終電までの契約花嫁――好きになった妻は指名手配犯でした

第2話 日没から終電まで、夫婦です

 第二夜の昼、久世家の屋敷で野々華が最初に確かめたのは、寝台の広さでも、庭の眺めでもなかった。

「この材料庫、湿り気が強すぎます。漆は急に乾かせばよいものではありませんが、金粉まで湿気を含むと作業の線が鈍ります」

 案内役の女中が目を丸くする横で、祐記は手帳へ書き込んだ。

「北側の部屋を空けさせます。ほかに必要なものは?」

「乾いた布、浅い棚、鍵つきの帳簿箱。それから食費、材料費、洗濯代の扱いを決めてください」

 祐記が瞬いた。

「夫婦間で、そこまで分けるのですか」

「法的には夫婦でも、暮らしは三十夜限りです。あとで『花嫁が勝手に使った』と言われる帳簿は作りません」

 野々華がさらさらと表を引くと、祐記も黙って向かいに座った。彼の差し出した公務予定表には、十八時、公務開始。二十時十三分、鈴懸駅着。二十三時五十八分、帰庫予定、と分単位で書かれている。

「二分延着したら、夫婦公務だけ残業ですか」

「運行上は延着です」

「では残業手当も表へ」

 背後で英宣が噴き出した。

「奥方、久世の時刻表に手当を書き足した人は初めてだ」

「奥方ではありません。日没から終電までの共同修復者です」

「それを世間では新妻と言うんだよ」

 祐記と野々華は同時に言った。

「契約上の表現ではありません」

 英宣は笑いすぎて、発車前の笛を落としかけた。

 日が沈むと、宵環線の最終列車は鈴懸駅へ向かった。古い商店街の屋根は煤け、軒先の鈴は風もないのにかすかに鳴っている。駅長は白無垢姿の野々華を見るなり、眉をひそめた。

「名家の花嫁が、泥の上を歩けるのかね。ここは中央駅の磨いた石床とは違う」

 野々華は返事の代わりに、裾を自分でたくし上げて腰紐で結んだ。白い足袋のまま線路脇の砂利へ下りる。

「歩けます。汚れたら洗います。結節印はどちらですか」

 駅長の口が半端に開いた。

 鈴懸駅の結節印は、ホーム下の暗い排水路にあった。野々華が灯を近づけると、石の印から黒い煤が滲んでいる。亀裂は井桁の形に伸び、駅前広場の方角へ細く続いていた。

「この亀裂、共同井戸の跡へ向かっています」

「井戸は半年前に閉じた。鉄道院が水質不良だと言ってな」駅長は苦い顔をした。「だが閉じてから、子どもが熱を出しやすくなった。年寄りは願い事を忘れる。文句を言えば燃料配給が遅れる」

 祐記が時刻表へ目を落とした。修復だけなら間に合う。だが聞き取りを始めれば、帰庫予定は危うい。

 野々華は赤い紐で留めた契約書の写しを取り出した。

「第九項。毎夜一人以上、駅周辺の住民の話を最後まで遮らずに聞き、運行日誌へ残すこと」

 祐記は一拍置いて、手帳を開いた。

「駅長、共同井戸が閉鎖された日付から教えてください」

 駅長の目つきが変わった。疑いは消えないまま、それでも言葉は流れ始めた。井戸を閉じられた商店が水を買うために借金をしたこと。診療所への灯油が減らされたこと。縁灯を例年より多く差し出したのに、町の灯が弱くなるばかりなこと。

 祐記は一度も遮らず、日時と名を残した。

 そのとき、排水路の奥で鈴が激しく鳴った。

 小さな男の子が、線路の方へふらふらと歩いている。足元から漏れた煤が、黒い糸のように少年の踵へ絡んでいた。遠くで列車の入替鐘が鳴る。

「危ない!」

 祐記が飛び出した。野々華は道具箱から漆を含ませた細糸を引き、亀裂へ投げる。糸は金粉を吸って淡く光り、少年の足元に一瞬だけ丸い結界を作った。

 祐記はその輪の中へ滑り込み、少年を抱き上げる。煤の糸が千切れ、排水路の壁へ黒い染みを残した。

「大丈夫か」

 少年は泣きもせず、祐記の袖を握った。

「おばあちゃんの名前、忘れちゃった。井戸で毎日呼んでたのに」

 駅長が顔を歪める。野々華は膝をつき、少年の目線に合わせた。

「名前は取り戻せます。だから今は、覚えていることを一つずつ教えて」

 修復は予定より遅れた。だが祐記は催促しなかった。野々華が煤の逃げ道を作り、井戸跡へ向かう亀裂を細く継ぎ直す間、彼は少年の祖母の特徴まで日誌へ書いた。

 作業を終えるころ、二人は同じ漆糸の端を握っていることに気づいた。祐記の手の甲に、野々華の指が重なっている。

「失礼」

「いえ、緊急対応です」

 慌てて離れた二人へ、英宣がわざとらしく首を傾げる。

「今の手つなぎは公務内か?」

「緊急対応手当を申請します」

 野々華が真顔で答え、祐記が少しだけ口元を緩めた。

 第三夜は紙問屋の多い笹舟駅、第四夜は診療所の裏に結節印を抱える白粉駅、第五夜は市場の匂いが残る藍橋駅を回った。どの駅にも同じ煤があった。鉄道院の記録では縁灯は十分に配られているのに、町では井戸が閉じ、灯油が減り、診療所の火鉢まで消えかけている。

 祐記の運行日誌は夜ごと厚くなった。彼は住民の訴えを「不満」と丸めず、誰が、いつ、何を失ったかまで書き込んだ。

 第五夜の帰庫後、車庫の灯が落ち、野々華の運行婚印から光が消えた。

「本日の公務は終了ですね。久世様、材料費の控えを明朝までに確認してください」

 さっきまで並んで煤の中へ手を伸ばしていた相手が、戸一枚分ほど遠くなる。

 祐記は胸の奥に生まれた小さな空白へ戸惑った。車庫に残る石炭の匂いまで、急に冷えたものに感じられた。

「野々華さん」

「はい」

「明日は、もう少し乾いた布を用意します」

 それしか言えなかった。

 野々華は一瞬だけ目を細める。

「助かります。良い修復には、良い布も必要ですから」

 彼女が廊下の角を曲がるまで、祐記は日誌を閉じられなかった。妻と呼ぶには契約だ。共同修復者と呼ぶには、もう少しだけ胸の奥が騒がしかった。
【終】