終電までの契約花嫁――好きになった妻は指名手配犯でした

第9話 終電が終わる夜

 第三十夜。中央駅の大時計が二十三時を告げた瞬間、最終列車は獣のように身を震わせた。

 連結された無人貨車の屋根から、青白い縁灯が溢れている。願いの灯であるはずなのに、光は冷たく、窓硝子へ触れた乗客たちの顔から血の気を奪った。祐記は運転台の制動弁を握り直す。

「制動、効きません!」

 補助機関士が叫ぶ。速度計の針は、規定の赤線を越えてまだ上がった。

 英宣は車内放送の送話器をつかみ、喉の震えを飲み込んだ。

「後方車両へ移動してください。走らないで、荷物は置いて。子どもと足の悪い方を先に。これは訓練ではありませんが、皆さんを降ろすための案内です」

 彼の声が列車全体へ流れる。かつて漏らした運行表のせいで人を危険へ近づけた。その同じ知識で、今は扉の位置、避難梯子、切り離し可能な地点を頭の中へ並べていく。

 中央駅の照明塔では、菜奈が汗だくで色硝子を回していた。赤、青、白。赤、青、白。電話線を切られた駅にも届くよう、夜空へ大きく合図を投げる。

「右の支線を空けて! 客車は左へ避難!」

 大道具の綱を引く手つきで、彼女は帝都の灯りを操った。暁見駅に置いた朝焼けの幕は、避難所の入口で広げられているはずだった。

 映里花は駅務室の床へ石版を広げ、二十九夜分の修復記録を転写していた。煤の濃い線、無事な支線、井戸と病院へ続く道。印刷機はない。それでも彼女は、写しを受け取る駅員に一枚ずつ渡す。

「数字は嘘をつかない、なんて言わないわ。嘘をつく人間が数字を使うの。だから照合して」

 紙を受け取った駅員たちが走り出す。

 野々華は中央駅地下の結界核へ降りた。階段の先は、漆を乾かす蔵のように湿り、金属の焦げる匂いがした。巨大な円盤の中央に、母の継ぎ跡が残っている。十年前から癒えない亀裂は、外周二十九駅へ細く伸びていた。

「お母さん……ここで止めようとしたのね」

 運行婚印が指の上で熱を持つ。三十夜、祐記と歩いた駅、英宣が集めた声、映里花の帳簿、菜奈の灯り、皓規が守りに変えた線路。そのすべてが、細かな金の文字のように指輪へ宿っていた。

 修復には中央結界由来の金が必要だった。けれど、この指輪を溶かせば、契約婚の証も、久世家だけが結界を開ける鍵も消える。

 野々華は炉へ指輪を置いた。

「契約を残すために町を壊すなら、そんな夫婦も仕組みも要りません」

 炎が金を呑む。

 同じ頃、皓規は採石場支線の転轍機へ両腕をかけていた。古い設計図を描いたのは、若い頃の彼自身だった。黒田の過負荷で歯車が噛み、固定棒が跳ねる。

「祐記、あと十二秒だ!」

 血のにじむ手でレバーを押さえる。壊すために集めた腕力を、今は通すために使う。

 英宣が叫んだ。

「無人貨車だけ、三番橋で外せます! 速度を五つ落として、菜奈さんの白が二回光ったら連結器!」

 祐記は返事の代わりに汽笛を鳴らした。白い光が一度、二度。彼は補助員と共に連結器の操作桿を引く。鋼鉄の悲鳴とともに、客車の揺れが軽くなった。

 無人貨車は皓規の支える転轍機を越え、採石場側へ滑り込む。次の瞬間、過剰な縁灯が人のいない空へ噴き上がった。夜空は一瞬だけ昼のように白くなり、それから雨のような金の粒を降らせた。

 中央制御室では、黒田惟正が手動盤へ掌を押しつけていた。遠隔回線を切られたあとも、彼は過負荷を止めようとしない。

 制御室と結界核は、厚い扉と伝声管でつながっていた。黒田の声は鉄の筒を震わせ、炉の前にいる野々華の耳へ届く。

「人は自由にすれば争う。願いは管理する者がいて初めて秩序になる」

 炉の前で膝をついた野々華は、溶けた金へ母の漆を混ぜた。熱で指先が痺れる。それでも筆を離さない。

「管理ではありません。奪っていたんです。二十九夜分の帳簿と証言が、そう示しています」

 扉が開き、映里花が記録束を抱えて駆け込んだ。

「遠隔操作の時刻、回収量、非常統治の命令書。全部写しを取ったわ」

 警備隊長がそれを読み、黒田の命令書と照合する。数人の警備隊員が、黒田ではなく駅員たちの前へ立った。

「副総裁。これ以上の操作を禁じます」

「誰の命令だ」

「この駅にいる人間の命を守るための判断です」

 黒田の手首に縄がかかる。記者が震える手で筆記し、映里花は最後の一枚に黒田拘束の時刻を書き込んだ。

 野々華は中央核の亀裂へ筆を入れた。割れ目を消さない。力の逃げ道を残し、以前より強く継ぐ。金が走り、外周へ、駅へ、線路沿いの手灯りへ伝わっていく。

 最後の線を引いたとき、野々華の視界が傾いた。

 列車を止めた祐記は、運転台から飛び降りた。公務時間も、契約の夜も、もう終わろうとしている。空が白み始め、遠くで始発を待つ鳥の声がした。運行婚印は消え、久世家の印も砕けた。彼に残っているのは、息を切らして地下へ走る自分の足だけだった。

「野々華!」

 彼女を抱き起こす。役に立つからではない。結界を直せるからでも、妻だからでもない。

「生きていてほしい。君自身に、明日を見てほしい」

 野々華の睫毛が震えた。

「契約外のお願いは……高くつきます」

「いくらでも払う」

「まず、泣き顔を帳簿につけます」

 祐記は涙のまま笑った。

 夜明けが来た。旧来の運行印は細かな音を立てて砕け、中央駅の壁に埋め込まれた久世家の紋がただの飾りへ戻る。公証人へ預けた離縁届は、第三十夜の期限を越え、受理手続きへ入った。

 列車は止まっている。けれど、線路沿いには人々の手灯りが並んでいた。

 終電が終わった暗闇の中に、次の始発が通る道だけが、確かに浮かび上がっていた。
【終】