わたしたちは星の歌を紡ぐ

「澪っち。また来週ねー」
 倉持さんが、元気よく電車から降りて行った。
 小走りにホームを駆けて行った倉持さん。半身で振り返りながら澪に手を振った拍子に、駅員さんにぶつかりそうになって、注意をされていた。
 澪は、そんな彼女を窓越しに見送る。
(倉持さんは、いつも元気だ)
 彼女のパワーの源は、どこにあるのだろう。
 それはきっと、すべてだ。
 花咲高校の制服を着たいという一心で、苦手な勉強をがんばった彼女は、花咲に入学した時点で、目標を達成している。
 だから、制服を着て高校に通うというそのことだけで、彼女に活力を与えてくれる。
 その証拠に、倉持さんは、入学して以来、一度も学校を休んだことが無い(なお、成績はあんまり良くないらしい)。
 電車は無機質で事務的に、乗客たちを運んで行く。
 倉持さんがいなくなったとたんに、車両内から熱が失われてしまったかのようだった。
 そんなことは、ありえない。
 電車には、いろんな人が乗り合わせていて、それぞれが、それぞれの目的をもって、移動をしている。
 それを観察している澪に熱が無いから、車両の中が、いやおおげさに言えば、世界が無機質で、冷めているように感じるのだ。
(そうなんだよなぁ)
 結局、澪の問題なのだ。
 でも。
 問題の答えは、どこにあるのだろう。そもそも、答えなんてあるのだろうか。
 澪には、突出した能力が無い。
 誰かを感動させる能力も。
 これがあるから、わたしなんだと誇れるものも。
 なにも、無い。
 無いものに答えを求めてみたところで、意味なんてあるのだろうか。
 そこに答えを求めれば求めるほど、自分を苦しめるだけじゃないのだろうか。
 景色が流れていく。
 ビルだらけの、灰色の景色。
(空に虹、かからないかな)
 降って湧いた感情だった。
 無機質な景色に飽きたのだと思った。
 七色の虹。 
 これ、という特定の色を持っていなくて、だから何色になることもできて。無限の可能性に満ちている。
 それが心にかかったのなら、いま澪は、どんなにワクワクできるだろう。
(私、わがままだな)
 無機質な景色を創り出しているのは、澪本人。
 その景色を変えたいのなら、虹を見たいのなら、自分で努力をすればいいのに。
(そんなこと言ったって、私に、なにができるの?)
 倉持さんみたいに、命が輝いている人ならともかく、澪に、そんな魔法みたいなことができるわけがない。
 それでも、自分をあきらめきれないまま、今日も、明日も、同じ景色を眺め続ける。
(変化が、ほしい)
 誰か、澪をこの景色の中から連れ出してほしい。





                      ※





 マンションを後にして、駅に向かう。
 いつもの散歩道。
 いつもの土曜日の夕方。
 それは、なにも変わらない澪の現実を表していた。
 休日が明ければ、また一週間が始まって、終わる。
 ひたすら、その繰り返し。
 澪は散歩中に、走ることもあった。
 それで体重が落ちたり、ボディラインが整えば、達成感を覚えることができるから。
 でも実際は、動けばお腹が減って、しっかりご飯を食べてしまって、体重が変わることは無い。
 なにも変わらない現実。
 現実を変えることができない自分。
 自分の意志の弱さを嘆いて、自己肯定感を失っていく。
 今日も、夕日が沈んでいく。
 そのうちに、一番星がまたたき始める。
 星空の海に飲まれる一番星を見上げながら、家に帰って、また明日になって……。
「あっ」
 その人は、いつからそこにいたのだろう。
 一番星が降って来たかのように、突如として姿を現した。
 視線の先。
 そこに、一人の女の子がたたずんでいた。
 もしも。 
 もしも彼女が、夜空にまたたく星のひとつだったとしても。
 澪は、幾億の星々の中から、迷わず彼女を見つけることができたはずだ。
 そのくらい、彼女だけが輝いて見えたのだ。
(な、なに考えてんの、私)
 思考がおかしな方向に行こうとしているのを制御した。
 週末の遊歩道は、大勢の人でにぎわっている。
 こんなにたくさんの人間がいるのに、ただ一人の人間が輝いて見えるわけがない。
 いまの澪は、劇的な変化に飢えているのだ。
 澪の環境を変えてくれるなにかを探している。
 あまりにも心が飢えているから、おかしなことを考えてしまうんだ。
(いけない、いけない)
 昂りかけた心を落ち着かせ、目にとまった女の子の横を素通りしようとした。
 背丈は澪よりも小さくて……、150cmくらいだった。
 メガネをかけていて、深くかぶったニット帽から伸びる髪が、かすかに亜麻色に染まっている。
(中学生かな?)
 あんまりじろじろ見ないように気をつけたのだけど、そこは、一度、気になってしまった女の子。つい観察してしまった。
 このときに、澪が、すこしもこの子のことを見ずに素通りしていたら、二人の運命は、どうなっていたのだろうか。
「えっ」
 光の粒が、流れた。
 流星のように綺麗だった。
 最初、澪は、夕陽が眼鏡に反射しているのだと思った。でも、違った。
(泣いてるんだ……)
 彼女は、海を眺めるのでも無く、うつむいて、涙を流していた。
 誰に知られるでも無く、ひとりで、孤独に。
 泣いている彼女の横を、大人たちが素通りしていく。
 誰も、彼女の涙に気づかないまま。
(どうして)
 澪は思った。
 彼女はこんなにも孤独なのに、どうして誰も、手を差し出してあげないの。
(どうして?)
 澪は思った。
 彼女の涙はこんなにも綺麗なのに、どうして誰も、この宝石に気づくことができないの。
 この美しい流れ星は、きっと、願いを叶えてくれるのに。
 そう思った根拠なんて、なにも無い。
 強いて言うのなら、澪の心。
 あの涙を見た瞬間に動いた、わたしの心。
 心にかかっている雲が晴れて、かすかに光が差し込んでくるような。
 電灯が、ちかちかとまたたいて、灯り始めるような。
 体に熱が帯びていくような。
 そんな感覚。
 感性が告げてくるのだ。
 あれは澪にとって、かけがえの無い宝ものになると。
「ねえ、君」
 澪が、すんなり声をかけることができたのは、この子を年下だと認識していたからだ。
 年下の女の子が、独りで泣いているのを気にかけるのは、不自然なことじゃないから。
「ひゃっ!」
 彼女は警戒して、澪から離れた。
 グーに握った両手を、胸のまえで合わせて顔を伏せた。
(こんなとっさに、かわいいポーズを取れる人なんて、いるんだ)
 澪は感心していた。
「な、なにかご用でしょうか?」
 耳に心地良い、澄んだ声だった。
 澪の聴覚にいっさいのストレスを与えず、自然にやさしく脳に到達する。
 童話に登場する人魚の歌声。あるいは、妖精がささやく声。
 彼女の声は、この世ならざる魅力を持っていると澪は感じた。
「泣いてるみたいに見えたから」
 彼女は、澪が女性だということに気づくと、いくぶん、警戒を緩めているようだった。
「ああ。すみません」
 彼女が、ポケットからハンカチを取り出して、涙を拭いたのと、
(あぁっ。ハンカチくらい、私のほうから渡してあげれば良かった)
 澪が後悔したのは同時だった。
「見られちゃいましたか」
 泣いていた、ということを否定しなかった。
 恥ずかしそうに笑って、伏せていた顔を上げる。
(顔、ちっさ!)
 それが第一印象。
 小顔であるため、ぱっちりした瞳がさらに映える。
 幼さがにじむ、愛くるしい顔立ち。
 薄く亜麻色に染まった髪が、耳を隠す程度に伸びている。
 あどけなさが残っている顔つきに、ショートボブが良く似合っていた。
 中学生かなと思っていたけれど、アイシャドウやチークで、しっかりメイクをしているので、実年齢は、もっと高いのかもしれない。
(でも、最近の中学生は知識もあるし、メイクをしていても、不思議じゃないか)
 かくいう澪は、ノーメイク。
 肌のケアはするけれど、メイクはしない。コスメに興味も無いので、必要になったら覚えればいいやというスタンスだった。
「ご心配おかけしました」
 行儀よく、頭を下げてくる。
「この辺にお住まいの方なんですか?」
「あ、うん。そうだよ」
 年下だと思っていた相手が敬語を使ってくるから、澪も、なんとなく自分が年上という感覚で接していた。
「そうですか。じゃあ、またお会いしましょう」
 そう告げて、彼女は駅に向かって歩き出していた。
「ちょ、あのっ」
「大丈夫です。一人で帰れますから」
 違う。
 違くて、もっと聞きたいこととか、話したいこととか、あって。
 でも、言葉にすることが、できなくて。
 澪が、小さな背中を見送ることしかできないでいると、彼女のほうから振り返ってきた。
「わたしのこと、見つけてくれて、ありがとうございます」
「あ……」
 澪は、なにも言えなくなった。
(いいんだ。なにも言わなくても)
 彼女が、いま告げたことが、澪が聞きたいこと、話したかったことの、ぜんぶだったから。
 手を振って去っていく彼女に、手を振り返す。
 彼女の姿が、大勢の人間に飲まれていく。
 それでも澪は、あの中から彼女を探し出す自信があった。
 だから、さみしさは感じなかった。