智子の後に続いて、ヒールの音を鳴らしながら、ヒロエは、地下に続く階段を下りていった。
周囲は、いかにも繁華街といった街並みで、ファミレスからバーから、ありとあらゆる飲食店が並んでいる。
そんな街の中にあって、智子がヒロエを連れだって入店したのは、とある雑居ビルの地下にある、一軒の居酒屋だった。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
戸を開けて暖簾をくぐると、白髪のおじいさんが人さし指と中指を立てながら出迎えてくれた。年齢と貫禄からして、店長さんだろう。
智子が、そうですと伝えると、おじいさんは店内を見渡した。
すでに店内は、多くのお客さんたちでにぎわっていた。
落ち着いた明るさの蛍光灯が、お客たちを照らしている。
一人掛け用の席では、ワインが入っていそうな大きな樽をテーブルの代わりにして、地元の人と思われる、ラフな格好をした老人たちや、仕事帰りのサラリーマンが、一人の時間と共に、料理と酒を楽しんでいる。
(渋いお店だなぁ)
店の壁には、いくつもの絵画が飾られている。
都内の下町の街並みを描いたのであろう絵もあれば、競馬の様子を描いた絵もある。
それを見たヒロエは、そういえば、この近くには競馬場があったなと思いだした。ちなみに、ヒロエも智子も、賭け事はやらない。
カラオケ店の大部屋のような、ひときわ広いスペースの隣では、レトロな古時計が、現役で時間を刻んでいる。
高い棚の上には、いまどき見ない古い型の、ブラウン管のテレビが置かれている。
前時代的な、懐かしい雰囲気。
時間が、ゆったりと流れていくような感覚になる。
「他に人は来ません」
店長さんは、二人をどの席に案内しようかと迷っていた。
入店してきたのは、スーツを着た、社会人然とした大人の女性二人。
もしかしたら、後で仲間がやって来るかもしれないから、あらかじめ広いスペースに通しておいたほうが、手間がはぶけると考えていたようだった。
その思考を先読みした智子が、店長さんに告げると、
「そうですか。では、あちらへ」
対面式の、二人用のテーブルに案内された。
智子は頭がよく回るし、洞察力がある。
「智子さん、こういうお店、好きなんですか?」
椅子に座ってから、質問してみた。
「静かなバーで、一人しずかに、お酒をたしなんでるイメージでしたけど」
「そういうお店にも、行くわよ」
若い店員さんが、お通しの小鉢を持ってきた。
飲みものを聞かれたので、ヒロエは生ビールをジョッキで注文した。
智子は、レモンサワーを注文していた。
なんというか、選んだお店といい、庶民的である。パンツスーツを着こなして、バリバリ仕事をこなしている普段の智子からは、イメージできない。
「隠れ家というやつよ」
「なるほど」
ヒロエは、話を半分に聞きながら、お通しの、ジャガイモの煮ものに箸を伸ばした。
このお店に入るまでの道々、食べものの良い匂いを嗅がされ続けたので、空腹が臨界点を突破して、お腹が鳴ってしまいそうだった。
「おっ、うまっ」
しっかりと煮込まれたジャガイモが、口の中で、ほろりと崩れた。
家庭的な味わいである。智子がこの店を気に入っているのは、こういう、家庭の味を求めているからだろうか。
智子くらい仕事ができるなら、料理も簡単に覚えることができそうだけれど。
(でも、苦手がひとつくらいあったほうが、可愛げがあるか)
もっとも、もし智子に苦手があったとしても、彼女はそれを事務所の人間に悟られないようにするはずだ。
可愛げなんて、見せるわけがない。
お酒が運ばれてきたので、儀礼に従い、グラスとジョッキをくっつけて、乾杯の儀式を行う。
お酒を体に流し込んで、一息をつく。
「それで、隠れ家に招待してくださった理由はなんですか?」
「せっかちね」
智子は、メニュー表を持ち上げて、料理を注文しようとしていた。
「気を遣いながらお酒を呑みたくないですから。それに、後になればなるほど、聞きにくくなりそうですし」
「まぁ、待ちなさいよ」
店員を呼んだ智子は、そら豆とワカメのポン酢和えと、焼き油揚げを注文していた。
(またまた、庶民的な……)
ここでヒロエは、智子に対するイメージを改めることを決めた。
きっと、この庶民的なお店を利用すること、庶民的なお酒と料理を楽しむことが、智子にとっての癒しなのだ。
「この、雑踏に紛れている感じがいいのよ」
「え?」
「さっきの話よ。どうして私が、このお店を好きなのかという」
「ああ、そうでしたね」
そのときはジャガイモをかっこんでいたので、ヒロエは覚えていなかった。
「特別感が無いっていうのかしら。私も、この中の一人にすぎない、大勢の中の一人なんだなって思えるのよ」
だんだん本質的な話になってきた。
(ようわからん)
ゼロからいまの事務所を立ち上げ、AYAを一大コンテンツに成長させた智子である。ヒロエのような凡人が、彼女の思考を理解しようとするのは無理がある。
ただし、智子と同じく、己の能力ひとつを頼りに、プロのスタイリストになったヒロエだ。自分の感性には自信があった。
「綾ちゃん、最近、我が強くなってきましたね」
智子が、グラスに伸ばそうとした手を止めた。
(やっぱり、それか)
近ごろ、綾子と智子の仲が上手くいっていないのではないかと、ヒロエを始めとしたスタッフたちは心配していた。
みんなが気にしていたし、みんなが聞きたいことであった。
でも智子は、仕事中は隙が無いし、イベントの打ち上げくらいしか、スタッフたちと一緒に飲食することは無い。
それに、そういう席で彼女はお酒を飲まないので、本音を聞けるチャンスが無いのだった。
そんな智子が、ヒロエを指名して、酒場にやって来た理由となれば、おおかたの察しはつくというもの。
智子の手は、すぐにグラスを握る。
表情は、冷静そのもので、乱れが無い。
「綾子は、これまで良くやってくれたわ。だけど私は、あの子のことを見誤っていた」
智子の言いかたに、ヒロエはどきりとした。
(ま、まさか。智子さん、反抗的になってきた綾ちゃんを切るつもり!?)
これは、お酒を楽しんでいる場合じゃない。
周囲は、いかにも繁華街といった街並みで、ファミレスからバーから、ありとあらゆる飲食店が並んでいる。
そんな街の中にあって、智子がヒロエを連れだって入店したのは、とある雑居ビルの地下にある、一軒の居酒屋だった。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
戸を開けて暖簾をくぐると、白髪のおじいさんが人さし指と中指を立てながら出迎えてくれた。年齢と貫禄からして、店長さんだろう。
智子が、そうですと伝えると、おじいさんは店内を見渡した。
すでに店内は、多くのお客さんたちでにぎわっていた。
落ち着いた明るさの蛍光灯が、お客たちを照らしている。
一人掛け用の席では、ワインが入っていそうな大きな樽をテーブルの代わりにして、地元の人と思われる、ラフな格好をした老人たちや、仕事帰りのサラリーマンが、一人の時間と共に、料理と酒を楽しんでいる。
(渋いお店だなぁ)
店の壁には、いくつもの絵画が飾られている。
都内の下町の街並みを描いたのであろう絵もあれば、競馬の様子を描いた絵もある。
それを見たヒロエは、そういえば、この近くには競馬場があったなと思いだした。ちなみに、ヒロエも智子も、賭け事はやらない。
カラオケ店の大部屋のような、ひときわ広いスペースの隣では、レトロな古時計が、現役で時間を刻んでいる。
高い棚の上には、いまどき見ない古い型の、ブラウン管のテレビが置かれている。
前時代的な、懐かしい雰囲気。
時間が、ゆったりと流れていくような感覚になる。
「他に人は来ません」
店長さんは、二人をどの席に案内しようかと迷っていた。
入店してきたのは、スーツを着た、社会人然とした大人の女性二人。
もしかしたら、後で仲間がやって来るかもしれないから、あらかじめ広いスペースに通しておいたほうが、手間がはぶけると考えていたようだった。
その思考を先読みした智子が、店長さんに告げると、
「そうですか。では、あちらへ」
対面式の、二人用のテーブルに案内された。
智子は頭がよく回るし、洞察力がある。
「智子さん、こういうお店、好きなんですか?」
椅子に座ってから、質問してみた。
「静かなバーで、一人しずかに、お酒をたしなんでるイメージでしたけど」
「そういうお店にも、行くわよ」
若い店員さんが、お通しの小鉢を持ってきた。
飲みものを聞かれたので、ヒロエは生ビールをジョッキで注文した。
智子は、レモンサワーを注文していた。
なんというか、選んだお店といい、庶民的である。パンツスーツを着こなして、バリバリ仕事をこなしている普段の智子からは、イメージできない。
「隠れ家というやつよ」
「なるほど」
ヒロエは、話を半分に聞きながら、お通しの、ジャガイモの煮ものに箸を伸ばした。
このお店に入るまでの道々、食べものの良い匂いを嗅がされ続けたので、空腹が臨界点を突破して、お腹が鳴ってしまいそうだった。
「おっ、うまっ」
しっかりと煮込まれたジャガイモが、口の中で、ほろりと崩れた。
家庭的な味わいである。智子がこの店を気に入っているのは、こういう、家庭の味を求めているからだろうか。
智子くらい仕事ができるなら、料理も簡単に覚えることができそうだけれど。
(でも、苦手がひとつくらいあったほうが、可愛げがあるか)
もっとも、もし智子に苦手があったとしても、彼女はそれを事務所の人間に悟られないようにするはずだ。
可愛げなんて、見せるわけがない。
お酒が運ばれてきたので、儀礼に従い、グラスとジョッキをくっつけて、乾杯の儀式を行う。
お酒を体に流し込んで、一息をつく。
「それで、隠れ家に招待してくださった理由はなんですか?」
「せっかちね」
智子は、メニュー表を持ち上げて、料理を注文しようとしていた。
「気を遣いながらお酒を呑みたくないですから。それに、後になればなるほど、聞きにくくなりそうですし」
「まぁ、待ちなさいよ」
店員を呼んだ智子は、そら豆とワカメのポン酢和えと、焼き油揚げを注文していた。
(またまた、庶民的な……)
ここでヒロエは、智子に対するイメージを改めることを決めた。
きっと、この庶民的なお店を利用すること、庶民的なお酒と料理を楽しむことが、智子にとっての癒しなのだ。
「この、雑踏に紛れている感じがいいのよ」
「え?」
「さっきの話よ。どうして私が、このお店を好きなのかという」
「ああ、そうでしたね」
そのときはジャガイモをかっこんでいたので、ヒロエは覚えていなかった。
「特別感が無いっていうのかしら。私も、この中の一人にすぎない、大勢の中の一人なんだなって思えるのよ」
だんだん本質的な話になってきた。
(ようわからん)
ゼロからいまの事務所を立ち上げ、AYAを一大コンテンツに成長させた智子である。ヒロエのような凡人が、彼女の思考を理解しようとするのは無理がある。
ただし、智子と同じく、己の能力ひとつを頼りに、プロのスタイリストになったヒロエだ。自分の感性には自信があった。
「綾ちゃん、最近、我が強くなってきましたね」
智子が、グラスに伸ばそうとした手を止めた。
(やっぱり、それか)
近ごろ、綾子と智子の仲が上手くいっていないのではないかと、ヒロエを始めとしたスタッフたちは心配していた。
みんなが気にしていたし、みんなが聞きたいことであった。
でも智子は、仕事中は隙が無いし、イベントの打ち上げくらいしか、スタッフたちと一緒に飲食することは無い。
それに、そういう席で彼女はお酒を飲まないので、本音を聞けるチャンスが無いのだった。
そんな智子が、ヒロエを指名して、酒場にやって来た理由となれば、おおかたの察しはつくというもの。
智子の手は、すぐにグラスを握る。
表情は、冷静そのもので、乱れが無い。
「綾子は、これまで良くやってくれたわ。だけど私は、あの子のことを見誤っていた」
智子の言いかたに、ヒロエはどきりとした。
(ま、まさか。智子さん、反抗的になってきた綾ちゃんを切るつもり!?)
これは、お酒を楽しんでいる場合じゃない。

