終電までの契約花嫁――好きになった妻は指名手配犯でした

第6話 クラスメートの夢は、廃駅で待っていた

 暁見駅は、時刻表から消えて久しい駅だった。けれど、捨てられた場所特有の静けさの奥に、誰かがまだ火を絶やさずにいる気配があった。

 ホームの柱には古い広告が剝がれかけ、待合室の硝子には蜘蛛の巣が張っている。それなのに、駅舎の奥だけは妙に明るかった。舞台用の裸電球が梁から吊られ、客車の座席は外され、反物、白布、木枠、車輪つきの大道具が整然と並んでいる。

「ここ、劇場ですか」

 英宣が目を丸くすると、菜奈は胸を張った。

「まだ劇場予定地。鉄道院が許可しないから、予定のまま五年くらい寝かせているの」

「寝かせすぎでは」

「漆も芝居も、乾かす時間が大事なのよ」

 野々華は思わず笑った。女学校のころ、菜奈はいつも「いい縁談をして、広い家の奥で暮らす」と言っていた。けれど目の前の菜奈は、手に絵筆の跡をつけ、襷を掛け、誰よりも楽しそうに古い駅を劇場へ変えようとしている。

「本当は、舞台を作りたかったのね」

 野々華が言うと、菜奈は少しだけ口を尖らせた。

「身分も家も関係なく、子どもも職人も駅員も、同じ明かりの下へ立てる場所がほしかった。でも、言葉にすると笑われるでしょう。だから、縁談の話でごまかした」

「笑わないわ」

「今はね。指名手配犯の花嫁と、契約夫と、郵便袋を担いだ車掌が客席にいる状況なら、夢くらい普通に聞こえるもの」

 祐記が真面目に頷いた。

「たしかに、相対的には普通だ」

「そこは否定してください、久世様」

 菜奈の抗議で、錆びた駅に小さな笑いが広がった。

 第十三夜から、暁見駅は野々華たちの作戦室になった。表の新聞には、逃亡花嫁の目撃情報が毎朝載った。ある夜は白無垢姿が南の貨物線へ乗ったと書かれ、別の夜は北の橋で花嫁が泣いていたと騒がれた。どれも菜奈の人形で、どれも少しだけ本物より大げさに作ってあった。

「本物の野々華は、こんなに悲劇的に袖を払わないもの」

「では、私は普段どう動いているの」

「帳簿を持つときだけ妙に勇ましい」

 その評に祐記が咳払いで笑いを隠し、野々華は漆刷毛を持つ手で机を軽く叩いた。

 笑いながらも、夜は容赦なく進んだ。第十三結節印は、廃倉庫の下にあった。煤に覆われた印の横で、夜間病院の看護婦が、燃料配分を減らされて湯を沸かせないと訴えた。祐記は最後まで聞き、日時と名を日誌に残した。

 第十六夜には、川沿いの駅で子どもたちが同じ童歌の続きを思い出せなくなっていた。野々華は亀裂の奥から抜けた縁灯の流れを図に描き、映里花の帳簿写しと重ねた。黒い点は、鉄道院が回収量を二重に記した地域とぴたりと合った。

 第二十夜、貨物車の床下に潜った祐記は、野々華へ短く言った。

「右へ三寸。いや、亀裂が分かれている。逃げ道を残すなら、もう一筋だ」

「覚えましたね」

「毎夜見ていれば、多少は」

「では、助手手当を請求されますか」

「弁当代と相殺で」

 野々華は筆先を震わせないよう必死にこらえた。作業手順を言葉にしなくても、祐記は彼女の意図を先に読んでくれる。必要な位置へ灯を置き、手元が冷えれば火鉢を寄せ、住民が話し始めれば口を挟まず待った。

 日没になると、二人は同じ机へ資料を持ち寄った。灯の輪の中へ帳簿と図面が重なり、いつしか互いの湯呑みの位置まで決まっていた。昼のあいだ、野々華は暁見駅の物置で漆を調合し、祐記は中央駅へ戻って黒田の目を欺きながら運行記録を写した。戻ってくるたび、祐記は花を一輪持ってきた。最初のような柔らかな花ではなく、作業に使える丈夫な枝だった。

 だが第二十二夜、野々華はその枝を道具箱へ入れず、空き瓶の水へ挿した。

 祐記はしばらく瓶を見ていたが、何も言わなかった。ただ、その夜の運行日誌の字が少しだけ丸くなっていた。

 第二十三夜の明け方、映里花が暁見駅へ現れた。外套は煤で汚れ、腕には帳簿を包んだ風呂敷を抱えている。

「母の印章と、融資契約の原本の一部。これで架空借金を証明できる」

 野々華は受け取る前に、妹の手の傷を見た。

「無茶をしたの」

「姉さんほどではないわ。新聞の組版も石版も、独学だと指を挟みやすいだけ」

 いつもの棘はあったが、声の奥が震えていた。野々華が礼を言うと、映里花は目を逸らした。

「謝るのは、まだ後にする。証拠を届けてからでないと、私が楽になるだけだから」

 その夜、英宣も膝をついた。

「俺、運行表を一度だけ漏らしました。父の薬代を止めると黒田に脅されて。印刷所へ爆薬を運び込む時間も、それで読まれたんだと思います」

 祐記の顔から血の気が引いた。幼なじみへの怒りと、気づけなかった悔しさが同じだけ浮かぶ。

「処罰は受けます。でも、今度は全駅へ本当のことを運ばせてください」

 長い沈黙のあと、祐記は運行日誌を一冊、英宣の前へ置いた。

「なら、これを運べ。黒田の命令ではなく、乗客の命を優先する駅員を集めてくれ」

 英宣は深く頭を下げた。

 第二十六夜、十四駅分の金の線が図面上でつながった。残る外周は三駅。黒田が罠として残した公開婚礼披露は、逆に証拠を一斉に見せる場になる。

 菜奈は朝焼けを描いた巨大な幕を広げた。始発列車が赤い雲を割って進む絵だった。

「いつか、暁見駅の初舞台でこれを上げるの。題名は、そうね、『終電の花嫁』」

「本人の許可を取ってください」

 野々華が抗議すると、菜奈は筆を振った。

「出世払いで」

 皆が笑ったあと、祐記だけが幕の前に残った。

「私は、愛した者ほど弱点になると教えられて育った。母が家を去ったあと、父はそう言った」

 野々華は朝焼けの幕を見上げた。

「弱点ではなく、守る理由になることもあります」

 祐記は何かを言いかけ、息をのみ込んだ。契約で縛ったまま、彼女に答えを求めてはいけない。そう考えたことが、言葉になる前に伝わった気がした。

 野々華は、瓶の枝に新しい水を足した。

 終電の後にも、明かりが残る場所がある。朝焼けの幕を見ながら、彼女は初めて、第三十夜の先に祐記がいる景色を想像した。
【終】