「はぁ」
イエスでもノーでも無い、あいまいな返事。
それは、近ごろの綾子の心境を、如実に表していた。
もちろん、はっきりした返事をしたほうがいいに決まっている。自分も相手もすっきりするから。
でも、はい、いいえ、どっちも選ぶことができないから、こんな返事になってしまう。
「もう一度、説明しましょうか?」
嫌味な口調だと思った。
というのは、綾子がそう感じただけで、智子には、そういう意図は無いはずだった。
彼女のマネジメントは完璧で間違いが無い。
ずっとそうだった。
智子のおかげで、いまの綾子がある。それには、なんの疑いも無い。
「結構です」
「そう。それじゃ、考えておいてね」
それだけ言って、デスクに戻って行った。
その姿を見ていた綾子は、なんとも言えない気持ちになる。
(また来た……)
このごろ、よくこういう気持ちになる。
すきま風みたいに、ひやりと綾子の心を冷まして、不安のような、さみしさのような、むなしさを覚えさせて、「お仕事」への熱をうばっていく。
「智子さん。お菓子を作ってきたので食べてください」
「ええ、ありがとう」
智子は表情を動かさず、事務的に礼を言って、ラッピングされた箱を机に置いた。
(まえだったら、すぐに食べてくれたのに)
綾子は不服だった。
綾子が作ったものに対する智子の扱いは、綾子への扱いと同じだ。
熱も感動も無くて、ひたすらに事務的。
活動を始めたばかりのころは、そうじゃなかった。
ひとつひとつの出来事が新鮮で、それに一喜一憂して、うれしいことも辛いことも、二人で共有していた。二人三脚で、一生懸命に走ってきた。
そうしていたのが、遠い昔のことのようだ。
たった一年という歳月なのに、時間というのは、こんなにも人を変えてしまうのか。
「AYAさん、タクシー来ましたよ」
「ありがとうございます。すぐに行きます」
必要な荷物だけをポーチに詰め込んで、
「智子さん、ボイストレーニング、行ってきます」
「ええ。気をつけて」
智子に断りを入れて、事務所を出た。
智子は、パソコンの画面から視線を外すことはしなかった。
智子は、綾子を見てくれなかった。このごろの綾子は、そのことに対して過敏だった。
(ぜんぶ辞めますって言いだしたら、私のほうを見てくれるかしら?)
タクシーに乗り込んだ綾子は、そんな妄想をしてしまう。
妄想の中で、綾子は活動をやめますと宣言して、大人たちが慌てたり怒ったりしているのを、知ったことじゃありませんと、すました顔をして、事務所を出て行く。
その光景を想像すると、ざわついていた冷たい風が、かすかに穏やかになる。
(性格、悪いなぁ。私)
ポーチからスケジュール帳を取り出して開いた。
ボイストレーニング、動画の撮影、ライブ配信、打ち合わせ……。
せわしなく埋まっていく予定たち。
それをこなす日々。
そこには、「お仕事以上」の価値は無い。
価値を感じられずにいながら、辞めることはできない。
でも、これらを、ぜんぶ投げ出したら、どうなってしまうのだろう。
そんなことはしない……、いや、できないので、妄想の域から出てくることは無いのだけど。
(どうして?)
どうして、綾子がもう辞めると言っても、辞めることはできないのだろうか。
綾子の意思で始めたことなのだから、辞めるときだって、綾子の意思が尊重されていいはずなのに。
それなのに現実は、綾子の自由な意思を縛り、無難に仕事をこなすことを要求してくる。
(仕事、かぁ)
いつからか、好きなことが仕事になっていた。
もしかしたら、そのころから冷たい風は吹いていたのかもしれない。綾子が気づかなかっただけで。
綾子は、インターネットでアイドル活動をしていた。活動を始めてから、約半年になる。
昔は、ネットはアンダーグラウンドな世界で、大衆的では無い趣味や嗜好を発散するのに利用されていた。
しかし近年は、スマートフォンの普及で、ほとんどの人がインターネットの世界に入ることができるようになり、スマホ一台あれば、気軽にネットでの自己表現ができるようになった。
それを仕事にして、芸能事務所のように、タレントを抱えて事務所運営をしている人も増えてきた。
綾子たちも、そうだった。
情報発信を始める動機は、人それぞれ。
目立ちたいという人、ちやほやされたいという人、お金を稼ぎたい人……。それぞれ違う理由があって良いと思う。
―――綾子、おもしろいことをしましょう。私が手伝うから―――
智子は言った。
その約束どおり、彼女は熱心に綾子をサポートしてくれた。
しかし、綾子が人気者になるのと比例して、智子からは、そのころの熱が失われていった。
綾子に対しては淡泊で、はっきり言ってしまうと、機械みたいなのだ。
一定の成果を得たせいで、智子は変わってしまったのだろうか。
それとも、それが智子の本性で、最初から、綾子のことを、事務所を経営するための道具としてしか見ていなかったのだろうか。
そうならば、なんて残酷な人だろうと思う。
綾子の脳に、刺激的な日々を焼きつけるだけ焼きつけておいて、あとは知らないふりを決め込むなんて。
(本当に、辞めちゃおうかな)
スケジュール帳を閉じて、代わりにメモ帳を開いた。
(作詞、ぜんぜん進まないし……、智子さんは、あんなことを言うし……)
なんだかもう、ありとあらゆることが、おっくうだった。
イエスでもノーでも無い、あいまいな返事。
それは、近ごろの綾子の心境を、如実に表していた。
もちろん、はっきりした返事をしたほうがいいに決まっている。自分も相手もすっきりするから。
でも、はい、いいえ、どっちも選ぶことができないから、こんな返事になってしまう。
「もう一度、説明しましょうか?」
嫌味な口調だと思った。
というのは、綾子がそう感じただけで、智子には、そういう意図は無いはずだった。
彼女のマネジメントは完璧で間違いが無い。
ずっとそうだった。
智子のおかげで、いまの綾子がある。それには、なんの疑いも無い。
「結構です」
「そう。それじゃ、考えておいてね」
それだけ言って、デスクに戻って行った。
その姿を見ていた綾子は、なんとも言えない気持ちになる。
(また来た……)
このごろ、よくこういう気持ちになる。
すきま風みたいに、ひやりと綾子の心を冷まして、不安のような、さみしさのような、むなしさを覚えさせて、「お仕事」への熱をうばっていく。
「智子さん。お菓子を作ってきたので食べてください」
「ええ、ありがとう」
智子は表情を動かさず、事務的に礼を言って、ラッピングされた箱を机に置いた。
(まえだったら、すぐに食べてくれたのに)
綾子は不服だった。
綾子が作ったものに対する智子の扱いは、綾子への扱いと同じだ。
熱も感動も無くて、ひたすらに事務的。
活動を始めたばかりのころは、そうじゃなかった。
ひとつひとつの出来事が新鮮で、それに一喜一憂して、うれしいことも辛いことも、二人で共有していた。二人三脚で、一生懸命に走ってきた。
そうしていたのが、遠い昔のことのようだ。
たった一年という歳月なのに、時間というのは、こんなにも人を変えてしまうのか。
「AYAさん、タクシー来ましたよ」
「ありがとうございます。すぐに行きます」
必要な荷物だけをポーチに詰め込んで、
「智子さん、ボイストレーニング、行ってきます」
「ええ。気をつけて」
智子に断りを入れて、事務所を出た。
智子は、パソコンの画面から視線を外すことはしなかった。
智子は、綾子を見てくれなかった。このごろの綾子は、そのことに対して過敏だった。
(ぜんぶ辞めますって言いだしたら、私のほうを見てくれるかしら?)
タクシーに乗り込んだ綾子は、そんな妄想をしてしまう。
妄想の中で、綾子は活動をやめますと宣言して、大人たちが慌てたり怒ったりしているのを、知ったことじゃありませんと、すました顔をして、事務所を出て行く。
その光景を想像すると、ざわついていた冷たい風が、かすかに穏やかになる。
(性格、悪いなぁ。私)
ポーチからスケジュール帳を取り出して開いた。
ボイストレーニング、動画の撮影、ライブ配信、打ち合わせ……。
せわしなく埋まっていく予定たち。
それをこなす日々。
そこには、「お仕事以上」の価値は無い。
価値を感じられずにいながら、辞めることはできない。
でも、これらを、ぜんぶ投げ出したら、どうなってしまうのだろう。
そんなことはしない……、いや、できないので、妄想の域から出てくることは無いのだけど。
(どうして?)
どうして、綾子がもう辞めると言っても、辞めることはできないのだろうか。
綾子の意思で始めたことなのだから、辞めるときだって、綾子の意思が尊重されていいはずなのに。
それなのに現実は、綾子の自由な意思を縛り、無難に仕事をこなすことを要求してくる。
(仕事、かぁ)
いつからか、好きなことが仕事になっていた。
もしかしたら、そのころから冷たい風は吹いていたのかもしれない。綾子が気づかなかっただけで。
綾子は、インターネットでアイドル活動をしていた。活動を始めてから、約半年になる。
昔は、ネットはアンダーグラウンドな世界で、大衆的では無い趣味や嗜好を発散するのに利用されていた。
しかし近年は、スマートフォンの普及で、ほとんどの人がインターネットの世界に入ることができるようになり、スマホ一台あれば、気軽にネットでの自己表現ができるようになった。
それを仕事にして、芸能事務所のように、タレントを抱えて事務所運営をしている人も増えてきた。
綾子たちも、そうだった。
情報発信を始める動機は、人それぞれ。
目立ちたいという人、ちやほやされたいという人、お金を稼ぎたい人……。それぞれ違う理由があって良いと思う。
―――綾子、おもしろいことをしましょう。私が手伝うから―――
智子は言った。
その約束どおり、彼女は熱心に綾子をサポートしてくれた。
しかし、綾子が人気者になるのと比例して、智子からは、そのころの熱が失われていった。
綾子に対しては淡泊で、はっきり言ってしまうと、機械みたいなのだ。
一定の成果を得たせいで、智子は変わってしまったのだろうか。
それとも、それが智子の本性で、最初から、綾子のことを、事務所を経営するための道具としてしか見ていなかったのだろうか。
そうならば、なんて残酷な人だろうと思う。
綾子の脳に、刺激的な日々を焼きつけるだけ焼きつけておいて、あとは知らないふりを決め込むなんて。
(本当に、辞めちゃおうかな)
スケジュール帳を閉じて、代わりにメモ帳を開いた。
(作詞、ぜんぜん進まないし……、智子さんは、あんなことを言うし……)
なんだかもう、ありとあらゆることが、おっくうだった。

