第1話 同窓会で、十日だけの求婚
零日目の夜明け前、雨葉町は十年前と同じように薄い霧をまとっていた。
雨森優里は駅から実家へ向かう坂道で足を止める。道端の露草に、小さな水滴が連なっていた。ひとしずくが葉の先へ向かって滑り、美しい曲線を描く。
草木に残った言葉や感情――言雫を読める優里には、その軌跡が二つの声に見えた。
『おかえり』
『どうして戻ったの』
「相変わらず、歓迎と拒絶が同じ葉に乗る町ね」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び歩き出す。
雨森苗木店の看板は片側が外れ、斜めに傾いていた。庭には売れ残った南天や椿の苗が、値札を雨に滲ませたまま並んでいる。父は隣町の回復施設にいる。店を売り、療養費を確保する。それが今回の帰郷の目的だった。
錆びた取っ手に手をかけたところで、鞄の中の携帯電話が震えた。
『同窓会、顔だけでも出て。旧校舎で集まれる最後の機会だから』
幹事の水城恋奈から届いた文を、優里は三度読み返した。
「最後、か」
県立雨葉高校の旧校舎は、数日後から取り壊しの準備に入る。あの温室も、過去も、瓦礫の下へ消える。
そう思えば、一度くらい見届けてもいい気がした。
夕方。旧校舎の講堂には、卒業十周年の横断幕と、妙に華やかな紙花が飾られていた。
「優里!」
恋奈は十年の空白を挟まない声で駆け寄ってきた。
「来てくれてよかった。名札、まだ残してあるから」
「欠席者用の端じゃないんだ」
「当たり前でしょ。同級生なんだから」
胸に名札を留めてもらう間だけ、優里は帰ってきた実感を持てた。
けれど、講堂の窓から旧温室が見えた瞬間、背後の会話が耳へ刺さった。
「あそこだよね、剣持さんが倒れたの」
「蔓で締めたの、雨森だったって」
「植物に触れただけで人を傷つけるって、本当だったのかな」
十年間、何度も夢で聞いた言葉だった。
優里は振り返り、穏やかに笑う。
「私も真相を知りたいです。見た方がいるなら、ぜひ教えてください」
三人は目をそらした。誰も見ていない。ただ誰かから聞いただけだ。
手の中で紙の名札が折れた。
「優里」
恋奈が何か言おうとした時、講堂の入口がざわめいた。
黒い羽織を着た久世奨が立っていた。
高校時代より背が伸び、表情は硬くなっている。雨葉町の御神木を守る久世家当主として、今は町の誰もが一目置く男だ。
十年前、優里を見捨てた人でもある。
「久世家から知らせがある」
奨は講堂の中央へ進み、集まった同級生を見渡した。
「傷移し榊に、十本の芯棘が生じた。根の崩れが早い。猶予は十日ほどしかない」
どよめきが広がる。
傷移し榊は、町の怪我や心痛を一時的に預かる御神木だ。子どもが転んだ日も、家族を亡くした夜も、町の人々は幹へ手を当てて痛みを預けてきた。
優里には分かった。窓の外、校庭の木々の露が一斉に黒く濁っている。御神木の痛みが地中を伝い、旧温室へ流れ込んでいた。
奨と目が合う。
「雨森優里。話がある」
「人前で呼び出されると、また新しい噂が育ちますよ」
「今回は、事実にする」
噂に慣れた耳では、意味を掴むまで少し時間がかかる返答だった。
二人は講堂を離れ、旧温室の前へ向かった。割れた硝子は板で塞がれ、扉には解体準備中の札が下がっている。枯れた蔓だけが金網に絡みつき、風もないのに揺れていた。
奨は封筒から数枚の書類を取り出した。
「明日、俺と婚姻届を出してほしい」
優里はしばらく黙ったあと、書類と奨の顔を交互に見る。
「十年ぶりの再会で、謝罪より先に求婚?」
「愛情を求める婚姻ではない。十日間だけだ」
奨は感情を削った声で条件を説明した。
婚姻届が受理された日を第一日目とすること。優里が毎朝一種類の治癒植物を使い、十本の芯棘を言雫接ぎでほどくこと。第十日目の夜に離縁草を咲かせ、第十一日目の朝に二人で離婚届を出すこと。
久世家は危険手当、草守りとしての技術料、十年前から続く風評被害の補償を、町外の第三者査定で支払う。雨森苗木店の債権者へ直接入金し、優里が契約後に町へ残るかどうかで金額を変えない。店を人質にするつもりはない、という形だけは整えられていた。
「温室事故も再調査する。君が無実なら、町の説明会と文書で訂正する」
「無実なら、ですか」
「事実を先に決めつけないための言葉だ」
「十年前には、ずいぶん便利に決めつけましたね」
奨の喉がわずかに動いた。それでも言い訳はしなかった。
「傷守りと草守りが、町の前で互いの責任を引き受けた伴侶でなければ、封印は更新できない。昔の私的な祝言で君を縛りたくない。だから公的な婚姻を証しにする」
「愛情は不要」
「ああ。君に夫婦らしい振る舞いも、同室で眠ることも求めない」
金銭だけを見れば、断る理由はなかった。父の療養費も、店の借金も片づく。だが奨は、優里がそれだけで頷くと思っている。
その予想が腹立たしかった。
優里は契約書を受け取り、鞄から万年筆を出す。
「一つ、足します」
余白へ、ゆっくり書いた。
『奨は毎晩ひとつ、自分が隠してきた身体または心の傷の在り処を、嘘なく優里へ伝える』
奨が初めて言葉を失う。
「毎晩ひとつ、あなたの傷の在り処を教えてよ」
「……なぜ、それが必要だ」
「私の力が必要なら、あなたが御神木へ隠したものも治療材料です。町の傷だけ差し出して、自分は無傷の当主でいられると思わないで」
優里は微笑んだ。
「身体でも心でも構いません。でも、嘘はなし」
奨は長く契約書を見つめた末、筆を取った。
「分かった」
二人が署名した瞬間、紙の縁から細い蔓が伸びた。淡い銀色の蔓は優里と奨の手首へ巻きつき、結び目を作る。
「嘘蔓……」
「届出前の仮起動だ。明日まで契約書を改ざんできない」
「便利ですね。あなたが何か隠していなければ」
「君との生活に、何の不安もない」
蔓がぎゅうっと締まった。
奨が顔をしかめる。
優里は十年ぶりに、奨へ向けて本当に笑った。笑えたことが、少しだけ悔しかった。
「最初の嘘ですね、旦那さま予定」
その足元、板で閉ざされた旧温室の床下で、黒い根が脈打った。
湿った土の奥から、少女の悲鳴が漏れる。
『優里、逃げて――』
続いて、若い奨の声がした。
『優里に触るな!』
優里の笑みが消える。
十年前、聖梨を傷つけた犯人は自分だと、町は言った。
だが草木が覚えていた声は、まるで別の真実を土の下へ隠していた。
【終】
零日目の夜明け前、雨葉町は十年前と同じように薄い霧をまとっていた。
雨森優里は駅から実家へ向かう坂道で足を止める。道端の露草に、小さな水滴が連なっていた。ひとしずくが葉の先へ向かって滑り、美しい曲線を描く。
草木に残った言葉や感情――言雫を読める優里には、その軌跡が二つの声に見えた。
『おかえり』
『どうして戻ったの』
「相変わらず、歓迎と拒絶が同じ葉に乗る町ね」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び歩き出す。
雨森苗木店の看板は片側が外れ、斜めに傾いていた。庭には売れ残った南天や椿の苗が、値札を雨に滲ませたまま並んでいる。父は隣町の回復施設にいる。店を売り、療養費を確保する。それが今回の帰郷の目的だった。
錆びた取っ手に手をかけたところで、鞄の中の携帯電話が震えた。
『同窓会、顔だけでも出て。旧校舎で集まれる最後の機会だから』
幹事の水城恋奈から届いた文を、優里は三度読み返した。
「最後、か」
県立雨葉高校の旧校舎は、数日後から取り壊しの準備に入る。あの温室も、過去も、瓦礫の下へ消える。
そう思えば、一度くらい見届けてもいい気がした。
夕方。旧校舎の講堂には、卒業十周年の横断幕と、妙に華やかな紙花が飾られていた。
「優里!」
恋奈は十年の空白を挟まない声で駆け寄ってきた。
「来てくれてよかった。名札、まだ残してあるから」
「欠席者用の端じゃないんだ」
「当たり前でしょ。同級生なんだから」
胸に名札を留めてもらう間だけ、優里は帰ってきた実感を持てた。
けれど、講堂の窓から旧温室が見えた瞬間、背後の会話が耳へ刺さった。
「あそこだよね、剣持さんが倒れたの」
「蔓で締めたの、雨森だったって」
「植物に触れただけで人を傷つけるって、本当だったのかな」
十年間、何度も夢で聞いた言葉だった。
優里は振り返り、穏やかに笑う。
「私も真相を知りたいです。見た方がいるなら、ぜひ教えてください」
三人は目をそらした。誰も見ていない。ただ誰かから聞いただけだ。
手の中で紙の名札が折れた。
「優里」
恋奈が何か言おうとした時、講堂の入口がざわめいた。
黒い羽織を着た久世奨が立っていた。
高校時代より背が伸び、表情は硬くなっている。雨葉町の御神木を守る久世家当主として、今は町の誰もが一目置く男だ。
十年前、優里を見捨てた人でもある。
「久世家から知らせがある」
奨は講堂の中央へ進み、集まった同級生を見渡した。
「傷移し榊に、十本の芯棘が生じた。根の崩れが早い。猶予は十日ほどしかない」
どよめきが広がる。
傷移し榊は、町の怪我や心痛を一時的に預かる御神木だ。子どもが転んだ日も、家族を亡くした夜も、町の人々は幹へ手を当てて痛みを預けてきた。
優里には分かった。窓の外、校庭の木々の露が一斉に黒く濁っている。御神木の痛みが地中を伝い、旧温室へ流れ込んでいた。
奨と目が合う。
「雨森優里。話がある」
「人前で呼び出されると、また新しい噂が育ちますよ」
「今回は、事実にする」
噂に慣れた耳では、意味を掴むまで少し時間がかかる返答だった。
二人は講堂を離れ、旧温室の前へ向かった。割れた硝子は板で塞がれ、扉には解体準備中の札が下がっている。枯れた蔓だけが金網に絡みつき、風もないのに揺れていた。
奨は封筒から数枚の書類を取り出した。
「明日、俺と婚姻届を出してほしい」
優里はしばらく黙ったあと、書類と奨の顔を交互に見る。
「十年ぶりの再会で、謝罪より先に求婚?」
「愛情を求める婚姻ではない。十日間だけだ」
奨は感情を削った声で条件を説明した。
婚姻届が受理された日を第一日目とすること。優里が毎朝一種類の治癒植物を使い、十本の芯棘を言雫接ぎでほどくこと。第十日目の夜に離縁草を咲かせ、第十一日目の朝に二人で離婚届を出すこと。
久世家は危険手当、草守りとしての技術料、十年前から続く風評被害の補償を、町外の第三者査定で支払う。雨森苗木店の債権者へ直接入金し、優里が契約後に町へ残るかどうかで金額を変えない。店を人質にするつもりはない、という形だけは整えられていた。
「温室事故も再調査する。君が無実なら、町の説明会と文書で訂正する」
「無実なら、ですか」
「事実を先に決めつけないための言葉だ」
「十年前には、ずいぶん便利に決めつけましたね」
奨の喉がわずかに動いた。それでも言い訳はしなかった。
「傷守りと草守りが、町の前で互いの責任を引き受けた伴侶でなければ、封印は更新できない。昔の私的な祝言で君を縛りたくない。だから公的な婚姻を証しにする」
「愛情は不要」
「ああ。君に夫婦らしい振る舞いも、同室で眠ることも求めない」
金銭だけを見れば、断る理由はなかった。父の療養費も、店の借金も片づく。だが奨は、優里がそれだけで頷くと思っている。
その予想が腹立たしかった。
優里は契約書を受け取り、鞄から万年筆を出す。
「一つ、足します」
余白へ、ゆっくり書いた。
『奨は毎晩ひとつ、自分が隠してきた身体または心の傷の在り処を、嘘なく優里へ伝える』
奨が初めて言葉を失う。
「毎晩ひとつ、あなたの傷の在り処を教えてよ」
「……なぜ、それが必要だ」
「私の力が必要なら、あなたが御神木へ隠したものも治療材料です。町の傷だけ差し出して、自分は無傷の当主でいられると思わないで」
優里は微笑んだ。
「身体でも心でも構いません。でも、嘘はなし」
奨は長く契約書を見つめた末、筆を取った。
「分かった」
二人が署名した瞬間、紙の縁から細い蔓が伸びた。淡い銀色の蔓は優里と奨の手首へ巻きつき、結び目を作る。
「嘘蔓……」
「届出前の仮起動だ。明日まで契約書を改ざんできない」
「便利ですね。あなたが何か隠していなければ」
「君との生活に、何の不安もない」
蔓がぎゅうっと締まった。
奨が顔をしかめる。
優里は十年ぶりに、奨へ向けて本当に笑った。笑えたことが、少しだけ悔しかった。
「最初の嘘ですね、旦那さま予定」
その足元、板で閉ざされた旧温室の床下で、黒い根が脈打った。
湿った土の奥から、少女の悲鳴が漏れる。
『優里、逃げて――』
続いて、若い奨の声がした。
『優里に触るな!』
優里の笑みが消える。
十年前、聖梨を傷つけた犯人は自分だと、町は言った。
だが草木が覚えていた声は、まるで別の真実を土の下へ隠していた。
【終】



