第3話 草葉の露が覚えている
第二日目の朝、雨葉町には細い雨が残っていた。
御神木の根元に立つと、昨夜よりも黒棘が増えているのが分かった。幹から突き出す芯棘は残り九本。けれど、その一本一本が昨日より深く、硬く沈黙している。
「今日は蓬を使います」
優里は籠から、朝露をまとった蓬を取り出した。
「古い傷を温めて、固まった流れを動かす草です。冷ますだけでは、底に沈んだ痛みは上がってきません」
「手順は昨日と変えるのか」
「変えます。昨日の露草で表面の熱は引きました。今日は根の奥へ声を通します」
奨は黙って頷いた。昨日なら手順書との差を指摘したはずの人が、今日は先に幹へ手を当てた。
優里は少しだけ意外に思った。
信じられた、とはまだ言えない。けれど、彼は少なくとも自分の判断を、作法の外にあるものとして切り捨てなかった。
蓬の葉へ乗った水滴が、葉脈を伝って滑る。ひとしずくは途中で二度曲がり、幹の陰ではなく、地中の南東へ向かって細い光を引いた。
旧温室の方角だ。
「奨さん。痛みが御神木から旧温室へ流れて、また戻っています」
「昨日の声だけではなかったか」
「声は出口です。流れはもっと前からあります。解体を止めないと、根ごと起こします」
奨の顔つきが変わった。彼はすぐ恋奈へ連絡を入れ、旧温室の解体準備を正式に止めるよう頼んだ。恋奈は電話口で事情を聞き、必要な書類と学校側への確認をその場で挙げる。
『分かりました。工事ではなく保全扱いに切り替えます。噂では止めません。御神木の根の危険性として記録に残します』
奨が礼を言って電話を切る。その間に、優里は第二の芯棘の根元へ蓬を結んだ。
棘は昨日より抵抗した。黒い先端が奨の指へ触れ、彼の肩がわずかに震える。
「痛むなら、手を離して」
「まだ支えられる」
「我慢自慢をする朝ではありません」
優里が睨むと、奨は一呼吸だけ力を抜いた。その隙間へ蓬の香りが入り、固まっていた流れが温かい湯のようにほどける。
第二の芯棘が抜け落ちた。
幹には、昨日より少し太い金色の筋が残る。
「成功です。でも、明日から旧温室の根を見ながらでないと危ない」
「分かった。君の判断を優先する」
「契約上、私の作業ですから」
「それだけではない」
奨は何か言いかけ、口を閉じた。嘘蔓は静かだった。まだ嘘にも本音にもなっていない言葉なのだろう。
昼前、二人は商店街へ出た。草守り糸の予備、素焼き鉢、剪定鋏、苗木店で使う用土を買い足すためだ。
突然の婚姻は、すでに町中へ広まっていた。
「あらまあ、久世の若当主と雨森さんとこの優里ちゃんがねえ」
「高校の頃から、そういう仲だったのかい」
種苗店の店主がにやにやしながら聞く。
「違います」
「違う」
二人の返事は、見事に重なった。
奨の袖口についた真実鈴は、まったく鳴らない。
優里はこらえきれず、声を立てて笑った。
「そこだけ息が合うんですね」
「事実だからな」
「ええ。愛情不要の夫婦ですもの」
店主はますます面白がったが、奨が支払いを済ませる頃には、噂話より御神木の黒棘の話を心配していた。優里は棚に置かれた弱った山椒の苗を見つけ、日当たりではなく鉢の深さが原因だと伝える。
「今、植え替えれば来春に芽が戻ります。枯れたように見えても、根元の緑が残っていますから」
「相変わらず、先を読むな」
奨が小さく言った。
「苗の未来は、今日の葉だけでは決まりません」
その言葉を自分に向けたつもりはなかった。だが奨は、わずかに目を伏せた。
買い出しの帰り、優里は雨森苗木店へ寄った。
閉店準備の札をかけたままの庭に、南天、椿、山吹、古い薬草鉢が並んでいる。昨日までは処分するものに見えていた苗が、今日はどれも沈黙して待っているようだった。
奨は帳簿だけではなく、苗の一本一本を見て回った。
「町外の行政書士と園芸組合員に査定を頼んである。久世家の身内ではない。危険手当、技術料、風評被害の補償は別に計算する。苗木店の価値も、ただの土地代にはしない」
「十日後に離婚する相手の十年後まで、決めないでください」
優里の声は、自分でも驚くほど硬かった。
奨はすぐに振り返った。
「決めるのは君だ。俺は、君が売るしかない状態をなくしたい。残す、売る、誰かに任せる。そのどれも選べるようにする」
「選択肢、ですか」
「君の未来を、補償金で買うつもりはない」
真実鈴は鳴らなかった。
優里は返事をせず、乾いた鉢へ水を注いだ。土はすぐには水を吸わず、表面で弾いた。長く乾いたものは、一度濡らしただけでは戻らない。ゆっくり、何度も、水を含ませるしかない。人も、町も、きっと同じだった。
夜、久世家の食卓には蓬の香りが残っていた。
奨は左肩の衣を少し下げた。肩口から鎖骨の近くへ、赤黒い火傷痕が広がっている。
「第二の傷だ。五年前、御神木の黒棘を焼こうとして失敗した」
「焼けば、苦しみごと消えると思ったんですか」
「あの頃は、そう思った。棘がなければ町は平穏になると」
「植物は、傷口を塞いでも、傷があった場所を年輪から消しません」
優里は蓬の葉を小皿へ置いた。葉の露が震え、赤い火の断片を映す。若い奨が御神木の前で火を掲げ、黒棘が煙を上げる。次の瞬間、棘は燃えず、逆に火を飲んで彼の肩へ噛みついた。
痛みを消そうとして、痛みを増やした記憶だった。
「消さないで、抱え方を変えるしかありません」
「君は、そうやって十年を抱えてきたのか」
奨の問いに、優里は答えなかった。答えれば、自分の十年まで彼の治療材料にされてしまう気がした。
代わりに、昼に旧温室から持ち帰った枯れ蔓を盆へ置く。蓬の露を一滴落とすと、枯れ蔓が小さく震えた。
少女の悲鳴が、畳の上にこぼれる。
『いや、離して――』
続いて、若い奨の声。
『優里に触るな!』
優里は顔を上げた。
「あなたが、あの時の噂を始めたの」
「俺は噂を流していない」
真実鈴は鳴らなかった。
優里は息を詰める。では、誰が。なぜ、十年も。
奨は続けた。
「君を見捨ててもいない」
その瞬間、嘘蔓が畳を走り、二人の足首を強く結んだ。
奨の顔から血の気が引く。
優里は、ほどけない蔓を見下ろした。
「……そうですか」
噂を流していないことは真実。
けれど、見捨てなかったという言葉は嘘。
十年前の温室より冷たい沈黙が、食卓の真ん中に落ちた。
【終】
第二日目の朝、雨葉町には細い雨が残っていた。
御神木の根元に立つと、昨夜よりも黒棘が増えているのが分かった。幹から突き出す芯棘は残り九本。けれど、その一本一本が昨日より深く、硬く沈黙している。
「今日は蓬を使います」
優里は籠から、朝露をまとった蓬を取り出した。
「古い傷を温めて、固まった流れを動かす草です。冷ますだけでは、底に沈んだ痛みは上がってきません」
「手順は昨日と変えるのか」
「変えます。昨日の露草で表面の熱は引きました。今日は根の奥へ声を通します」
奨は黙って頷いた。昨日なら手順書との差を指摘したはずの人が、今日は先に幹へ手を当てた。
優里は少しだけ意外に思った。
信じられた、とはまだ言えない。けれど、彼は少なくとも自分の判断を、作法の外にあるものとして切り捨てなかった。
蓬の葉へ乗った水滴が、葉脈を伝って滑る。ひとしずくは途中で二度曲がり、幹の陰ではなく、地中の南東へ向かって細い光を引いた。
旧温室の方角だ。
「奨さん。痛みが御神木から旧温室へ流れて、また戻っています」
「昨日の声だけではなかったか」
「声は出口です。流れはもっと前からあります。解体を止めないと、根ごと起こします」
奨の顔つきが変わった。彼はすぐ恋奈へ連絡を入れ、旧温室の解体準備を正式に止めるよう頼んだ。恋奈は電話口で事情を聞き、必要な書類と学校側への確認をその場で挙げる。
『分かりました。工事ではなく保全扱いに切り替えます。噂では止めません。御神木の根の危険性として記録に残します』
奨が礼を言って電話を切る。その間に、優里は第二の芯棘の根元へ蓬を結んだ。
棘は昨日より抵抗した。黒い先端が奨の指へ触れ、彼の肩がわずかに震える。
「痛むなら、手を離して」
「まだ支えられる」
「我慢自慢をする朝ではありません」
優里が睨むと、奨は一呼吸だけ力を抜いた。その隙間へ蓬の香りが入り、固まっていた流れが温かい湯のようにほどける。
第二の芯棘が抜け落ちた。
幹には、昨日より少し太い金色の筋が残る。
「成功です。でも、明日から旧温室の根を見ながらでないと危ない」
「分かった。君の判断を優先する」
「契約上、私の作業ですから」
「それだけではない」
奨は何か言いかけ、口を閉じた。嘘蔓は静かだった。まだ嘘にも本音にもなっていない言葉なのだろう。
昼前、二人は商店街へ出た。草守り糸の予備、素焼き鉢、剪定鋏、苗木店で使う用土を買い足すためだ。
突然の婚姻は、すでに町中へ広まっていた。
「あらまあ、久世の若当主と雨森さんとこの優里ちゃんがねえ」
「高校の頃から、そういう仲だったのかい」
種苗店の店主がにやにやしながら聞く。
「違います」
「違う」
二人の返事は、見事に重なった。
奨の袖口についた真実鈴は、まったく鳴らない。
優里はこらえきれず、声を立てて笑った。
「そこだけ息が合うんですね」
「事実だからな」
「ええ。愛情不要の夫婦ですもの」
店主はますます面白がったが、奨が支払いを済ませる頃には、噂話より御神木の黒棘の話を心配していた。優里は棚に置かれた弱った山椒の苗を見つけ、日当たりではなく鉢の深さが原因だと伝える。
「今、植え替えれば来春に芽が戻ります。枯れたように見えても、根元の緑が残っていますから」
「相変わらず、先を読むな」
奨が小さく言った。
「苗の未来は、今日の葉だけでは決まりません」
その言葉を自分に向けたつもりはなかった。だが奨は、わずかに目を伏せた。
買い出しの帰り、優里は雨森苗木店へ寄った。
閉店準備の札をかけたままの庭に、南天、椿、山吹、古い薬草鉢が並んでいる。昨日までは処分するものに見えていた苗が、今日はどれも沈黙して待っているようだった。
奨は帳簿だけではなく、苗の一本一本を見て回った。
「町外の行政書士と園芸組合員に査定を頼んである。久世家の身内ではない。危険手当、技術料、風評被害の補償は別に計算する。苗木店の価値も、ただの土地代にはしない」
「十日後に離婚する相手の十年後まで、決めないでください」
優里の声は、自分でも驚くほど硬かった。
奨はすぐに振り返った。
「決めるのは君だ。俺は、君が売るしかない状態をなくしたい。残す、売る、誰かに任せる。そのどれも選べるようにする」
「選択肢、ですか」
「君の未来を、補償金で買うつもりはない」
真実鈴は鳴らなかった。
優里は返事をせず、乾いた鉢へ水を注いだ。土はすぐには水を吸わず、表面で弾いた。長く乾いたものは、一度濡らしただけでは戻らない。ゆっくり、何度も、水を含ませるしかない。人も、町も、きっと同じだった。
夜、久世家の食卓には蓬の香りが残っていた。
奨は左肩の衣を少し下げた。肩口から鎖骨の近くへ、赤黒い火傷痕が広がっている。
「第二の傷だ。五年前、御神木の黒棘を焼こうとして失敗した」
「焼けば、苦しみごと消えると思ったんですか」
「あの頃は、そう思った。棘がなければ町は平穏になると」
「植物は、傷口を塞いでも、傷があった場所を年輪から消しません」
優里は蓬の葉を小皿へ置いた。葉の露が震え、赤い火の断片を映す。若い奨が御神木の前で火を掲げ、黒棘が煙を上げる。次の瞬間、棘は燃えず、逆に火を飲んで彼の肩へ噛みついた。
痛みを消そうとして、痛みを増やした記憶だった。
「消さないで、抱え方を変えるしかありません」
「君は、そうやって十年を抱えてきたのか」
奨の問いに、優里は答えなかった。答えれば、自分の十年まで彼の治療材料にされてしまう気がした。
代わりに、昼に旧温室から持ち帰った枯れ蔓を盆へ置く。蓬の露を一滴落とすと、枯れ蔓が小さく震えた。
少女の悲鳴が、畳の上にこぼれる。
『いや、離して――』
続いて、若い奨の声。
『優里に触るな!』
優里は顔を上げた。
「あなたが、あの時の噂を始めたの」
「俺は噂を流していない」
真実鈴は鳴らなかった。
優里は息を詰める。では、誰が。なぜ、十年も。
奨は続けた。
「君を見捨ててもいない」
その瞬間、嘘蔓が畳を走り、二人の足首を強く結んだ。
奨の顔から血の気が引く。
優里は、ほどけない蔓を見下ろした。
「……そうですか」
噂を流していないことは真実。
けれど、見捨てなかったという言葉は嘘。
十年前の温室より冷たい沈黙が、食卓の真ん中に落ちた。
【終】



