第3話 愛情禁止、弁当は折半
第六夜の朝、野々華は久世家の台所で弁当箱を二つ並べた。
片方は自分のもの。白飯に卵焼き、昨夜の残りの煮豆、薄く切った沢庵。もう片方は、祐記がいつも持っていくという黒塗りの弁当箱だった。
蓋を開けた瞬間、野々華は黙った。
白飯の中央に、梅干しが一つ。
「久世様」
廊下を通りかかった祐記が、時刻表のように正確な足取りを止めた。
「何か問題が?」
「あります。夜間作業の責任者が、この内容で終電まで働くのは危険です」
「昼は食欲がない」
「食欲ではなく燃料の話をしています。人も列車も、空では走れません」
野々華は自分の弁当から卵焼きと煮豆を半分移した。祐記がかすかに目を見開く。
「妻らしい気遣いを——」
「栄養管理は公務外です。材料費は折半、帳簿につけます」
英宣が柱の陰で肩を震わせた。
「旦那様、卵焼き一切れにも契約書が必要らしいぞ」
「黙れ、英宣」
祐記は低く言ったが、梅干しだけの弁当を閉じる手より、卵焼きを守る手の方が少しだけ早かった。
日没前、祐記は駅前の花売りから小さな菊を一輪買った。夫婦らしい振る舞いについて、昨夜読んだ礼法書に「季節の花を贈る」とあったからだ。
「野々華さん。今夜の公務に」
「ありがとうございます」
彼女は花を受け取り、すぐに茎を折った。
「乾き具合を見る棒にちょうどいいです。細くて、しなりがあります」
祐記の顔から、すっと表情が抜けた。英宣は腹を抱えた。
翌日から、祐記は花ではなく、まっすぐで丈夫な枝を選ぶようになった。
第六夜の出発前、織部映里花が久世家の玄関へ現れた。
「お姉様の着物を持ってきただけよ。工房の評判まで泥だらけにしないで」
相変わらず刺々しい声だった。けれど野々華が受け取った帯は、不自然に重かった。人目のない廊下で帯芯をほどくと、薄い紙束が現れた。
鉄道院の回収記録。縁灯の数量。工房へ支払われたはずの修繕費。数字の横には映里花の細かな字で、帳簿番号と照合先が記されている。
「これを、あなたが?」
「新聞の組版と石版印刷ぐらい、独学で覚えられるわ。証拠のない正義は、母と工房をさらに脅す材料になるもの」
映里花は視線をそらした。
「別に、お姉様を助けたいわけじゃない。鉄道院に帳簿を好き勝手されるのが腹立たしいだけ」
「ありがとう」
「礼を言うなら、まだ早いわ。あなたが捕まったら、記事にする前に全部燃やされる」
映里花はそれだけ言って帰っていった。野々華は紙束を胸に抱き、冷たい言葉の下に隠された焦りを初めて知った。
第六夜から第九夜まで、二人は四つの駅を継いだ。
機織りの音が夜まで残る梭川駅では、結節印の欠けた部分に煤が溜まり、織女たちが注文主の名を取り違えていた。薬草問屋の多い露草駅では、診療所へ渡る燃料が半分に減らされ、薬湯を煮る火が足りなかった。硝子工房の灯る星硝子駅では、職人の願いを吸い上げすぎた縁灯が青白く濁っていた。橋脚の下に結節印を持つ弓月駅では、煤が川面へ落ち、魚の群れが黒い影を避けるように泳いでいた。
どの駅でも、野々華は亀裂の形を写し、祐記は住民の話を最後まで聞いた。英宣は車掌仲間へ声をかけ、記憶違い、体調不良、燃料削減の時期を集めてくれた。
作業の手順も少しずつ変わった。
「漆糸を右へ」
「煤の逃げ道を先に開く」
「金粉は薄く。ここは力が戻る」
言葉は短くなったのに、間違いは減っていった。祐記が灯を傾ける前に、野々華は必要な角度へ手を伸ばす。野々華が指を切る前に、祐記は乾いた布を差し出す。
ある夜、彼が選んだ枝を野々華は作業に使わなかった。小さな瓶へ水を入れ、枝先についた白い花を挿した。
「今日は使わないのですか」
「道具にするには、少し綺麗すぎました」
祐記は返事を探して失敗し、運行日誌へ無意味に日付を二度書いた。
第十夜、紙鳶駅に着いたとき、ホームには竹ひごと色紙で作った凧がいくつも吊られていた。風もないのに、凧の尾だけがかすかに震えている。
駅前の老婆が、赤い鼻緒の草履を抱いて泣いていた。
「孫の名が出てこないんです。毎朝呼んでいたのに、口の中でほどけてしまう」
別の男は、妻の好物を忘れたと言った。子どもは、亡くなった父の声だけ思い出せないと訴えた。
野々華は結節印の前に膝をつき、煤を指先でこすった。黒ではない。灯を吸いすぎた煤は、虹色の油膜を帯びている。
「願いを抜き取る量が多すぎます。大切な名や約束まで、一緒に引き剥がされている」
「鉄道院は、縁灯の回収量を二重に記録している」
祐記が映里花の紙束を思い出す。野々華は頷き、漆を細く垂らした。
「亀裂を塞ぐだけでは足りません。取られた願いが戻る道を残します」
修復は難しかった。野々華は煤に触れるたび、誰かの忘れた名前の欠片を聞いた。呼び声、約束、誕生日の歌。胸の奥まで疲れが沈む。
帰りの最終列車で、彼女は座席に腰を下ろしたまま眠ってしまった。
こくり、と頭が傾き、祐記の肩に触れる。
英宣が口を開きかけたので、祐記は視線だけで黙らせた。野々華の指先には細かな傷が増えている。彼は自分の上着をそっと彼女の膝へ掛けた。
しばらくして目を覚ました野々華は、肩の位置と上着に気づき、耳まで赤くした。
「申し訳ありません。公務中に」
「公務時間内だから問題ありません」
「便利な言葉ですね」
野々華は小さく笑った。紙鳶駅の灯が遠ざかる車窓に、その笑顔が淡く映る。
祐記は、その笑顔をもう一度見たいと思った。理由を探すより先に、胸がそう決めていた。そう思った瞬間、自分の中で何かが契約書の欄外へはみ出した気がした。
帰庫は二十三時五十八分。予定通りだった。
英宣が車庫扉を閉めようとしたとき、奥の暗がりから、切符を一枚持った男が歩み出た。
古びた外套、油に汚れた手袋。壁の指名手配書で何度も見た顔だった。
久世皓規。
祐記の兄であり、鉄道院爆破未遂犯として追われる男。
祐記の手が、腰の刀へ伸びる。
皓規は改札へ差し出すように切符を掲げ、疲れた笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、祐記。弟に終電の乗り方を教わる日が来るとは思わなかった」
【終】
第六夜の朝、野々華は久世家の台所で弁当箱を二つ並べた。
片方は自分のもの。白飯に卵焼き、昨夜の残りの煮豆、薄く切った沢庵。もう片方は、祐記がいつも持っていくという黒塗りの弁当箱だった。
蓋を開けた瞬間、野々華は黙った。
白飯の中央に、梅干しが一つ。
「久世様」
廊下を通りかかった祐記が、時刻表のように正確な足取りを止めた。
「何か問題が?」
「あります。夜間作業の責任者が、この内容で終電まで働くのは危険です」
「昼は食欲がない」
「食欲ではなく燃料の話をしています。人も列車も、空では走れません」
野々華は自分の弁当から卵焼きと煮豆を半分移した。祐記がかすかに目を見開く。
「妻らしい気遣いを——」
「栄養管理は公務外です。材料費は折半、帳簿につけます」
英宣が柱の陰で肩を震わせた。
「旦那様、卵焼き一切れにも契約書が必要らしいぞ」
「黙れ、英宣」
祐記は低く言ったが、梅干しだけの弁当を閉じる手より、卵焼きを守る手の方が少しだけ早かった。
日没前、祐記は駅前の花売りから小さな菊を一輪買った。夫婦らしい振る舞いについて、昨夜読んだ礼法書に「季節の花を贈る」とあったからだ。
「野々華さん。今夜の公務に」
「ありがとうございます」
彼女は花を受け取り、すぐに茎を折った。
「乾き具合を見る棒にちょうどいいです。細くて、しなりがあります」
祐記の顔から、すっと表情が抜けた。英宣は腹を抱えた。
翌日から、祐記は花ではなく、まっすぐで丈夫な枝を選ぶようになった。
第六夜の出発前、織部映里花が久世家の玄関へ現れた。
「お姉様の着物を持ってきただけよ。工房の評判まで泥だらけにしないで」
相変わらず刺々しい声だった。けれど野々華が受け取った帯は、不自然に重かった。人目のない廊下で帯芯をほどくと、薄い紙束が現れた。
鉄道院の回収記録。縁灯の数量。工房へ支払われたはずの修繕費。数字の横には映里花の細かな字で、帳簿番号と照合先が記されている。
「これを、あなたが?」
「新聞の組版と石版印刷ぐらい、独学で覚えられるわ。証拠のない正義は、母と工房をさらに脅す材料になるもの」
映里花は視線をそらした。
「別に、お姉様を助けたいわけじゃない。鉄道院に帳簿を好き勝手されるのが腹立たしいだけ」
「ありがとう」
「礼を言うなら、まだ早いわ。あなたが捕まったら、記事にする前に全部燃やされる」
映里花はそれだけ言って帰っていった。野々華は紙束を胸に抱き、冷たい言葉の下に隠された焦りを初めて知った。
第六夜から第九夜まで、二人は四つの駅を継いだ。
機織りの音が夜まで残る梭川駅では、結節印の欠けた部分に煤が溜まり、織女たちが注文主の名を取り違えていた。薬草問屋の多い露草駅では、診療所へ渡る燃料が半分に減らされ、薬湯を煮る火が足りなかった。硝子工房の灯る星硝子駅では、職人の願いを吸い上げすぎた縁灯が青白く濁っていた。橋脚の下に結節印を持つ弓月駅では、煤が川面へ落ち、魚の群れが黒い影を避けるように泳いでいた。
どの駅でも、野々華は亀裂の形を写し、祐記は住民の話を最後まで聞いた。英宣は車掌仲間へ声をかけ、記憶違い、体調不良、燃料削減の時期を集めてくれた。
作業の手順も少しずつ変わった。
「漆糸を右へ」
「煤の逃げ道を先に開く」
「金粉は薄く。ここは力が戻る」
言葉は短くなったのに、間違いは減っていった。祐記が灯を傾ける前に、野々華は必要な角度へ手を伸ばす。野々華が指を切る前に、祐記は乾いた布を差し出す。
ある夜、彼が選んだ枝を野々華は作業に使わなかった。小さな瓶へ水を入れ、枝先についた白い花を挿した。
「今日は使わないのですか」
「道具にするには、少し綺麗すぎました」
祐記は返事を探して失敗し、運行日誌へ無意味に日付を二度書いた。
第十夜、紙鳶駅に着いたとき、ホームには竹ひごと色紙で作った凧がいくつも吊られていた。風もないのに、凧の尾だけがかすかに震えている。
駅前の老婆が、赤い鼻緒の草履を抱いて泣いていた。
「孫の名が出てこないんです。毎朝呼んでいたのに、口の中でほどけてしまう」
別の男は、妻の好物を忘れたと言った。子どもは、亡くなった父の声だけ思い出せないと訴えた。
野々華は結節印の前に膝をつき、煤を指先でこすった。黒ではない。灯を吸いすぎた煤は、虹色の油膜を帯びている。
「願いを抜き取る量が多すぎます。大切な名や約束まで、一緒に引き剥がされている」
「鉄道院は、縁灯の回収量を二重に記録している」
祐記が映里花の紙束を思い出す。野々華は頷き、漆を細く垂らした。
「亀裂を塞ぐだけでは足りません。取られた願いが戻る道を残します」
修復は難しかった。野々華は煤に触れるたび、誰かの忘れた名前の欠片を聞いた。呼び声、約束、誕生日の歌。胸の奥まで疲れが沈む。
帰りの最終列車で、彼女は座席に腰を下ろしたまま眠ってしまった。
こくり、と頭が傾き、祐記の肩に触れる。
英宣が口を開きかけたので、祐記は視線だけで黙らせた。野々華の指先には細かな傷が増えている。彼は自分の上着をそっと彼女の膝へ掛けた。
しばらくして目を覚ました野々華は、肩の位置と上着に気づき、耳まで赤くした。
「申し訳ありません。公務中に」
「公務時間内だから問題ありません」
「便利な言葉ですね」
野々華は小さく笑った。紙鳶駅の灯が遠ざかる車窓に、その笑顔が淡く映る。
祐記は、その笑顔をもう一度見たいと思った。理由を探すより先に、胸がそう決めていた。そう思った瞬間、自分の中で何かが契約書の欄外へはみ出した気がした。
帰庫は二十三時五十八分。予定通りだった。
英宣が車庫扉を閉めようとしたとき、奥の暗がりから、切符を一枚持った男が歩み出た。
古びた外套、油に汚れた手袋。壁の指名手配書で何度も見た顔だった。
久世皓規。
祐記の兄であり、鉄道院爆破未遂犯として追われる男。
祐記の手が、腰の刀へ伸びる。
皓規は改札へ差し出すように切符を掲げ、疲れた笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、祐記。弟に終電の乗り方を教わる日が来るとは思わなかった」
【終】



