す。
 
「確か、高一の春……入学してすぐ、かな」

 ***
 
 高等部の入学式から、一週間。初等部の頃から憧れていた、おしゃれなデザインの制服に身を包み、教室へと足を踏み入れる。クラスメイトの顔と名前はまだ半分ぐらいしか一致してないけれど、全部が新しくて、毎日が楽しくて仕方がなかった。
 
『よろしくね! 私、橘伊織!』
『中等部では話したことなかったよね、何の霊術なの?』
 
 幸い、社交的な性格のおかげもあって、打ち解けるのは早かった。周りの席のクラスメイトたちに声をかけては、中学の話や趣味の話に共通点を見つけて盛り上がる。感応霊術者はこういう時、かなり得をするタイプだと思う。相手のちょっとした感情の変化を読み取るのが容易だから。纏う霊力の些細な変化を無意識のうちに観察しながら、今の話食いつきがいいなとか、この話はあんまり触れてほしくないんだなとか、そんなことを思いながら会話をコントロールする。
 ——楽しい。……読めすぎてしまうことに、ほんの少しだけ、疲れるときもあるけれど。
 そんな賑やかな教室の中で、一人だけ。
 少しだけ、不思議な雰囲気を纏っている女子生徒がいた。
 もちろん、声をかけられれば人並みに話しているし、話を合わせて愛想よく笑うことだってある。
 だけどその子が一番、世界で一番楽しそうな、生き生きとした顔をする瞬間は——周囲の雑音をすべてシャットアウトして、たった一人で机に向かい、分厚い本を読み進めている時だった。
 
(……なんだろ、あの子)
 
 教室の最後列、真後ろにロッカーを控えた席で、春の柔らかな光を浴びながら、静かに、愛おしそうにページをめくる横顔が、妙に印象的だった。

 ある日の休み時間、ふと彼女の席を通りかかった時、伊織の目にその本のタイトルが飛び込んできた。
 
『高等霊術理論体系——現代霊術回路とその変革 第三版』
 
(うげっ……!? 文字を見ただけでクラクラする……)
 
 思わず、心の中で盛大に顔をしかめた。何気なく開かれているページを上から覗き見れば、そこには凡人にはおよそ理解できない、びっしりと羅列された奇怪な術式幾何学の記号と、複雑極まる高等術式の山。
 
(なにこれ……一ページ、いや一行読んだだけで知恵熱が出そうなんだけど)
 
 なのに、その席に座る少女——篠宮青葉は、ほんの少しだけ薄い唇の口元を嬉しそうに緩めながら、まるで極上のミステリー小説でも読んでいるかのように、その難解な世界へと深く没頭していた。
 
(そんなに、面白いのかな)
 
 伊織には、その本の価値も、書かれている内容もさっぱり分からない。
 だから、すごく不思議だった。
 あんな難しそうな本を理解していることの凄さもそうだけれど。何よりも、他人の目を気にすることなく、ただ自分の大好きが詰まったその世界を、心から楽しそうに見つめている彼女のその瞳が——まるで『自分の好きはこれだ。他の誰にも、否定させない』と言っているようで。
 周りの目を気にすることなく静かに芯を貫くその姿勢が、周りに合わせるのが当たり前に染み付いている自分には、やけに新鮮に映ったのだ。
 別に、相手の様子を窺うことは、悪いことではない。自分の長所だとも思っている。けど。
 
(この子の目には、一体どんな景色が見えてるんだろう)
 
 気づいたときには、伊織の足はその席の前で完全に止まっていて、脳で考えるより先に、口が勝手に動いていた。
 
「ねえ」
 
 声をかけると、分厚い本の紙面から、少女の顔がゆっくりと上がった。
 突然話しかけられて、少しだけ警戒したような、戸惑ったような瞳が伊織を捉える。
 
「篠宮さん、だよね?」
「……うん。そうだけど」
「その本さ、そんなに面白いの?」
 
 我ながらストレートすぎる質問に、篠宮は一度だけ手元の本を見下ろし、それから「どう説明したものか」と少しだけ考えるように視線を落としたあと、静かに、けれどしっかりと頷いた。
 
「うん。すごく、面白いよ」
 
 そのどこか誇らしげな色を含んだ返事を聞いた瞬間、伊織の胸の奥にすとんと何かが落ちて、思わず顔いっぱいに笑みが弾けた。
 
「そっか!」
「……?」
「ねえ、具体的にどこがどんな風に面白いの?」
 
 その問いに、篠宮は今度は片眉を上げてフリーズしていた。そんなことまで突っ込んで聞いてくる同級生は初めてだったのか、ひどく困ったように眉を八の字に下げる。……そんな顔もするんだ? たった数秒で、ころころと表情を変えていく彼女に、俄然興味が湧いてきた。
 
「えっと……それは、この第一回路の、霊力の伝達効率の数式が、従来の理論を覆す美しさで組まれていて……」
 
 一生懸命に説明しようとして、けれど専門用語をどこまで使っていいか分からずに言葉を探して、結局また口を閉じて止まってしまう。
 いつものクールな印象からは想像もつかないような不器用な姿が、どうしようもなくおかしくて、愛おしくて。なんだ、全然人間じゃん。
 伊織は我慢できずに、お腹を抱えて思わずぷっと吹き出してしまった。
 
「あはは! ごめんごめん!」
「……いや、別に。笑わなくてもいいじゃない」
「違うの! 私、多分それ以上聞いても、頭悪すぎて半分も理解できないと思う!」
「じゃあ、なんで聞いたのさ……」
 
 篠宮はそう言いながら、少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
 ああ、からかってるって誤解させちゃったかな。違うんだよ。でも、あんまり良い表情するからさ。もっと知りたくなっちゃったじゃん。
 篠宮青葉は、自分が思っていたよりもずっと不器用で、人間くさくて、かわいい人だ。
 伊織は涙を指先で拭いながら、彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。
 
「だってさ。篠宮さんがそんなに楽しそうに読んでる本なんだもん。きっと、私には見えない、すっごく素敵な世界が広がってるんだろうなーって、気になっちゃったんだよね!」
 
 彼女は今度こそ完全に目を丸くしたまま、目の前で笑う伊織の顔をじっと見つめ返すと——やがて、雪が解けるみたいに、少しだけ。口元に柔らかく、優しく緩んだ笑みを浮かべた。
 
「……橘さんって、変な人だね」
「えー!? 酷い、出会って三分で変人扱い!? あ、でも中学の時もよく言われてたわ!」
「あはは、言われてたんだ」
 
 昼間の陽が差し込む賑やかな教室の一角に、二人の笑い声が小さく、けれど心地よく重なり合った。

***

「——って感じだったかなあ」
「へえー。なんか意外」
「何が?」
「もっとこう、ドラマチックなきっかけがあったのかと思ってた」
「あはは! ないない!」

 伊織は笑いながら、ひらひらと手を振った。

「なんか気になって話しかけて、次の日も話して、その次の日も話して。気づいたら一緒にいるようになってただけ」
「へえ。そんなもんか」
「そんなもんでしょ」

 そう答えてから、伊織は少しだけ考える。
 三年近く経った今でも、青葉が見ている世界の半分も、自分には分からない。
 数式も、術式も、研究の面白さも。
 だけど。楽しそうにその世界を語る青葉を見るのは、今でも変わらず好きだった。

「——ま、私が青葉のこと大好きだからね!」
「はいはい」
「急に重っ」
「親友への愛じゃん! ビッグラブ!」
「まあ、その親友が卒研頑張ってるとこ、ウチらは今から呑気にカラオケ行くんですけどね」
「青葉、ハゲ山に無茶言われてないかなー」
「明日プリン買ってってあげよかな。固いやつ」
「あはは、私もサイダー買ってこ」
「差し入れした時の青葉さー、ほっぺたもにょもにょしててかわいいよね」
「それなー」

 三人の笑い声が、放課後の廊下に響いた。