終電までの契約花嫁――好きになった妻は指名手配犯でした

第8話 支配にも反乱にも乗らない

 第二十八夜の中央駅は、拍手のかわりに警笛で満ちていた。

 黒田の非常統治の号令で、駅の扉には鉄の閂が下ろされる。柱へ縛られた野々華の背中に、祐記の体温だけが残っていた。菜奈の細い刃は縄の芯を少しずつ削り、繊維が切れるたびに、二人の手首へ熱が走る。

「三つ数えたら、右へ倒れて」

 祐記が囁く。野々華はうなずくかわりに、踵で床を一度叩いた。

 一、二、三。

 二人が同時に倒れ込んだ瞬間、広間の床下から白い煙が噴き上がった。菜奈が舞台用に仕込んだ煙壺だ。さらに可動床が軋み、花嫁人形の列が警備隊の前へ滑り出す。白無垢の袖が幾重にも広がり、本物の居場所を隠した。

「衣装箱、二番!」

 菜奈の声に、英宣が台車を押し込む。野々華と祐記はその中へ転がり込み、映里花が上から帳簿の束を投げ入れた。

「数字は濡らさないで。姉さんより貴重だから」

「そこは姉を一番にしてください」

 野々華が息を切らして返すと、映里花は泣きそうな顔で「次から」と言った。

 衣装箱は荷物用昇降機で地下へ落ち、保守通路を抜けて中央駅外周の暗がりへ出た。足元に、第二十八結節印が煤に埋もれている。追手の靴音は近い。逃げるだけなら通り過ぎるべきだった。

 だが野々華は道具箱を開いた。

「ここを飛ばせば、二十九夜分がつながりません」

「時間は」

「七分ください。六分で終わらせます」

「残り一分は」

「怒られる準備です」

 祐記は笑うかわりに、警棒を構える監察官の前へ立った。野々華は漆糸を亀裂へ通し、運行婚印の金をそっと触れさせる。印はかすかに震え、地面の下で眠っていた線が浮かんだ。煤は黒田の制御器へ向かい、絡まった血管のように脈打っている。

 六分後、金の継ぎ目が結節印を一周した。七分目に、祐記が本当に叱りかけたので、野々華は先に言った。

「手当は要りません。説教はあとで受けます」

「では、あとで必ず」

 その言葉に、あとでがあることを、二人とも信じたかった。だから足を止めなかった。

 英宣は駅務室の予備送話器へ飛びついていた。彼は各駅へ、鉄道院の命令をただ拒めば乗客が取り残されると告げた。運行を守る駅、避難を受け入れる駅、線路の手灯りを並べる町。それぞれの役目を、祐記の運行日誌から読み上げていく。

「命令待ちでは間に合いません。ですが勝手に走らせても危険です。隣駅と二度確認、病院線を優先、子どもと高齢者は暁見へ。責任は僕も負います」

 声は明るかったが、最後だけ震えた。それでも駅員たちは応じた。彼が一度漏らした運行表を悔いていることも、この二十九夜に各駅を走り回ったことも、皆が知っていた。

 車庫では、皓規が暁鐘団を率いて転轍機のそばにいた。爆薬の箱が積まれている。祐記の顔が硬くなる。

「兄さん」

「最終列車を壊せば、縁灯の吸い上げも止まる。黒田の支配装置ごとな」

「列車を必要としている人も止まります」

 野々華は一冊の名簿を差し出した。第二夜から聞き取った住民の名だ。夜間病院へ通う子、食料倉庫で朝まで働く女工、避難できない老人、井戸を失った商店街。誰かにとって、最終列車は支配の象徴ではなく、今夜を越える道だった。

「母の死を、復讐の許可証にしないでください」

 皓規の目が揺れた。

 祐記は一歩前へ出る。

「父の支配を嫌いながら、今の兄さんも市民に選択を許していない。壊す前に、聞くべきだった」

 長い沈黙のあと、皓規は爆薬の蓋を閉じた。

「暁鐘団は民間人の避難と線路保守へ回れ。爆薬は使わない。車庫を占拠した責任からも逃げない」

 命令が走る。破壊のために集まった人々が、灯りと工具を手に散っていく。野々華はほっとする間もなく、最後の外周駅へ向かった。

 第二十九夜、雨上がりの終点駅で、二十九番目の結節印が光った。

 祐記の運行日誌は分厚く膨れていた。井戸の再開、夜間病院への臨時停車、織部工房への正当な支払い、女性技師の採用、暁見駅の市民利用。野々華はそれを読み、住民の要求を臨時運行規則へまとめる。言葉は短く、根拠は具体的に。誰が見ても直せる帳簿のように。

 各駅長、駅員代表、職人代表が署名した。鉄道院の単独命令が途切れても、駅同士で安全を確認し、乗客を運ぶための共同運行協定だった。

 菜奈も筆を取った。

「暁見駅は避難所にします。それから、いつか市民劇場にします。子どもも職人も、逃げてきた人も、舞台に立てる場所に」

「いつかではなく、図面の日付を今日にしましょう」

 野々華が言うと、菜奈は大きく笑った。

 署名を終えたあと、祐記は古い契約書を開いた。第五項、互いに恋情を求めない。その文字へ二重線を引き、自分の名を書いた。

「第三十夜の後、君がいない明日を選びたくない」

「それは、愛情禁止に触れます」

「だから、訂正を申し入れます。第十二項に従って」

 赤筆が差し出される。野々華は胸の奥が痛いほど温かくなるのを感じながら、同じ箇所へ署名した。赤い線は、禁止を消すためだけでなく、二人で選び直すための線に見えた。

「愛情を告げることは、認めます。返事は、契約と危機が終わってからです」

「待ちます」

「分単位の予定表に入れないでください」

「努力します」

 その時、中央駅の鐘が狂ったように鳴った。黒田が制御器を動かしたのだ。過剰な縁灯を積んだ無人貨車が、最終列車へ連結される。

 祐記は運転台へ走り、英宣は車内放送へ、菜奈は照明塔へ、映里花は図面と石版の前へ、皓規は転轍機へ向かった。

 野々華は運行婚印を握り、中央結界核へ続く階段を見下ろす。

 支配にも、反乱にも乗らない。

 選ぶための線路を、今度こそ自分たちの手で継ぐために。
【終】