終電までの契約花嫁――好きになった妻は指名手配犯でした

第1話 花嫁は契約書を赤くする

 織部工房の壁時計が九つ打ったとき、野々華はようやく金粉の筆を置いた。

 鉄道院の紋章皿は、真ん中から稲妻のように割れていた。白磁に描かれた黒い機関車の輪郭を損なわぬよう、漆で欠片をつなぎ、細い金の線を走らせる。割れ目を隠すのではない。力が一か所へ溜まらぬよう、逃げ道を作りながら継ぐ。それが母から教わった織部の直し方だった。

「まだ終わらないの?」

 襖の向こうから、継母の志乃が顔を出した。

「今夜までに納められなければ、工房は差し押さえよ。夕餉なら片づけたから、残りものを勝手に探して」

「あと半刻で乾き具合を確かめます」

「半刻も待てないわ。鉄道院の人が取りに来るそうよ」

 志乃は返事も聞かず襖を閉めた。

 腹はとうに鳴るのを諦めていた。膝の上には漆の匂いがまとわりつき、指先は金粉でかすかに光っている。野々華が皿へ顔を近づけると、戸口に義妹の映里花が立っていた。

「金継ぎだけでは借金は消えないわよ」

「分かっているわ」

「分かっていて、黙って働くのね」

 映里花は冷たい目をしたまま机へ歩み寄り、帳面の端を指で弾いた。その拍子に、小さく畳まれた紙片が机の下へ落ちた。

「邪魔をしたわ」

 足音が遠ざかってから、野々華は紙片を拾った。

 鉄道院から工房へ支払われた修繕費と、志乃の帳面へ記された入金額が並んでいる。二つの額は合わない。それどころか、工房の借金には、覚えのない手数料が幾重にも上乗せされていた。

 映里花が偶然落としたはずはなかった。

 そのとき、表戸の鈴が澄んだ音を立てた。夜の工房へ、外の冷たい空気が一筋流れ込む。

 入ってきた男は、宵環線の濃紺の制服を着ていた。磨かれた釦、銀糸の肩章、時刻表を思わせるほど正確な足取り。久世家の次男であり、現在の当主代行、久世祐記だった。

 祐記は挨拶を済ませると、紋章皿を両手で持ち上げた。金の継ぎ目を灯へ透かし、裏返し、指先で縁をなぞる。

「亀裂を消していない」

「消せば、同じ場所に力が集まります。次はもっと大きく割れますから」

「力を脇へ逃がし、元より丈夫にする。あなたの母上と同じ継ぎ方だ」

 十年前に死んだ母を、見てきたように語る声だった。

 祐記は皿を戻し、志乃ではなく野々華へ向き直った。

「織部野々華さん。私と結婚していただきたい」

 志乃が息をのみ、野々華は筆洗いの水をこぼした。

「初対面で、ずいぶん効率のよいお申し込みですね」

「時間がありません。新月まで三十夜。宵環線の外周二十九駅と、中央駅地下の結界核を、一夜に一か所ずつ修復しなければなりません」

 祐記は革鞄から書類を取り出した。

 宵環線は、帝都・宵京を囲む結界を夜ごと結び直している。ところが近頃、各駅の結節印に亀裂が増え、町の灯が弱っていた。久世家の運行責任者と織部家の継ぎ師が正式な夫婦となり、「運行婚印」を使わなければ、封じられた損傷を開くことすらできないという。

「婚姻期間は三十夜。第三十夜の翌朝に離縁します。工房への差し押さえは停止し、借金は第三者に監査させる。夫婦としての公務は日没から最終列車が車庫へ戻るまで。それ以外の時間へ互いに干渉しません」

 志乃が身を乗り出した。

「野々華、ありがたいお話よ。すぐ署名を」

「まだ読んでいます」

 野々華は契約書を最初から最後まで二度読んだ。離縁届は公証人へ預け、期限までに双方が撤回しなければ受理される。恋情を求めない。私室へ無断で入らない。違法行為に関わった証拠がある者を、家名で免責しない。

 整っている。整いすぎて、現場で手を汚す人間が一人も書かれていない。

「久世様。これは工房を救う契約ではありません」

「では、何だと?」

「私の技術を三十夜だけ、安く囲う契約です」

 志乃が青ざめたが、祐記は怒らなかった。

「理由を聞かせてください」

 野々華は赤筆を取った。

「修復用の金粉も漆も、天から降りません。工賃と材料費は帳簿へ記録し、七日ごとに職人と駅長へ公開してください」

 八項目に書き足す。

「工房の未払い賃金は、志乃さんを経由せず、働いた人へ直接支払うこと」

「野々華!」

「それから毎夜、駅の周辺で暮らす人を一人以上、最後まで遮らずに話を聞いて、運行日誌へ残してください。結界は町とつながっています。線路だけ見ても直せません」

 祐記は赤い文字を目で追った。

「負傷した場合の治療費と補償。私が死んだ場合、道具は若い職人たちの共同所有。契約の訂正には双方の署名が必要。一方だけで書き換えられないこと」

「ご自分への報酬は?」

「書かれている修復工賃で足ります」

「工房の経営権を求めてもよい場面です」

「私一人が工房を手に入れても、ほかの職人が飢えたままなら、救ったことにはなりません」

 しばらく沈黙したのち、祐記は万年筆を取った。

「私の原案には、列車と家名しかなかった。働く人と暮らす人が抜けていました。追加条件を受け入れます」

 彼は赤字の隣へ、一つずつ署名した。

 野々華も婚姻届へ名を書いた。続いて離縁届へ署名すると、結婚より先に別れを決めたのだという妙な実感が胸へ落ちた。

 第一夜。

 中央駅の結界社で、金色の細い指輪が野々華の左手へはめられた。中央結界の金から作られた運行婚印は、祐記が隣へ立つと淡く灯った。

 車掌の宮守英宣が、二人を見比べてにやりとする。

「せっかくの新婚初日だ。夫婦らしく腕でも組んだらどうだ?」

「契約外です」

 二人の声がぴたりと重なった。

 英宣は腹を抱えて笑い、祐記は気まずそうに咳払いした。

 三人は中央駅外輪の第一結節印へ向かった。石床に刻まれた印は、一見すれば傷一つない。だが野々華が漆を置き、祐記が運行責任者の印をかざすと、婚印が強く輝いた。

 次の瞬間、黒い亀裂が石床いっぱいに浮かび上がった。

 野々華は膝をつき、亀裂の深さと向きを確かめた。表面だけの損傷ではない。駅舎から線路へ、線路から町の灯へ、何者かが内側から引き裂いたように続いている。

 漆糸を通し、金粉を重ね、力の逃げ道を作る。祐記は指示される前に灯を下げ、必要な道具を渡した。作業が終わるころ、最終列車の発車ベルが鳴った。

 列車が環状線へ滑り出す。

 野々華が窓へ目を向けると、夜の宵京を横切る巨大な亀裂が映っていた。中央駅で見た傷とつながり、二十九の駅を縫うように、闇の底で脈を打っている。

「三十夜で直せると思うか」

 祐記の問いに、野々華は首を振った。

「直せるかを決める前に、調べます」

「何を?」

「誰が、何のために壊したのかを」

 婚印の金色が、二人の間で静かに脈打った。

 愛のない夫婦の最初の夜は、祝いの灯ではなく、帝都を割る傷を見つけて終わった。
【終】