「お疲れ様です」
綾子は、事務所のドアを開けた。
綾子の、いつもの日常。
何度も繰り返してきた日常。
何度も見てきた事務所の景色。
(足りない……)
そこにいるのは、かわいい後輩。信頼するべきスタッフたち。優秀なマネージャー。
(足りない、足りない……!)
こんなに美しい星たちがここにいるのに。
たった一つ。
星座を描くための星が一つ、欠けている。
それが欠けているだけで、綾子は、最高の瞬間に達することができない。
わたしとして、わたしを表現することができない。
だから……。
「綾ちゃん。今日は、せっかくのオフだってのに、どした。忘れもの?」
気さくに声をかけてくれたヒロエを無視して、事務所の一点を目指す。
ただならない様子を察知して、スタッフたちがざわついた。
「智子さん」
「どうしたの?」
「ある人を、事務所のスタッフとして推薦したいんです」
「いまは、スタッフの数は足りているわ」
「有望な人材です。いまのうちに、いろんな経験を積ませてあげたいんです」
「いまのうち、というのは」
「その人は、私と同い年です」
みんなが、息を飲む音が聞こえた。
綾子が錯乱して、無茶苦茶なことを言い出したと思っている。
たしかに、無茶苦茶だ。
まだ澪が決断できていないうちから、勝手にこんなことをするなんて、無茶だ。
だけど、綾子には、こうすることしかできない。
綾子は、綾子を信じている。綾子の感性を信じている。
だから澪も信じている。澪の才能を信じている。
人生経験を積んでから、新しいことに挑戦するのも、一つの道だ。
それでも綾子は、澪を一緒に連れていきたい。
手を差し伸べてダメなら、無茶だってなんだって、背中を押すだけだ。
「その子は、なにができるの?」
「いまはカメラが趣味です。撮影した写真を見て、美的センスに優れていると感じました」
必要な情報だけ、伝える。綾子が感じたままの澪を。
それをどう判断し、どのように人材として事務所に組み込むかは、智子の仕事だ。
「もしかして、その子は、あなたの作詞にかかわっているのかしら」
「はい」
事務所が揺れた。
ここで智子が、厳しく情報漏洩を指摘したら、綾子はタレント契約を解除されかねない。
智子は瞳を閉じて、考えていた。
こういう話を、感情や偏見で切り捨てることを、智子は絶対にしない。常識にとらわれていたら、事務所をここまで大きくすることなんて、できはしないのだから。
綾子は、澪が好きだ。
ずっと友達でいたい。
だから、綾子にできることをする。
それが結果的に、澪のためになるかは、わからない。
でも、綾子が澪のためにできることは、いまは、これしか無い。
(そうだ。澪ちゃんが送ってくれた画像)
あの綾子の画像を見れば、智子も納得する。
「あなたは、とても大きな木になってくれた。私の、想像以上に」
スマホを手にしたタイミングで、智子が語り出した。
「あなたが推薦する、その子は、あなたという大樹を支えきることができるの? もし、支えきれずに倒れてしまったら、あなたは責任をとれるの?」
「そ、れは……」
心臓が止まりそうになった。
いきなり刃物を突きつけられたような感覚に陥って、スマホを事務机の上に落としてしまった。
綾子が落としたスマートフォンは、画像を隠すように、裏返しになった。
もしも、澪が、綾子という木を支えきることができなかったら。
そのときに待っているのは、いまの綾子と智子のような、冷えた関係。
後になって、あのときに余計なことをしなかったらと後悔しても、遅いのだ。
(いいの? 本当に? この先に進んで、いいの?)
わからなくなった。
いまここにある、澪が好きという気持ちが、この先に進むことで、変わってしまったら。
なにも無い関係になってしまったら。
それだったら、いまのままでいたほうが、お互いに幸せなんじゃないの?
「あなたが即答できないのなら、この話はそれまでだわ」
なにも言えずにいる綾子に、智子は残酷なほど冷静に告げた。
そのとおりだ。
そのとおりすぎて、悔しかった。
「まぁまぁ、二人とも、落ち着いて」
ヒロエは、綾子が落としたスマホを拾った。
「そんなふうに頭ごなしに言ったら、綾ちゃんだって、なにも言えなくなってしまいますよ」
他のスタッフたちは動けず、声を発することもできず、事務所の雰囲気は冷凍庫なみに冷え込んでいた。
「いえ。智子さんの言うとおりです。私が子どもでした」
これ以上、スタッフの人たちに迷惑をかけたくなかった。
そして、自分の未熟さを思い知ってしまったいま、事務所でさらし者にされることに、耐えられなかった。
一刻も早く、ここから消えたい。
綾子がスマホを受け取ろうとすると、ヒロエの手が止まった。
「綾ちゃん。これ、誰が撮影したの?」
スマホの表側を目にしたヒロエは、おどろいていた。
「私が、推薦しようとしていた子です」
「智子さん」
ヒロエは、智子にスマホの画像を見せた。
智子は、かすかに眉毛を動かす。
なにかを悟ったように、息を吐いて。
「AYA。いえ、綾子」
智子に本名で呼ばれたのは、いつぶりだっただろう。思い出せない。
「貴女、自分の直観が信じられないの?」
「それは、どういう……」
「私は、貴女をスカウトしたとき、自分の直観に従ったわ。直観だけに従った。この子は成功する。きっと大きな木に育ってくれる、とね。それは、貴女を信じると同時に、私を信じるということもでもあった」
そこで智子は、失望したように綾子を見下してきた。
「でも、私の目は曇っていたようね。貴女は、自分の直観を信じることができない。貴女が推薦するその子を信じることができないというなら、それは、貴女が、貴女に自信が無いということになるわね。自分を信じることができないのなら、ネットアイドルなんて、辞めてしまいなさい。契約解除の必要すら無いわ。能力不足による解雇が妥当よ」
「はぁっ!? はぁぁぁっ!?」
頭に血がのぼる、という経験をしたのは、初めてだった。
AYAという一大コンテンツを育ててきたという自負とプライド。そして持ちまえの負けず嫌い。それらが一気に噴出して暴走する。
視界まで真っ赤に染まってしまいそうなほど、綾子は激高していた。
良くない言葉を使うと、ブチキレていたのである。
智子につかみかかろうとした綾子を、ヒロエが体を張って止めた。
「私が責任をとればいいんでしょう!? とります! とってみせます!」
ヒロエと、もみ合いになりながら叫んだ。
「わかっているの? ここにいるみんなが証人よ。あなたが、その子を推薦したことも、みんな知っている。もし、その子に実力が伴っていなければ、あなたがひいきしたって言われるのよ」
「澪ちゃんの能力に、間違いはありません!」
「そこまで言えるのなら、検討するわ」
「澪ちゃんが成長したら、今日のこと、謝ってもらいますからね!?」
智子からスマホをぶんどって、大股でスカートの裾を揺らしながら、事務所を去る。
大きな音を鳴らしてドアを閉める綾子を、大人たちは凍りついたまま見送った。
「智子さぁん。綱渡りがすぎますよ。わざと綾ちゃんを焚きつけたでしょ」
「ごめんなさい。やりすぎちゃったわね」
小さく笑った智子は、うっすらと涙を浮かべていた。
「今晩あたり、呑みに行きたいわね」
智子が、ハンカチを瞳にあてたのを、ヒロエは見ていないフリをした。
綾子は、事務所のドアを開けた。
綾子の、いつもの日常。
何度も繰り返してきた日常。
何度も見てきた事務所の景色。
(足りない……)
そこにいるのは、かわいい後輩。信頼するべきスタッフたち。優秀なマネージャー。
(足りない、足りない……!)
こんなに美しい星たちがここにいるのに。
たった一つ。
星座を描くための星が一つ、欠けている。
それが欠けているだけで、綾子は、最高の瞬間に達することができない。
わたしとして、わたしを表現することができない。
だから……。
「綾ちゃん。今日は、せっかくのオフだってのに、どした。忘れもの?」
気さくに声をかけてくれたヒロエを無視して、事務所の一点を目指す。
ただならない様子を察知して、スタッフたちがざわついた。
「智子さん」
「どうしたの?」
「ある人を、事務所のスタッフとして推薦したいんです」
「いまは、スタッフの数は足りているわ」
「有望な人材です。いまのうちに、いろんな経験を積ませてあげたいんです」
「いまのうち、というのは」
「その人は、私と同い年です」
みんなが、息を飲む音が聞こえた。
綾子が錯乱して、無茶苦茶なことを言い出したと思っている。
たしかに、無茶苦茶だ。
まだ澪が決断できていないうちから、勝手にこんなことをするなんて、無茶だ。
だけど、綾子には、こうすることしかできない。
綾子は、綾子を信じている。綾子の感性を信じている。
だから澪も信じている。澪の才能を信じている。
人生経験を積んでから、新しいことに挑戦するのも、一つの道だ。
それでも綾子は、澪を一緒に連れていきたい。
手を差し伸べてダメなら、無茶だってなんだって、背中を押すだけだ。
「その子は、なにができるの?」
「いまはカメラが趣味です。撮影した写真を見て、美的センスに優れていると感じました」
必要な情報だけ、伝える。綾子が感じたままの澪を。
それをどう判断し、どのように人材として事務所に組み込むかは、智子の仕事だ。
「もしかして、その子は、あなたの作詞にかかわっているのかしら」
「はい」
事務所が揺れた。
ここで智子が、厳しく情報漏洩を指摘したら、綾子はタレント契約を解除されかねない。
智子は瞳を閉じて、考えていた。
こういう話を、感情や偏見で切り捨てることを、智子は絶対にしない。常識にとらわれていたら、事務所をここまで大きくすることなんて、できはしないのだから。
綾子は、澪が好きだ。
ずっと友達でいたい。
だから、綾子にできることをする。
それが結果的に、澪のためになるかは、わからない。
でも、綾子が澪のためにできることは、いまは、これしか無い。
(そうだ。澪ちゃんが送ってくれた画像)
あの綾子の画像を見れば、智子も納得する。
「あなたは、とても大きな木になってくれた。私の、想像以上に」
スマホを手にしたタイミングで、智子が語り出した。
「あなたが推薦する、その子は、あなたという大樹を支えきることができるの? もし、支えきれずに倒れてしまったら、あなたは責任をとれるの?」
「そ、れは……」
心臓が止まりそうになった。
いきなり刃物を突きつけられたような感覚に陥って、スマホを事務机の上に落としてしまった。
綾子が落としたスマートフォンは、画像を隠すように、裏返しになった。
もしも、澪が、綾子という木を支えきることができなかったら。
そのときに待っているのは、いまの綾子と智子のような、冷えた関係。
後になって、あのときに余計なことをしなかったらと後悔しても、遅いのだ。
(いいの? 本当に? この先に進んで、いいの?)
わからなくなった。
いまここにある、澪が好きという気持ちが、この先に進むことで、変わってしまったら。
なにも無い関係になってしまったら。
それだったら、いまのままでいたほうが、お互いに幸せなんじゃないの?
「あなたが即答できないのなら、この話はそれまでだわ」
なにも言えずにいる綾子に、智子は残酷なほど冷静に告げた。
そのとおりだ。
そのとおりすぎて、悔しかった。
「まぁまぁ、二人とも、落ち着いて」
ヒロエは、綾子が落としたスマホを拾った。
「そんなふうに頭ごなしに言ったら、綾ちゃんだって、なにも言えなくなってしまいますよ」
他のスタッフたちは動けず、声を発することもできず、事務所の雰囲気は冷凍庫なみに冷え込んでいた。
「いえ。智子さんの言うとおりです。私が子どもでした」
これ以上、スタッフの人たちに迷惑をかけたくなかった。
そして、自分の未熟さを思い知ってしまったいま、事務所でさらし者にされることに、耐えられなかった。
一刻も早く、ここから消えたい。
綾子がスマホを受け取ろうとすると、ヒロエの手が止まった。
「綾ちゃん。これ、誰が撮影したの?」
スマホの表側を目にしたヒロエは、おどろいていた。
「私が、推薦しようとしていた子です」
「智子さん」
ヒロエは、智子にスマホの画像を見せた。
智子は、かすかに眉毛を動かす。
なにかを悟ったように、息を吐いて。
「AYA。いえ、綾子」
智子に本名で呼ばれたのは、いつぶりだっただろう。思い出せない。
「貴女、自分の直観が信じられないの?」
「それは、どういう……」
「私は、貴女をスカウトしたとき、自分の直観に従ったわ。直観だけに従った。この子は成功する。きっと大きな木に育ってくれる、とね。それは、貴女を信じると同時に、私を信じるということもでもあった」
そこで智子は、失望したように綾子を見下してきた。
「でも、私の目は曇っていたようね。貴女は、自分の直観を信じることができない。貴女が推薦するその子を信じることができないというなら、それは、貴女が、貴女に自信が無いということになるわね。自分を信じることができないのなら、ネットアイドルなんて、辞めてしまいなさい。契約解除の必要すら無いわ。能力不足による解雇が妥当よ」
「はぁっ!? はぁぁぁっ!?」
頭に血がのぼる、という経験をしたのは、初めてだった。
AYAという一大コンテンツを育ててきたという自負とプライド。そして持ちまえの負けず嫌い。それらが一気に噴出して暴走する。
視界まで真っ赤に染まってしまいそうなほど、綾子は激高していた。
良くない言葉を使うと、ブチキレていたのである。
智子につかみかかろうとした綾子を、ヒロエが体を張って止めた。
「私が責任をとればいいんでしょう!? とります! とってみせます!」
ヒロエと、もみ合いになりながら叫んだ。
「わかっているの? ここにいるみんなが証人よ。あなたが、その子を推薦したことも、みんな知っている。もし、その子に実力が伴っていなければ、あなたがひいきしたって言われるのよ」
「澪ちゃんの能力に、間違いはありません!」
「そこまで言えるのなら、検討するわ」
「澪ちゃんが成長したら、今日のこと、謝ってもらいますからね!?」
智子からスマホをぶんどって、大股でスカートの裾を揺らしながら、事務所を去る。
大きな音を鳴らしてドアを閉める綾子を、大人たちは凍りついたまま見送った。
「智子さぁん。綱渡りがすぎますよ。わざと綾ちゃんを焚きつけたでしょ」
「ごめんなさい。やりすぎちゃったわね」
小さく笑った智子は、うっすらと涙を浮かべていた。
「今晩あたり、呑みに行きたいわね」
智子が、ハンカチを瞳にあてたのを、ヒロエは見ていないフリをした。

