離縁の朝まで、あなたの傷に花を植える

第2話 愛情不要の新婚規則

 第一日目の朝、優里は雨葉町役場の戸籍窓口で、婚姻届の端を押さえていた。

 向かいに座る水城恋奈は、十年前と変わらない真面目な目で書類を確認している。幹事として同窓会を仕切っていた時より、窓口の内側にいる今の方が、ずっと強そうに見えた。

「雨森優里さん、久世奨さん。記入漏れはありません。ですが、念のため確認します。お二人とも、これは本当に今日提出する婚姻届ですね」

「はい」

「契約上、必要だ」

 優里と奨の返事があまりに事務的だったため、恋奈の眉がわずかに上がる。

「必要、で結婚する方は初めて見ました」

 奨は懐からもう一枚の紙を出した。

「十日後、第十一日目の朝に提出する予定の離婚届だ。今日のうちに預かってもらえれば――」

「預かりません」

 即答だった。

 奨が珍しく言葉に詰まる。恋奈は判を押す前の手をきっちり止め、淡々と続けた。

「戸籍は予約炊飯ではありません。十一日目に、お二人で来てください。気持ちも事情も、その日に確認します」

 優里は思わず噴き出しそうになった。奨は真面目に頷き、離婚届をしまう。その横顔が少しだけ悔しそうで、優里は十年ぶりに、彼を当主でも加害の側の人でもなく、同い年の人間として見た気がした。

 婚姻届に受理印が押された瞬間、鞄の中の契約書が淡く光った。昨夜の嘘蔓が、見えない根を伸ばすように二人の足元を撫でる。

「これで第一日目です」

 恋奈の声は静かだった。

「十日後に終わるとしても、今日からは夫婦として扱われます。だからこそ、書類以外のことも、雑に扱わないでください」

 久世家は、町の北側の高台にあった。黒瓦の屋根と古い土塀。門をくぐると、御神木の気配が背中へ影のようにかかる。

 玄関では、久世淑が待っていた。白髪をきっちり結い、藤色の着物を一分の乱れもなく着ている。

「奨。前当主である私に断りもなく、届出を済ませるとは」

「御神木に残された日数を考えました」

「日数を考える頭があるなら、順序を考える礼も持ちなさい」

 淑の視線が優里へ移る。

「十日だけとはいえ、久世へ入ったからには、まず家への挨拶を――」

「すみません。その前に、この南天を植え替えてもいいですか」

 優里は玄関脇の鉢へしゃがみ込んでいた。葉先は黒く縮れ、土は表面だけ乾いているのに、鉢底から嫌な湿り気が上がっている。

「根腐れです。今なら助かります。枝ぶりを見るに、冬を越す力は残っていますから」

 淑の口が閉じた。叱る言葉を探しているのだろうが、南天の状態は明らかだった。

「……道具は物置にあります」

「ありがとうございます、お祖母さま予定……ではなく、十日間だけの親族さま」

「余計に礼を欠いております」

 背後で、誰かが吹き出した。

 振り返ると、日下部陽基が小さな鈴のついた奇妙な器具を抱えて立っていた。

「いやあ、すごい新婚生活だね。三つ指より先に根腐れ診断」

「陽基、それは何」

「真実鈴。嘘蔓の振動を音に変える装置。強がり検知に最適。役場の備品じゃないから安心して」

「安心できる要素が一つもないわ」

 優里が言うと、陽基は胸を張った。奨は止める間もなく、陽基に契約書の端へ小さな鈴を結びつけられていた。

 その日の午前、優里と奨は傷移し榊の前に立った。

 幹から突き出す十本の芯棘は、黒く濡れた獣の爪に似ていた。周囲には細い黒棘が無数にあり、近づくだけで胸の奥がざらつく。

「第一の言雫接ぎは露草です」

 優里は朝露を含んだ露草の葉を、草守り糸でそっと束ねた。

「熱を持つ新しい痛みを冷ます。いきなり深い傷へ手を入れるより、まず表面の怒りと怯えを落ち着かせた方がいい」

「手順書では、芯棘を抜いてから痛みの流れを止める」

「この榊は、抜かれる前から逃げようとしています。先に呼吸を合わせます」

 奨は反論しかけたが、優里の指先と露の流れを見て、息を止めた。露は葉脈を伝い、棘の根元へ向かって細い曲線を描いている。優里には、それが怯えた子どもの肩の揺れに見えた。

「奨さん。三呼吸だけ、流れを緩めてください。止めすぎると、逆に暴れます」

「分かった」

 奨は幹へ手を当てた。黒棘がざわめき、彼の袖を細く裂いた。優里は抜いた芯棘の穴へ露草を当て、草守り糸を結んだ。

 金色の筋が、幹の奥で小さく灯る。

 第一の芯棘は、音もなく土へ落ちた。

「成功だ」

 奨の声には、命令でも計算でもない驚きが混じっていた。

「成功というより、今日は榊が我慢してくれました。明日は同じ手は使えません」

「先を読むのが早いな」

「苗は今日きれいでも、来月枯れることがありますから」

 夜、二人は同じ食卓についた。淑が並べた料理は、十日だけの妻へ出すには豪華すぎた。けれど中央には、まだ細い嘘蔓が境界線のように伸びている。

 奨は箸を置き、右掌を差し出した。

 親指の付け根から手首へかけて、白い線が斜めに走っている。

「第一の傷だ。十年前、温室の窓を割った時のガラス傷」

「なぜ窓を割ったんですか」

「今日は、在り処を一つ話す契約だ」

 それ以上は言わない、という沈黙だった。

 優里は露草の葉を小皿に置き、そこに残った言雫を見る。若い奨が割れた窓へ肩から突っ込み、誰か二人を抱えて外へ出る断片が映った。顔までは見えない。ただ、血の匂いと雨の音だけが残っている。

「……覚えている植物は、案外多そうですね」

「君に苦しいものを見せるために呼んだわけではない」

「必要だから呼んだのでしょう。だったら、苦しいものも材料です」

 奨は返事をしなかった。

 食後、廊下へ出る時、彼は低く言った。

「君の過去には興味がない」

 ちりん、と鈴が鳴った。

 次の瞬間、真実鈴は廊下中に響くほど大きく鳴り、淑と陽基が同時に障子から顔を出した。

「新婚初日から、にぎやかですね」

 優里は湯呑みを両手で包み、微笑んだ。

 奨は耳を赤くして、右掌の傷を握り込んでいる。

 彼が知りたいのは、温室事故の真相だけではない。優里が町を出た十年間を、自分が知らないままにしてきたことそのものだった。

 嘘蔓は、それを遠慮なく音にしていた。
【終】