***
放課後。生徒会の仕事を終えた玲司は、図書館へと向かっていた。霊学祭の予算協議が思いのほか長引いてしまい、篠宮を待たせてしまっている。下校時間を意識して生徒会や部活をするようになったのは、番紋が顕れてからの一番大きな変化だった。自分が遅くなることに彼女から文句を言われたことは一度もないけれど、だからこそ余計に、待たせているという罪悪感が歩調を速めた。一段飛ばしで階段を登り、ガタついた古い扉を開け、広い館内を見渡す。
橙色の夕日が図書館の窓辺を柔らかく照らす中——篠宮は、いた。
「……目を……霊力……植物……」
(植物……野依の霊術の解析か?)
隅の方の席で本を開き、なにやらぶつぶつと独り言を小さく溢しながらノートにメモを取っている。扉を開けた音にも、篠宮に近づく自分の気配にもまるで気づいていないところをみると、相当集中しているらしい。
「篠宮、お疲れ」
「わっ! ……って、東雲か。びっくりした」
「ごめん。びっくりさせるつもりはなかったんだけど、すごい集中してたから」
「え、待って。今何時……うそ、もうこんな時間!? ごめん、もしかして私が待たせちゃった?」
「あー、違う違う。俺は今来たところだよ」
「そっか……こんな時間まで、お疲れさま。生徒会の仕事、終わったの?」
「うん。篠宮は? 図書当番」
「こっちも終わったよ。もう他の当番はみんな帰ったから、あとは私だけ」
「そっか。……あれ、その本って」
「ああ、これ?」
玲司の問いかけに、篠宮は机の上に広げていた本を閉じて表紙を見せた。
そこには、いつも彼女が開いている本のような難解な術式の模様はなく、可愛らしくデフォルメされた狐やウサギのイラストがついている。
『初心者にもわかる! 式神とのふれあい方・入門』
「明日のお昼、リベンジしたいの。また一緒に行ってくれる?」
「明日も? まあ、俺は良いけど……さっきまで、ずっとそれ読んでたの?」
「だって、このまま一匹も触れなかったら、さすがに悲しすぎるじゃん。伊織にも、これまでずっと私のわがままに付き合ってもらっちゃってるし……」
「橘、心配してたよ。篠宮のこと」
「え、なんて?」
「去年も一昨年も、触れなかったんだろ? 今年はもう行かないって言うかと思ってたって」
「触れなかったのは確かに悲しいけど……今年こそは、仲良くできるかもしれないじゃん」
「諦めないんだ?」
「諦めちゃったら、仲良くなれる可能性すら無くなっちゃうでしょ」
「そっか……たしかに、そうだな」
「颯人には、『往生際の悪い女』って散々言われてるけどね」
なるほど。橘や瑞浪が言う『頑固な篠宮』の片鱗を、垣間見た気がする。けれど、あれほど式神に逃げられてなお、ふれあうことを諦めない不屈の精神は素直に尊敬に値する。自分ならとっくに折れてるだろう。
「いいんじゃない? 『粘り強い』ってことだろ」
「! ……うん。ありがと」
思いがけない言葉に、篠宮は素っ頓狂な顔をしたまま固まっていた。やがて、蚊の鳴くような声でぽつりと呟く。その様子に、玲司はゆるりと笑みを浮かべると、静かに隣の椅子を引いた。
誰もいない図書館。聞こえるのは、校庭からかすかに届く運動部の掛け声と、篠宮がページをめくるパラッという紙の音だけだ。
「それで、なんか参考になりそうなこと、書いてあった?」
玲司が覗き込むと、篠宮は真剣な顔でノートのメモを指差した。
「えっとね。まず第一に、『目を直接見つめすぎないこと』。獲物を狙う肉食獣の目つきだと勘違いされるんだって」
「……うん。まあ、そうだな」
「第二に、『正の霊力の出力を極限まで落とし、凪いだ霊力を纏うこと』。存在感を植物に近づけるのがコツらしいの」
「植物に……近づける……?」
だからさっき、植物がどうだと呟いていたのか。というか、解説の仕方が随分と独特だ。手に取ったことも、おそらく今後も手に取ることもないであろう本。図らずも篠宮を通じて知ったその内容に、少しだけ読んでみたいと思ってしまった。
篠宮はノートにまとめた内容を一通り説明してから、うーんと眉を寄せて腕を組んだ。
「理論は分かってるの。……でも、いざ目の前に式神が来ると、どうにもテンションが上がっちゃって、無意識に霊力が正に寄っちゃうみたいで……」
大真面目に分析しているけれど、その根底にあるのは「どうしても式神に触ってみたい」という子どものように無垢な願いだ。そのアンバランスさに、つい笑いそうになってしまう。けれど当の本人はいたって深刻に悩んでいるのだから、茶化すなんてできなかった。
「……じゃあ、練習してみる?」
玲司がぽつりとそう言うと、篠宮はぱちりと大きな目を瞬かせた。
「練習?」
「本には、『目を見つめすぎない』『霊力を凪いだ状態に』って書いてあるんだろ? ここに式神はいないけど、俺相手に試してみれば少しは感覚掴めるかもしれない」
「なるほど……!」
篠宮は勢いよく立ち上がると、ノートと本をぱたんと閉じた。
「じゃあ東雲、式神役やってよ!」
「式神役?」
「うん!」
あまりにも迷いのない返事に、玲司は思わず笑いを噛み殺す。
「分かった」
玲司はパイプ椅子に座ったまま、すっと姿勢を正した。
「これでいい?」
「うん。まずは目を見ない……」
篠宮はぶつぶつと本の内容を反芻しながら、一歩、また一歩と玲司へ近づいてくる。
視線は目ではなく、顎の辺り。呼吸も静かに整えて。肩の力も抜いて——。
すーっと息を殺して距離を縮めてくる、その健気で真剣な横顔を見つめているうちに、玲司の胸の奥がじんわりと熱くなり、思わず口元が緩んでしまった。
「……あ」
「ん?」
「東雲、今笑ったでしょ」
「え?」
「笑ったから、目が合っちゃった」
「それは……ごめん」
「ダメだぁ。やっぱ実物じゃないと、いまいち分かんないね」
「まあでも、昼の時よりは圧が消えてたんじゃないか? 明日は上手くいくといいな」
一瞬きょとんとした篠宮は、玲司の言葉の意味を理解すると、ふっと肩の力を抜いて吹き出した。
「……そうだね」
静かな図書館に、二人の小さな笑い声が優しく重なる。
篠宮はノートを鞄へしまい、本を持って図書カウンターの方へと向かっていった。
「よし。もうちょっと家で勉強して、明日は絶対、一匹くらい触ってみせる」
「ふふっ……応援してる」
玲司は優しく笑いながら頷いた。
***
翌日の昼休み。三人は再び、柔らかな日差しが注ぐ体育館横の広場へと足を運んでいた。
「あ……!! か、かわいいっ——」
広場に入るやいなや、一匹の小さなうさぎの式神がトコトコと歩み寄ってくるのを見つけ、篠宮は昨日と同じように「待ってました!」とばかりに飛びつこうとした。
「篠宮」
「! ……東雲?」
すかさず手を出そうとした篠宮の肩を、玲司が後ろから優しく制する。
「昨日の、思い出して。大丈夫だから、落ち着いて」
「! ……う、うん。……おいで」
目を直接合わせすぎないように。息を静かに整えて、霊力を凪いだ状態に。昨日、放課後の図書館でイメージトレーニングした通りに——そっと、掌をうさぎの式神の目線まで降ろした。
うさぎは、クンクンと鼻先を鳴らして篠宮の指先の匂いを嗅ぐと、安心したようにその小さな頭を篠宮の掌に擦り寄せてきた。
「!! あ……さ、触れた……! 伊織、東雲、見て……っ!」
篠宮の瞳が、歓喜でパッと見開かれる。
「え、うそ、青葉……!? ついに触れたの!? うわぁーっ、良かったねぇ……! 良かったね、青葉……!!」
ずっと横で失敗を見続けてきた橘が、自分のことのようにパッと表情を輝かせ、手を叩いて祝福した。心なしか、目にはうっすらと涙が滲んでいる。
「東雲、触れた! どうしよう、すっごくかわいい……っ! 見て、ほっぺ、ぷにぷに……すごい、あったかい……か、かわいい……!!」
どれほど逃げられても決してめげることなく、図書館で専門書を読み漁ってまで理論武装していた少女は、ようやくその小さな温もりに触れた瞬間——一切の語彙力を失い、ただ「かわいい、かわいい」と子どものように瞳を輝かせて愛でていた。
穏やかな光に照らされながら、うさぎを愛おしそうに撫でるその横顔が、あまりにも眩しくて。
(……ずるじゃん)
心臓がドクンと大きく跳ね上がり、玲司は堪らず片手で口元を覆った。
「ははっ……かわいいな」
その日篠宮は、午後の始業の予鈴が鳴るまで、嬉しそうにうさぎの背中を何度も撫で続けていた。
放課後。生徒会の仕事を終えた玲司は、図書館へと向かっていた。霊学祭の予算協議が思いのほか長引いてしまい、篠宮を待たせてしまっている。下校時間を意識して生徒会や部活をするようになったのは、番紋が顕れてからの一番大きな変化だった。自分が遅くなることに彼女から文句を言われたことは一度もないけれど、だからこそ余計に、待たせているという罪悪感が歩調を速めた。一段飛ばしで階段を登り、ガタついた古い扉を開け、広い館内を見渡す。
橙色の夕日が図書館の窓辺を柔らかく照らす中——篠宮は、いた。
「……目を……霊力……植物……」
(植物……野依の霊術の解析か?)
隅の方の席で本を開き、なにやらぶつぶつと独り言を小さく溢しながらノートにメモを取っている。扉を開けた音にも、篠宮に近づく自分の気配にもまるで気づいていないところをみると、相当集中しているらしい。
「篠宮、お疲れ」
「わっ! ……って、東雲か。びっくりした」
「ごめん。びっくりさせるつもりはなかったんだけど、すごい集中してたから」
「え、待って。今何時……うそ、もうこんな時間!? ごめん、もしかして私が待たせちゃった?」
「あー、違う違う。俺は今来たところだよ」
「そっか……こんな時間まで、お疲れさま。生徒会の仕事、終わったの?」
「うん。篠宮は? 図書当番」
「こっちも終わったよ。もう他の当番はみんな帰ったから、あとは私だけ」
「そっか。……あれ、その本って」
「ああ、これ?」
玲司の問いかけに、篠宮は机の上に広げていた本を閉じて表紙を見せた。
そこには、いつも彼女が開いている本のような難解な術式の模様はなく、可愛らしくデフォルメされた狐やウサギのイラストがついている。
『初心者にもわかる! 式神とのふれあい方・入門』
「明日のお昼、リベンジしたいの。また一緒に行ってくれる?」
「明日も? まあ、俺は良いけど……さっきまで、ずっとそれ読んでたの?」
「だって、このまま一匹も触れなかったら、さすがに悲しすぎるじゃん。伊織にも、これまでずっと私のわがままに付き合ってもらっちゃってるし……」
「橘、心配してたよ。篠宮のこと」
「え、なんて?」
「去年も一昨年も、触れなかったんだろ? 今年はもう行かないって言うかと思ってたって」
「触れなかったのは確かに悲しいけど……今年こそは、仲良くできるかもしれないじゃん」
「諦めないんだ?」
「諦めちゃったら、仲良くなれる可能性すら無くなっちゃうでしょ」
「そっか……たしかに、そうだな」
「颯人には、『往生際の悪い女』って散々言われてるけどね」
なるほど。橘や瑞浪が言う『頑固な篠宮』の片鱗を、垣間見た気がする。けれど、あれほど式神に逃げられてなお、ふれあうことを諦めない不屈の精神は素直に尊敬に値する。自分ならとっくに折れてるだろう。
「いいんじゃない? 『粘り強い』ってことだろ」
「! ……うん。ありがと」
思いがけない言葉に、篠宮は素っ頓狂な顔をしたまま固まっていた。やがて、蚊の鳴くような声でぽつりと呟く。その様子に、玲司はゆるりと笑みを浮かべると、静かに隣の椅子を引いた。
誰もいない図書館。聞こえるのは、校庭からかすかに届く運動部の掛け声と、篠宮がページをめくるパラッという紙の音だけだ。
「それで、なんか参考になりそうなこと、書いてあった?」
玲司が覗き込むと、篠宮は真剣な顔でノートのメモを指差した。
「えっとね。まず第一に、『目を直接見つめすぎないこと』。獲物を狙う肉食獣の目つきだと勘違いされるんだって」
「……うん。まあ、そうだな」
「第二に、『正の霊力の出力を極限まで落とし、凪いだ霊力を纏うこと』。存在感を植物に近づけるのがコツらしいの」
「植物に……近づける……?」
だからさっき、植物がどうだと呟いていたのか。というか、解説の仕方が随分と独特だ。手に取ったことも、おそらく今後も手に取ることもないであろう本。図らずも篠宮を通じて知ったその内容に、少しだけ読んでみたいと思ってしまった。
篠宮はノートにまとめた内容を一通り説明してから、うーんと眉を寄せて腕を組んだ。
「理論は分かってるの。……でも、いざ目の前に式神が来ると、どうにもテンションが上がっちゃって、無意識に霊力が正に寄っちゃうみたいで……」
大真面目に分析しているけれど、その根底にあるのは「どうしても式神に触ってみたい」という子どものように無垢な願いだ。そのアンバランスさに、つい笑いそうになってしまう。けれど当の本人はいたって深刻に悩んでいるのだから、茶化すなんてできなかった。
「……じゃあ、練習してみる?」
玲司がぽつりとそう言うと、篠宮はぱちりと大きな目を瞬かせた。
「練習?」
「本には、『目を見つめすぎない』『霊力を凪いだ状態に』って書いてあるんだろ? ここに式神はいないけど、俺相手に試してみれば少しは感覚掴めるかもしれない」
「なるほど……!」
篠宮は勢いよく立ち上がると、ノートと本をぱたんと閉じた。
「じゃあ東雲、式神役やってよ!」
「式神役?」
「うん!」
あまりにも迷いのない返事に、玲司は思わず笑いを噛み殺す。
「分かった」
玲司はパイプ椅子に座ったまま、すっと姿勢を正した。
「これでいい?」
「うん。まずは目を見ない……」
篠宮はぶつぶつと本の内容を反芻しながら、一歩、また一歩と玲司へ近づいてくる。
視線は目ではなく、顎の辺り。呼吸も静かに整えて。肩の力も抜いて——。
すーっと息を殺して距離を縮めてくる、その健気で真剣な横顔を見つめているうちに、玲司の胸の奥がじんわりと熱くなり、思わず口元が緩んでしまった。
「……あ」
「ん?」
「東雲、今笑ったでしょ」
「え?」
「笑ったから、目が合っちゃった」
「それは……ごめん」
「ダメだぁ。やっぱ実物じゃないと、いまいち分かんないね」
「まあでも、昼の時よりは圧が消えてたんじゃないか? 明日は上手くいくといいな」
一瞬きょとんとした篠宮は、玲司の言葉の意味を理解すると、ふっと肩の力を抜いて吹き出した。
「……そうだね」
静かな図書館に、二人の小さな笑い声が優しく重なる。
篠宮はノートを鞄へしまい、本を持って図書カウンターの方へと向かっていった。
「よし。もうちょっと家で勉強して、明日は絶対、一匹くらい触ってみせる」
「ふふっ……応援してる」
玲司は優しく笑いながら頷いた。
***
翌日の昼休み。三人は再び、柔らかな日差しが注ぐ体育館横の広場へと足を運んでいた。
「あ……!! か、かわいいっ——」
広場に入るやいなや、一匹の小さなうさぎの式神がトコトコと歩み寄ってくるのを見つけ、篠宮は昨日と同じように「待ってました!」とばかりに飛びつこうとした。
「篠宮」
「! ……東雲?」
すかさず手を出そうとした篠宮の肩を、玲司が後ろから優しく制する。
「昨日の、思い出して。大丈夫だから、落ち着いて」
「! ……う、うん。……おいで」
目を直接合わせすぎないように。息を静かに整えて、霊力を凪いだ状態に。昨日、放課後の図書館でイメージトレーニングした通りに——そっと、掌をうさぎの式神の目線まで降ろした。
うさぎは、クンクンと鼻先を鳴らして篠宮の指先の匂いを嗅ぐと、安心したようにその小さな頭を篠宮の掌に擦り寄せてきた。
「!! あ……さ、触れた……! 伊織、東雲、見て……っ!」
篠宮の瞳が、歓喜でパッと見開かれる。
「え、うそ、青葉……!? ついに触れたの!? うわぁーっ、良かったねぇ……! 良かったね、青葉……!!」
ずっと横で失敗を見続けてきた橘が、自分のことのようにパッと表情を輝かせ、手を叩いて祝福した。心なしか、目にはうっすらと涙が滲んでいる。
「東雲、触れた! どうしよう、すっごくかわいい……っ! 見て、ほっぺ、ぷにぷに……すごい、あったかい……か、かわいい……!!」
どれほど逃げられても決してめげることなく、図書館で専門書を読み漁ってまで理論武装していた少女は、ようやくその小さな温もりに触れた瞬間——一切の語彙力を失い、ただ「かわいい、かわいい」と子どものように瞳を輝かせて愛でていた。
穏やかな光に照らされながら、うさぎを愛おしそうに撫でるその横顔が、あまりにも眩しくて。
(……ずるじゃん)
心臓がドクンと大きく跳ね上がり、玲司は堪らず片手で口元を覆った。
「ははっ……かわいいな」
その日篠宮は、午後の始業の予鈴が鳴るまで、嬉しそうにうさぎの背中を何度も撫で続けていた。


