終電までの契約花嫁――好きになった妻は指名手配犯でした

第7話 花嫁のいない結婚式

 第二十七夜、中央駅の天井硝子には、まだ暮れ残りの紫が薄く張りついていた。

 今夜、久世家の公開婚礼披露が行われる。新聞には「逃亡中の花嫁、出頭なら関係者不問」と黒田の名で大きく刷られていた。甘い言葉の形をしているが、野々華には罠の匂いしかなかった。

 その披露の前に、中央駅外周の第二十七結節印を直さなければならない。印は貴賓室の床下、一般の客が踏み入れない場所にあった。祐記が見張りの足音を聞き分け、英宣が案内放送で警備を別の改札へ流す。野々華は白い手袋を外し、床下の冷たい鉄へ指を当てた。

「指名手配犯でも、結界は私を花嫁だと認めるのね」

 運行婚印が淡く光った。金の輪郭は細いが、たしかに結節印へ伸び、割れた線を照らした。

「逮捕状より、こちらの方が正直らしい」

 祐記が低く言う。野々華は漆を置き、亀裂を消さず、力が逃げる細道を残して継いだ。修復が終わると、壁の駅時計が一度だけ澄んだ音を立てた。

 あと二駅。けれど、今夜越えなければならないのは、線路の亀裂だけではない。

 披露会場の大広間には、記者、駅長、町会の代表、鉄道院の役人が詰めかけていた。天井から白布が幾重にも垂れ、鏡が柱の陰に置かれ、三十体の花嫁人形が客の間をゆっくり進む。菜奈の仕込みだ。どの人形も、遠目には野々華に見えた。少し悲しげに作られているのが気に食わない。

「本物の私は、あんなに首を傾げません」

 舞台袖で野々華が囁くと、菜奈は真剣に頷いた。

「わかっているわ。本物は帳簿を見るとき、もっと怖い顔をするもの」

「菜奈」

「はいはい、出番まで怒りを保存して」

 広間の中央へ、祐記が一人で進み出た。燕尾服ではなく、最終列車の制服だ。黒田は上座で薄く笑っている。捕らえるつもりの花嫁が、必ずここへ来ると確信している顔だった。

「本日は、妻を差し出すために集まっていただいたのではありません」

 祐記の声が広間を渡った。

「なぜ彼女が罪人にされたのか。その理由を示すために、皆様をお呼びしました」

 黒田の眉が動いた瞬間、白布へ数字が映った。映里花が石版機の灯を強める。織部工房の融資契約、鉄道院の縁灯回収量、井戸の閉鎖日、夜間病院の燃料削減、紙鳶駅の記憶欠落。ばらばらだった記録が、同じ月、同じ印章番号でつながっていく。

「この帳簿は、母の机と鉄道院の廃棄簿、二つの経路から照合しました」

 映里花の声は震えていなかった。祝い菓子の箱から、記者たちが写しを取り出す。英宣の駅内放送が重なり、各駅で聞いた証言が流れた。

 その時、駅時計の文字盤が内側から開いた。

 野々華は狭い機械室から降り、白布の前へ立った。ざわめきが広がる。警官が動きかけたが、周囲の花嫁人形が一斉に袖を翻し、本物の位置を一瞬見失わせた。

「十年前、私の母は中央結界の異常を報告したあと、事故で亡くなりました。母の修復記録と、今夜まで二十七夜分の亀裂を重ねます」

 金の線が地図に走った。宵京を横切る大亀裂は、鉄道院が縁灯を過剰に吸い上げた地域と重なっていた。

 人垣の後ろから、志乃が進み出た。顔色は紙のように白い。手には工房の本印と、鉄道院から受けた融資契約書が握られている。

「私は、脅されていました。差し押さえを恐れ、野々華にすべてを背負わせました。けれど、この借金は架空です。印も帳簿も、ここにあります」

 志乃は野々華へ頭を下げた。

「ごめんなさい」

 野々華の胸に、冷えた水のようなものが落ちた。許せば楽になるのかもしれない。けれど、それは今ここですることではない。

「まず、証言を最後までしてください。誰の名で、どの書類に押したのかを」

 志乃は泣きながら頷いた。映里花が小さく息を吐く。姉妹の間にある亀裂は、まだ金で飾れるほど浅くない。それでも、隠されていた線は表へ出た。継げるかどうかは、そこから先の話だった。

 黒田が立ち上がった。

「茶番だ。反乱者と通じた花嫁の偽造にすぎない。拘束しろ」

 警備隊が踏み出したその時、中央駅の奥で爆発音がした。硝子が震え、白布が揺れる。英宣の顔色が変わった。

「車庫です。皓規さんが、無人信号塔を壊した」

 死者は出ていない。だが全線停止の口実には十分だった。黒田は待っていたように片手を上げた。

「ご覧の通り、反乱は始まった。鉄道院は非常統治へ移行する。市民の移動を禁じ、駅を封鎖せよ」

 支配と反乱。二つの力が、同じように人々の行き先を奪っていく。

 混乱のなか、祐記は野々華の腕を取った。菜奈が用意した抜け道は、すぐ後ろにある。今なら二人だけなら逃げられる。

「野々華」

 その呼び方だけで、彼が何を考えているのかわかった。

「私たちだけ逃げれば、鉄道院が正しく、反乱者だけが悪い話に戻されます」

「……わかっている」

 祐記は短く目を閉じ、彼女の手を離さなかった。逃がすためではなく、並ぶために握り直す。

 二人は拘束された。背中合わせに柱へ結ばれる。警官たちは黒田の命令を受けて慌ただしく走り、広間の隅では記者が証拠の写しを隠そうとしている。菜奈の袖から落ちた舞台用の細い刃が、野々華の指先へ触れた。

「第三十夜のあと」

 縄を少しずつ切りながら、祐記が囁いた。

「言いかけたことがあります」

「今は、脱出手順を優先してください」

「公務内か」

「命がかかっています。特別手当つきです」

 こんな時に笑いそうになる自分が、野々華は少し悔しかった。けれど、怖いときに笑わせてくれる人が隣にいることも、今は確かに力だった。けれど、その笑いが恐怖を押し戻す。

 黒田は中央結界の制御器へ命令を送った。第三十夜、過剰な縁灯を積んだ最終列車を走らせる準備が始まる。

 野々華は切れかけた縄の感触を確かめ、祐記の背に小さく合図した。

 残り三夜。花嫁のいない結婚式は終わらない。ここからが、宵京の明日を選ぶ時間だった。
【終】