わたしたちは星の歌を紡ぐ

 綾子が駅を出たときには、陽が傾き始めていた。
 海が見たい。
 自分だけの欲求に応えてあげるのは、本当にひさしぶりだった。
 街はにぎわっていて、都内に負けないくらい人通りが多い。
 駅の周辺にはいろんなお店があって、綾子を満たしてくれそうな手段が、星の数ほどあるのに。
 ささやかな願いごとを叶えるために、それらに目もくれずに海を目指している自分が、つつましすぎて、バカみたいだった。
 海辺の遊歩道。
 潮風が、綾子に触れる。
 冷たい風は、最近の智子みたいだ。
 一組の男女のカップルとすれ違った。
 女性は、男性に腕を絡めて、体をあずけている。
 あの女の人が、うらやましかった。
 カップルの後姿を、意地きたなく見つめる。
 大人の女性だって、ああやって甘えている。
 綾子はまだ子どもなのだから、もっと甘やかされてもいいじゃないか。
 なんで、こんな孤独を抱えないといけないのだろう。これまで、がんばって活動してきたのに。
 海原を眺めた。
 カモメが空を飛び回っている。
 鳥たちだって、いつまでも元気に飛んではいられない。飛ぶのに疲れたら、木の枝で羽を休める。
 AYAという虚像になりきることには、納得しているし、満足もしている。それで、大勢の人が喜んでくれるのだから。
 でも、たまにでいいから。
 たまにでいいから、休ませてほしい。
 たまにでいいから、綾子の思うままに行動させてほしいだけなのに。
 多くを望んでいないはずなのに、現実世界は、綾子にやさしくしてくれない。
 羽を休めるための木の枝ひとつ、用意してくれない。
 太陽が、沈んでいく。
 今日が、終わる。
 今日が終わって、明日が始まって、明日も終わる。
 綾子がここにいようがいまいが、そんなことはおかまいなしで、世の中は回っていく。
(こわい……)
 こわくなった。
 もしも、の話。
 今日、綾子が世の中から消えてしまうとしたら、綾子は、なにかを残せたと言えるだろうか。
 なんの後悔も無く、世の中を去ることができるだろうか。
 両手の、手のひらを見つめる。
 なにも無い。
 わたしは、なにも持っていない。
 周囲の人たちを見てみるといい。
 オープンカフェで、お茶をしている人たちも。
 レストランに入ろうとしている人たちも。
 ただ道を歩いているだけの人ですら。
 みんな、楽しんでいる。
 充実している。
 満たされている。
 どんなに多くのファンを得ようと、どんなに動画の再生数が伸びようと、それは、AYAという偶像が生み出したもの。
 ファンの人にとっては、とても価値のあるもので、まばゆい輝きを放つのだろうけれど、綾子にとっては、虚構でしかない。
 だって、AYAという仮面を脱ぎ捨ててしまえば、綾子の手元には、なにも残らないのだから。
 自分を満たし、いやすための場所も無い。
 一人の友人もいなくて。
 綾子の遺志で始めたはずの、AYAという物語は、いつからか、綾子が自由に文章をつづることが許されなくなって、他人が勝手に物語を描き進めるようになってしまっていた。
(こわいよ……)
 独りだった。
 綾子は、独りだ。
 それが、こわくて、こわくて、こわくて……。
 こわいのに、どうしようも無かった。
 大勢のファンがいても、配信で多くの人を集めることができても。
 一人の友人も持っていない綾子という人間が、すごく劣った存在に思えてしまった。
(だめだなぁ、私)
 心を休めるために海に来たのに、かえって落ち込んでしまった。
 バッグの中から、メモ帳を取り出した。
 思いつくままに書きつづったフレーズがあった。
 それらは、綾子が……、公にはAYAが自分で作詞をしたものとして発表される。
 数か月後に行われる音楽ライブで、サプライズとして発表する予定になっている。
 しかもこのライブは、観客の目のまえで実際に綾子が歌う、オフラインイベントと呼ばれるもので、事務所として、初めての試みだった。
 そのため、みんな、気合を入れて計画を練っている。
 智子が、仕事に優先順位をつけてはどうかと忠告するのは、暗に、このことを指しているのだ。
 大型イベントのまえに、綾子がへばってしまったら、大きな迷惑がかかる。だから、いままで以上に気を遣っている。
 それは、わかる。
(でも……)
 綾子は、素人なりに頭をひねって絞り出したフレーズを、指でなぞった。
―――作詞がはかどっていなかったら、プロのアドバイスをもらってはどうかしら?―――
 悪戦苦闘している綾子に、智子は言った。
 智子は、あれこれと言い訳めいたことを言っていたけれど、つまり、おおまかな構想を綾子が決めて、それをプロの作詞家さんに、形にしてもらうというものだった。
 それで、アドバイスをもらったとか、指導していただいた、という表現をしておけば問題は無い。ということである。
(お仕事上、そういうことも必要なのかもしれないけれど)
 綾子は、まえにも増して忙しくなってきた。すべての仕事に、すべての力を注ぐことに限界はあるのは事実だ。
 今日、収録した動画は、近日中に投稿される。
 綾子が自分で作詞をした曲が、いずれリリースされるという動画だ。これが投稿されたら、もう、後戻りはできない。新曲は、必ず披露されなければならない。それも、AYAが作詞したものとして。
 もしも、歌詞作りが間に合わなければ、新曲の発表は遅れるし、いま、みんなが力を尽くしているオフラインイベントは、目玉であるサプライズを失う。
(だから、なんだっていうのよ)
 こぶしを握る。
 そのまま、鉄のフェンスに右手を叩きつけたくなった。
 綾子は、幼いころから本を読むのが好きだった。
 物語の世界を空想したり、プロの作家さんが描く、巧みな文章を鑑賞するのがたのしかった。
 でも、読書が趣味なだけの素人が、簡単に自分の想いを形にすることなんてできない。そんなことができたら、作家さんや脚本家さんは苦労なんてしていない。
 それに作詞は、想いをワンフレーズに詰め込まないといけないから、小説とは毛色が違う。
 まだ歌詞を作れていない綾子が、一番悪い。
 それでも、素人なりに綾子が歌詞を紡ぐことに価値があるし、貴重な経験値になるっていうのが、この企画の出発点だったはずだ。
(時間がかかるかもしれないから、余裕をもって作曲の外注をしようって、それも、みんなで決めたじゃない)
 智子だって、特別、締め切りを設定していなかった。
 それが、イベントが近づいてくると前言をひるがえすなんて、身勝手じゃないか。
 オフラインイベントと併せて、初めての作詞なのだから、もっと寛容なってくれてもいいのに、と綾子は思う。
 ズルとまでは言わないけれど、最初に、抜け道みたいな方法を選んでしまったら、今後に悪影響がおよぼすのではないかというのが、綾子の考えだった。時間がかかっても、生みの苦しみを味わうのは大事だと思う。
 だけど智子の催促は、イベントが近づくにつれて、頻度が多くなってきたし、圧も強くなってきたように感じる。
 責任者として、絶対にイベントを成功させようと意気込んでいるのだろうけれど、綾子の意志はどうでも良くて、AYAの媒体としての綾子だけがあればいい、と考えているのではないかと、邪推したくなる。
 フェンスに手を添わせながら、歩いた。
 智子に声をかけられたときも、こんなふうに、何気なく歩いているときだった。
 なにかしたい。この十七歳という体が持っている情熱を、発散させたい。
 でも、具体的になにがしたいのかわからないまま、ぶらぶら歩いていた。
 そこに智子は、彗星みたいに現れた。
 そして、綾子が欲しているものを与えてあげると言った。
 いま思い出せば、うさん臭い話ではあった。
 同性の女性ということで、気を許したこともあったし、綾子が、なにか行動をしたいという欲求に耐えられなくなっていたのが、大きな決め手になった。
 この人を信じよう。
 そう心から思える出会いが、人生のうちに、何回あるだろうか。
 海を眺めた。
 あんな出会いは、もう無いだろう。
 綾子はこのまま、AYAを宿すための媒体として、生きていくしかないのだ。
 海空に、一番星がまたたいていた。
 あれは、綾子だ。
 寄り添える相手も、寄り添ってくれる相手も無い。ひとりぼっちの、綾子。
 あの星はいつか、数多くの星たちに飲まれて、誰にも気づかれないままに、星の海に沈んでいく。
 ぽろり。
 涙がこぼれた。
 でも、ほうっておいた。
 綾子は独りだから。
 どうせ、誰も綾子になんか、気づいてくれないから。
 海から吹く冷たい風が、綾子の涙をさらっていった。