第5話 好きになった子は、指名手配犯
第十二夜の宵京は、いつもより早く暗くなったように見えた。
中央駅の掲示板にも、橋の欄干にも、湯屋の戸口にも、同じ似顔絵が貼られている。黒髪を結った若い女。小さな傷のある指。織部野々華。容疑は、中央駅爆破計画への関与、久世皓規の逃亡支援、禁制油の所持。
文字は墨で太く、顔は実物よりずっと険しく描かれていた。
「私、もう少し眠そうな顔をしています」
久世家の奥座敷で、野々華は場違いな感想を漏らした。茶の湯呑みに手を伸ばした英宣が、危うく中身をこぼしかける。
「見るところ、そこですか」
「似ていない似顔絵で捕まるのは、少し悔しいので」
笑いは続かなかった。門の外には鉄道警備隊の靴音があり、祐記の机には差し替えられた逮捕状の写しが置かれている。差出人は鉄道院副総裁、黒田惟正。昨夜の監察官が失敗した分を、今日の紙で塗り替えに来たのだ。
新聞には、志乃の短い談話も載っていた。
『織部工房は野々華個人の行動と関係ありません。工房は鉄道院の調査に全面協力いたします』
映里花はその紙面を握りしめ、唇を噛んでいた。
「母は、あの人は、どうしてそこまで」
「映里花さん」
野々華は彼女の手から新聞をそっと取った。
「怒ってくれてありがとう。でも今は、帳簿を守って。私が捕まれば、次はあなたと職人たちです」
「自分から捕まるつもり?」
「そうすれば、工房への追及は止まるかもしれません」
祐記が即座に首を振った。
「止まらない。黒田は君を罪人にして、証言も帳簿も偽造だと言う。出頭は正しさの証明にならない」
「でも契約第七項には、違法行為に関わった者を家名で免責しないとあります」
「第七項は、証拠で確認された違法行為を久世の名で隠さないという意味だ。捏造された容疑へ従うための条項ではない」
祐記は逮捕状の時刻を指した。
「見て。押収記録は午前八時、逮捕状の発行は午前七時半。押収する前に中身を知っている。道具箱の登録番号も君のものと違う。私は配偶者として事情聴取への立ち会いを求める。その間に、英宣」
「はい。郵便室を空けています」
英宣はいつもの軽さを消し、真っ直ぐ頷いた。
門が開かれた。祐記は正面玄関で警備隊長に応対し、書類の不備を一つずつ読み上げる。時刻、押収者の名、封印印章の欠け、証拠品目録の訂正跡。黒田の部下が苛立つたび、祐記の声は冷たく整っていった。
その隙に、野々華は映里花から帯芯を受け取った。薄く剥がした布の間に、帳簿写しと母の古い修復図が差し込まれている。
「お姉さま」
映里花は初めて、そう呼んだ。
「私は、まだ謝りません。謝って終わった気になりたくない。必ず、届く形にします」
「うん。待っている」
二人は抱き合わなかった。抱き合えば、別れになる気がした。
英宣に導かれ、野々華は裏口から貨物側線へ出た。最終列車の後部には、郵便袋を積む小さな部屋がある。祐記は最後に乗り込み、扉を内側から閉めた。
石炭袋と郵便箱の間は、人ひとりが屈んでようやく入れるほど狭かった。列車が動き出すと、車輪の振動が背中から伝わる。野々華の膝と祐記の膝が触れ、どちらも動けなくなった。
「……夫婦らしい隠れ場所ですね」
野々華が小声で言う。
「これを夫婦らしさに数えるのは、相当追い詰められている」
「では緊急避難手当を」
「申請先が私だ」
「では却下されそうです」
祐記が、ほんの少し笑った。その笑いが暗い郵便室の中で、吊りランプより頼もしく思えた。
だが次の瞬間、警笛が短く鳴った。前方の駅に検問が敷かれている合図だった。英宣が外から壁を二度叩く。予定していた車庫には戻れない。
窓の隙間から、赤い信号灯が三回またたいた。皓規の合図だ。
「廃止支線へ入れ、ということか」
祐記は歯を食いしばった。無許可の転轍は運行規則違反だ。だが正規の線路へ戻れば、野々華も帳簿も奪われる。
「祐記さん」
野々華は帯芯から古い修復図を抜いた。
「この支線、廃止ではなく休止扱いです。十二番目の結節印が残っています」
「今夜の修復を途切れさせないためか」
「逃げるだけでは、母の図面に顔向けできません」
祐記は運転室へ走った。列車が大きく揺れ、車輪の音が本線の重い響きから、草に埋もれた軽い音へ変わる。廃止支線の保守窓が開くと、外の闇から冷たい風が吹き込んだ。
野々華は腰に巻いた漆糸をほどき、運行婚印へ触れさせる。指輪が薄く金色に光った。窓の外、枯れた架線柱の根元に、ひび割れた石の印が見える。
「届きます」
「危ない。私が支える」
祐記が背後から野々華の帯を掴んだ。抱きしめるのではない。落ちないよう、作業を邪魔しないよう、力の向きだけを支える手だった。
漆糸が闇を走り、石の亀裂へ吸い込まれる。煤が黒い蝶のように舞い上がった。野々華は母の継ぎ方を思い出す。割れ目を隠さない。逃げ道を残して、前より強くする。
「織部野々華、久世祐記、共同修復者として第十二結節印を継ぎます」
金の線が石を巡った。列車の揺れが一瞬止まり、窓の外に小さな駅舎が浮かぶ。暁見駅。時刻表から消えた駅が、今夜だけ灯を取り戻していた。
野々華が息をついた瞬間、祐記の手がわずかに震えていることに気づいた。
「怖かったですか」
「君が落ちるほうが怖かった」
祐記は言ってから、目を逸らした。
技術が必要だから守るのではない。契約上の妻だからでもない。そのどちらの言葉にも、もう収まらなかった。失いたくない。そんな単純な答えに、彼はようやく追いついてしまった。
好きになった子は、指名手配犯だった。
列車が暁見駅のホームへ滑り込むと、扉の向こうに白い花嫁が並んでいた。
一人、二人、三人。いや、三十人。白無垢を着た人形が、改札から待合室までずらりと立っている。首の角度も、袖の長さも、少しずつ違う。
その中央で、脚立に腰かけた女が手を振った。女学校時代と同じ勝ち気な笑み。千歳菜奈だった。
「遅い、野々華。逃亡花嫁の替え玉を三十人分作ったのに、主役が来なかったら幕が上がらないでしょう」
英宣が郵便袋を担いだまま呆然とした。
「これ、全部一晩で?」
「大道具係をなめないで。警備の目を散らすなら、本物より派手な偽物を置くのが基本よ」
野々華は笑おうとして、胸が詰まった。捕まるためではなく、逃げるためでもなく、次の修復を続けるために待っていてくれる人がいる。
菜奈は脚立から飛び降り、野々華の手を握った。
「さあ、指名手配犯の花嫁さま。ここから先は、舞台裏の時間よ」
【終】
第十二夜の宵京は、いつもより早く暗くなったように見えた。
中央駅の掲示板にも、橋の欄干にも、湯屋の戸口にも、同じ似顔絵が貼られている。黒髪を結った若い女。小さな傷のある指。織部野々華。容疑は、中央駅爆破計画への関与、久世皓規の逃亡支援、禁制油の所持。
文字は墨で太く、顔は実物よりずっと険しく描かれていた。
「私、もう少し眠そうな顔をしています」
久世家の奥座敷で、野々華は場違いな感想を漏らした。茶の湯呑みに手を伸ばした英宣が、危うく中身をこぼしかける。
「見るところ、そこですか」
「似ていない似顔絵で捕まるのは、少し悔しいので」
笑いは続かなかった。門の外には鉄道警備隊の靴音があり、祐記の机には差し替えられた逮捕状の写しが置かれている。差出人は鉄道院副総裁、黒田惟正。昨夜の監察官が失敗した分を、今日の紙で塗り替えに来たのだ。
新聞には、志乃の短い談話も載っていた。
『織部工房は野々華個人の行動と関係ありません。工房は鉄道院の調査に全面協力いたします』
映里花はその紙面を握りしめ、唇を噛んでいた。
「母は、あの人は、どうしてそこまで」
「映里花さん」
野々華は彼女の手から新聞をそっと取った。
「怒ってくれてありがとう。でも今は、帳簿を守って。私が捕まれば、次はあなたと職人たちです」
「自分から捕まるつもり?」
「そうすれば、工房への追及は止まるかもしれません」
祐記が即座に首を振った。
「止まらない。黒田は君を罪人にして、証言も帳簿も偽造だと言う。出頭は正しさの証明にならない」
「でも契約第七項には、違法行為に関わった者を家名で免責しないとあります」
「第七項は、証拠で確認された違法行為を久世の名で隠さないという意味だ。捏造された容疑へ従うための条項ではない」
祐記は逮捕状の時刻を指した。
「見て。押収記録は午前八時、逮捕状の発行は午前七時半。押収する前に中身を知っている。道具箱の登録番号も君のものと違う。私は配偶者として事情聴取への立ち会いを求める。その間に、英宣」
「はい。郵便室を空けています」
英宣はいつもの軽さを消し、真っ直ぐ頷いた。
門が開かれた。祐記は正面玄関で警備隊長に応対し、書類の不備を一つずつ読み上げる。時刻、押収者の名、封印印章の欠け、証拠品目録の訂正跡。黒田の部下が苛立つたび、祐記の声は冷たく整っていった。
その隙に、野々華は映里花から帯芯を受け取った。薄く剥がした布の間に、帳簿写しと母の古い修復図が差し込まれている。
「お姉さま」
映里花は初めて、そう呼んだ。
「私は、まだ謝りません。謝って終わった気になりたくない。必ず、届く形にします」
「うん。待っている」
二人は抱き合わなかった。抱き合えば、別れになる気がした。
英宣に導かれ、野々華は裏口から貨物側線へ出た。最終列車の後部には、郵便袋を積む小さな部屋がある。祐記は最後に乗り込み、扉を内側から閉めた。
石炭袋と郵便箱の間は、人ひとりが屈んでようやく入れるほど狭かった。列車が動き出すと、車輪の振動が背中から伝わる。野々華の膝と祐記の膝が触れ、どちらも動けなくなった。
「……夫婦らしい隠れ場所ですね」
野々華が小声で言う。
「これを夫婦らしさに数えるのは、相当追い詰められている」
「では緊急避難手当を」
「申請先が私だ」
「では却下されそうです」
祐記が、ほんの少し笑った。その笑いが暗い郵便室の中で、吊りランプより頼もしく思えた。
だが次の瞬間、警笛が短く鳴った。前方の駅に検問が敷かれている合図だった。英宣が外から壁を二度叩く。予定していた車庫には戻れない。
窓の隙間から、赤い信号灯が三回またたいた。皓規の合図だ。
「廃止支線へ入れ、ということか」
祐記は歯を食いしばった。無許可の転轍は運行規則違反だ。だが正規の線路へ戻れば、野々華も帳簿も奪われる。
「祐記さん」
野々華は帯芯から古い修復図を抜いた。
「この支線、廃止ではなく休止扱いです。十二番目の結節印が残っています」
「今夜の修復を途切れさせないためか」
「逃げるだけでは、母の図面に顔向けできません」
祐記は運転室へ走った。列車が大きく揺れ、車輪の音が本線の重い響きから、草に埋もれた軽い音へ変わる。廃止支線の保守窓が開くと、外の闇から冷たい風が吹き込んだ。
野々華は腰に巻いた漆糸をほどき、運行婚印へ触れさせる。指輪が薄く金色に光った。窓の外、枯れた架線柱の根元に、ひび割れた石の印が見える。
「届きます」
「危ない。私が支える」
祐記が背後から野々華の帯を掴んだ。抱きしめるのではない。落ちないよう、作業を邪魔しないよう、力の向きだけを支える手だった。
漆糸が闇を走り、石の亀裂へ吸い込まれる。煤が黒い蝶のように舞い上がった。野々華は母の継ぎ方を思い出す。割れ目を隠さない。逃げ道を残して、前より強くする。
「織部野々華、久世祐記、共同修復者として第十二結節印を継ぎます」
金の線が石を巡った。列車の揺れが一瞬止まり、窓の外に小さな駅舎が浮かぶ。暁見駅。時刻表から消えた駅が、今夜だけ灯を取り戻していた。
野々華が息をついた瞬間、祐記の手がわずかに震えていることに気づいた。
「怖かったですか」
「君が落ちるほうが怖かった」
祐記は言ってから、目を逸らした。
技術が必要だから守るのではない。契約上の妻だからでもない。そのどちらの言葉にも、もう収まらなかった。失いたくない。そんな単純な答えに、彼はようやく追いついてしまった。
好きになった子は、指名手配犯だった。
列車が暁見駅のホームへ滑り込むと、扉の向こうに白い花嫁が並んでいた。
一人、二人、三人。いや、三十人。白無垢を着た人形が、改札から待合室までずらりと立っている。首の角度も、袖の長さも、少しずつ違う。
その中央で、脚立に腰かけた女が手を振った。女学校時代と同じ勝ち気な笑み。千歳菜奈だった。
「遅い、野々華。逃亡花嫁の替え玉を三十人分作ったのに、主役が来なかったら幕が上がらないでしょう」
英宣が郵便袋を担いだまま呆然とした。
「これ、全部一晩で?」
「大道具係をなめないで。警備の目を散らすなら、本物より派手な偽物を置くのが基本よ」
野々華は笑おうとして、胸が詰まった。捕まるためではなく、逃げるためでもなく、次の修復を続けるために待っていてくれる人がいる。
菜奈は脚立から飛び降り、野々華の手を握った。
「さあ、指名手配犯の花嫁さま。ここから先は、舞台裏の時間よ」
【終】



