わたしたちは星の歌を紡ぐ

「おはよう」
 澪が抑揚の無い声であいさつをする。
「おはよ」
「おはよー」
 クラスメイトたちから、あいさつが返ってくる。
 それは、如月澪という個体に対して反応したものでは無い。あいさつの声が聞こえたから、みんなは条件反射であいさつを返しただけだ。
(そりゃ、そうだよね)
 澪本人が、義務として、とりあえずの挨拶をしているに過ぎないのだから、相手から、それ以上の反応が返ってくるはずが無い。
 「それ以上」を求める方法は、誰よりも澪が知っていた。
 でも、そうすることの怖さを、澪は痛感していた。
 心を開いて他人と接したときに、自分が否定されてしまったら、どうしよう。
 そのことばかりが頭に浮かんで、積極的に他人とかかわることを、ためらってしまう。
 〝あの出来事〟を、いまだに引きずっているせいで。
「おっはよー。澪っちー」
 教室の入り口で棒立ちになっていた澪の首に、腕が巻き付けられた。
 振り返ると、まっ茶色に染まった髪と、茶髪を結んで作った、小さなポニーテールが目に飛び込んできた。
「おはよう。倉持さん」
「もー、しおりんって呼んでいいって言ってるのに。澪っちは慎み深いねー」
 慎み深くなんてないよ。
 澪がそう反論する間も無く、腕をほどいた倉持さんは、セーラー服のタイと豊かな胸を弾ませながら、他のクラスメイトにも明るく挨拶をしていく。
 茶色に染めた髪といい、言動といい、倉持詩織(くらもちしおり)さんは、この学校を象徴するような生徒だった。
 澪が通う高校は、自由な校風をモットーとしている。
 髪型も髪の色も、よっぽど奇抜で無ければ、教師から注意を受けることは無い。
 澪は、自分の席に座って、教科書を机の中にしまった。
 窓際では、倉持さんを中心に、女生徒たちが盛り上がっている。
 女の子たちの話題は多様だった。
 テレビの話だったり、インターネットの話だったり。
 澪は、そのどれにも興味が無い。
 いや、興味が無いわけでも無い。
 耳に入ってくる、女の子たちの話に対して、
(ああ。あれのことだっけ?)
 とか。
(へぇ。そうなんだ)
 とか。 
 なんとなくは、あいづちを打つことができる。
 ただし、それ以上のレスポンスが浮かんでこなくて、脳内で行われている、クラスメイトたちとの仮想会話は打ち切られてしまう。
 っていうことは、実際に、あの輪の中に澪が入っていったならば、会話の流れをぶった切ってしまうことになる。
 それで、中学のときみたいなことになったら……。
 それだったら、まだ一匹狼(ロンリーウルフ)でいるほうがマシ、という結論になってしまう。
 そして如月澪という一匹狼は、今日も、如月澪の巣を守る。
 自分で、自分のことを守り続ける。いままで、そうしてきたように。
(暇だ)
 ホームルームが始まるまでの時間、澪はいつも暇を持て余す。
 それなら、登校する時間を、もっと遅らせればいいと思われるかもしれないが、交通機関の関係上、それはできない。
 あと、澪の性格上、時間ギリギリに登校するなんていう、危ない橋を渡ることができないのだ。
 ということで、しかたなく、苦手な数学の教科書を開き、予習を始める。
(私、いつからこんなに臆病になっちゃったんだろう)
 性格上とかいう言葉を使ってみたけれど、幼いころは、人並みに活発で、人並みにやんちゃなこともしていたはずだ。
 それが気づけば、自分のテリトリーに引きこもって、危険の無い安全な場所だけを、ぐるぐるぐるぐる徘徊する狼に変貌していて、リスクを極端に避けるようになっていた。
 空いた時間を、予習復習に充てるのは、もはやライフワーク。
 おかげで学校の成績は、学年上位の常連になっているけれど、澪本人にとっては、まったくどうでもいいことだった。
(どうせ、こんな公式、高校を卒業したら忘れてるよ)
 それでも澪は、数学の例題を解いていった。
 独りで勉強に励む澪は、いつしか、一匹狼と呼ばれるようになって、澪がしているように、みんなも澪とかかわるのを避けていた。
 だから、高校二年生になっても、友人が一人もできない。
 でもそれは、クラスメイトたちに悪意があるからではない。
 澪が、他のことに興味を示さずに、黙々と勉強しているものだから、すでに志望大学を見据えてがんばっているのだと、好意的に解釈してくれていた。それで、澪の邪魔をしないように、澪とかかわるのを遠慮しているのだった。
(こんなこと、なんになるの?)
 知らない誰かが作った教科書の内容を覚え、知らない誰かが作った問題を解く。この行為に、「それ以上」の付加価値を見出すことが、澪にはできなかった。
 この、無為で無意味な行為を享受する毎日。
 だから澪自身も、無為で無意味な存在になってしまう。
 クラスの女の子たちの話題は、めまぐるしく変わる。テスト範囲なんかより、よっぽど幅が広い。
 そのすべての話題に、女の子たち全員が興味があるようには見えないけれど、まったく興味が無いことであっても、友人たちとそれを語らっている時間は、無為に数学の例題を解いている時間に比べたら、何百倍も有意義なように澪には感じられた。
「ねーねー。マジメな優等生の、一匹狼さん」
「は!?」
 倉持さんだった。
 しゃがんで、澪の机のはしっこに指先を添え、指の上に顔をのっけて、澪の顔を覗き込んでいた。 
 いつ、澪の目のまえにテレポートしてきたのか。
 それにしても。
 倉持さんの中で、澪はどういう人間なのだろう。
 慎み深い、マジメ、優等生。
 それでいて、みんなが澪に抱いているであろうイメージの、一匹狼、という文言は、ちゃんとくっつけてくる。
 倉持さんとおしゃべりをしていた女子たちは、こちらの成り行きを見守っている。
 単身、狼の巣に乗り込んで行った、倉持さんのことを心配しているのだ。
「な、なに」
「家でも、ずっと勉強してるの?」
 じっと正面から瞳を見つめられたので、どぎまぎしてしまった。
 倉持さんの目は、もともとぱっちりとしているけれど、
(これ、バレないくらいにアイシャドウ入れて強調させてる)
 ということを、直観的に澪は見抜いた。
 そしてなぜか、倉持さんがメイクをしていることに気づいた自分が恥ずかしくなって、返事がどもってしまった。
「ずっとって、わけじゃないけど……」
「じゃあ、勉強してないときは、なにしてるの?」
 倉持さんは、矢継ぎ早に質問をしてきた。
 澪は、押し黙った。
 上唇と下唇がくっついたみたいに、重く口を閉ざす。
 クラスメイトとの日常会話に慣れていないということもあるのだけど……。
 倉持さんは、澪の言葉を待っている。笑顔には、まったく邪気は無い。
 それはそうだ。普段なにをしているの、なんて、ありふれすぎた質問だし、それに対する答えを、会話相手が持っていないなんて、ふつうは想像できない。
 ところが不運なことに、澪は例外なのだ。
 澪は、ふつうでは無い。
「えっと……」
 ふつうでは無い自分。それをさらけ出すのがこわくて、いままでだったら、適当にごまかしていた。
 でも、それでいいのかと、心が反発してきた。
 いままでのように、周囲と距離を置いて、味気の無い毎日を送る。
 そんな日々がイヤだから、高校入学をきっかけに、なにかを変えようとしたんじゃなかったのか。
「あの、ね。私……」
「如月さん! ごめんなさい!」
 鉄の門みたいに固く閉ざした口を開こうとすると、女の子たちが倉持さんを囲んだ。
「詩織ちゃん。また今度にしよう」
「えー。ウチは、もっと澪っちとお話したいよー」
「如月さん、勉強中だから。邪魔したら悪いわよ」
「むぅ。わかったよ。じゃあ澪っち。またお話しようね」
 女子たちは、不服そうにしている倉持さんを連行していった。
(言いかけちゃった……)
 澪は、自分の行為におどろいていた。
 他人と触れ合いたい。
 理解し合いたい。
 澪のことを受け入れてほしい。
 心の奥底でくすぶっていた欲求は、いつからか、堅い扉の向こう側から、ノックをしてくるようになった。
 ここから出してほしいと訴えかけながら。
 そこに封印されているのは、如月澪という人間、そのものだ。
 一匹狼という、仮初の姿から脱皮をした、ただの澪。
 もう、これを隠し続けるのは限界だ。
 澪が抑制しようとしても、いつかきっと、勝手に表に出てきてしまう。そんな予感がした。
(だけどなぁ)
 顔を上げると、倉持さんと目が合った。
 澪は、すぐに視線をそらして、教科書に目を落とす。
 あの人たちは、そのままの澪を、受け入れてくれるのだろうか。
 そのままの澪を解放して、中学時代のときのようにならないだろうか。
 下手な勇気を出して傷つくぐらいなら、なにもかも、このままでいい。
 一匹狼のままでいい。
 その厚い毛皮をまとってさえいれば、痛みを味わうことはないのだから。