上書き保存は狡いから。

 大学の正門でそわそわしながら佇む。榊とご飯に行く約束をしているからだ。揺れる前髪の隙間がいつもよりも軽い。耳にかかる毛先がいつもは覆われていたはずの耳をあらわにする。落ち着かない。軽くなった毛束を指でつまむようにしていじる。
 榊からもらった服を着ようか家を出る直前まで悩んでいたが、新たに自分で買った服にした。先日の美容室のあとに何でもできる気になって榊と遊びに行った際に買ってもらった服屋へ入り、もう一着手に入れることができた。ワイシャツに全体的にマーブル模様の入ったどんなズボンにも合いそうなものにした。そして今日はそれを着てきたのだ。
 実は髪の毛を切ってから会うのが今日が初めてで、講義もバラバラなため今から榊がどんな反応をしてくれるのか楽しみと少しの不安がある。慣れないヘアアイロンでセットをし、気合いは十分だ。
 すると、遠くから小走りながらも爽やかな男がこちらにやってくる。俺のところへ来るのは1人しかいない。

「お待たせ!」

 思ったよりも走っていたようで、肩で呼吸をする榊に「大丈夫です」と告げると「行こっか」とあっさりとした態度で学校を出発する。
――あれ? 何もない……?
 髪型は誰が見たって明らかに変化している。親が飲んでいた水をこぼすほど驚いたというに気づかないはずがない。それに服だって、俺の家に2着しかない柄物の服のうちの1着。気合いを入れて期待した俺の惨めさは、榊が何の反応の示さない時間に比例していくように増加していく。
 榊との会話は右から左へ通り抜けていくうちに居酒屋に到着した。騒がしい店内には様々な料理の香りが混ざり合っている。
 案内されるがままに席に着くと榊が手際よく注文を済ませる。俺はお酒が飲めない年齢だと思われているのか、ノンアルコールのメニューしか見せてもらえなかった。家で1人飲みをするくらいにはお酒が好きな方だ。だが、年齢を明かしていない俺のせいだというのは分かっていたためソフトドリンクで我慢をした。
 アルコールを喉に流し込んだ榊は徐々に声が大きくなり、俺がお酒の飲めない年齢だと決めつけてお酒のアレコレを冗長に話す。そんな榊に痺れを切らした。
——俺だって榊と飲みたいのに……。
 案外俺は短期な性格なのかもしれない。

「先輩知ってますか? 俺は先輩と同い年ですよ!」
「同い年って浪人ってこと?」
「そうですよ」
「へー、なんでうちの大学なの?」
「……なんでだと、思いますか?」

 質問に対して意味深に答えたのだからそれ相応の答えを持っていると勘付いてほしいと心のどこかで思ってるのかもしれない。
 榊は考える仕草もせず、ただまっすぐに俺を見つめる。
 いつもだったら笑いながら「なんでだろう」と言ってくれるだろうに、真剣な目をされ戸惑いを隠せない俺は堪らず本音を隠そうとする。

「そ、そんな深く考えなくても……」
「俺がいるから?」

 突如、核心をついてくる回答に、うまく返事ができない。

「……え? えっと、その……」
「高校も同じでしょ」
「知ってたの……?」
「まぁ。さっきお酒のメニュー渡さなかったのにお酒飲める年齢だとか言われなかったから間違ってるかもって思ったけど、やっぱりそうだよね」

 全てが急展開で頭が追いつかない。
——榊がいるからこの大学に来たことがバレてる? 高校が同じなのも知っていた?
 あの(・・)2年前は気づいていなかったのに、いつ気づいたんだ?
 俺を気にする素振りも見せず榊はマイペースに話を続ける。

「ところで、俺が言ったこと考えてくれた?」
「榊……がしんどい思いするってやつ?」
「そ」
「わかんないよ」

 敬語も先輩とつけることも忘れ、口先だけで返事した。
——何も分からない。榊が何を考えているのか、何を思って今こんな話をしているのか。

「わかんないかー。キスもしたのに?」

 残念そうに一口、また一口とお酒を飲んでいく榊を止めることができない。
 俺はひたすらに考え、榊は黙ったままお酒を飲み続ける。
 キスをしたからなんだ? 意味はないんだろ?
 もちろん意味あってのキスが良かったけど、もし勘違いしてあの時告白してしまって振られてたら今がないと思うとゾッとする。
――わざわざ思い出させないでほしい……。この距離感じゃないと関係値が一気に変化してしまいそうだから。
 
「榊?」

 しばらく経った頃、榊の顔が茹蛸になっているのに気付き、声をかけた。こんなに感情をかき乱されているのにボーっと眠そうにしている榊を可愛いと思ってしまう自分が悔しい。

「起きて?」
「んー……」

 返事がままならない榊にこれ以上飲ませてはいけないと、店を後にする。
 横を上機嫌に鼻歌を歌いながら俺の名前を呼ぶ。


「藍弥ぁ」
「なんですか?」
「この髪誰かに触らせたの?」
「当たり前じゃん。どうやって切るんだ」

 逆に榊は誰に切っているのだと問いたくなる気持ちを抑える。相手を酔っ払い。何を言ってもまともな返事は返ってこないだろう。
 すると、俺がずっと欲しかった言葉をくれると共にそれ以上をもらうことになる。

「髪めっちゃよくなったねー」
「ちょっ……」

 俺の進行方向を塞ぐように向かい合うと、センターパートにしてきた前髪にわずかにかかる毛先を榊の細くゴツゴツとした指が掠った。
 肌に触れそうな指に心臓がうるさい。
 あと1センチの距離にいる榊に、息が詰まる。

「ねぇ、これ俺と同じじゃない?」
「あっ」
「もしかしてー、俺と同じにしたの? そんなわけないかー」

 勘がいいクセして、どうして自信ないような言い回しをしてるのか。勇気を振り絞って言う。

「そんなわけ、ある……」
「え?」

 1センチの距離が一気に0センチに縮まる。
——なんで……。

「キスばっかして……俺のことどう思ってるの……」
「藍弥こそ。ちゃんと抵抗しなよ」

 声のトーンを落として言われ、身体が固まる。
——抵抗なんてできるわけない。
 またすぐに上機嫌な榊に戻る。

「藍弥ー」

 猫撫で名前を呼ぶ声が、甘ったるい。何食わぬ顔で榊が俺に寄りかかって進み出す。

「おでこ出てるの新鮮だね」
「そうだね」

 自分より身長と体つきの良い男を支えることがこんなに大変だとは思わなかった。キスされたことを考えられるわけもなく呑気に話しかける榊には返事で精一杯だ。
 榊が次に放った言葉の途中しか聞こえなかった一言に目を見開く。

「……ダサいな……」

 頭上に石を落とされたような衝撃。身体が一気に鉛のように重くなる。支えていた手を離しそうになった。
——ダサいか……。そう、だよな。
 榊と同じ大学に入って、榊と同じ髪型で、榊の好きな服屋の服を着る。
 同じことをしても、俺は俺なのに……それなのに——自分がなくなっていくみたいだ。

「お疲れさまです……」

 ここまでくれば大丈夫と俺が勝手に判断した道の真ん中で榊を支える手を離して逃げるように帰路につく。
 星が散りばめられた夜空を見上げると、桜が落ちた木の葉が寂しそうに木々を揺らした。

 次の日のサークルの扉はひどく重かった。

「藍弥ーー! 昨日はごめんな?」
「大丈夫ですよ」

 何事もなかったかのように振る舞う榊に苛立ちを覚え、それからサークルへは行かなくなった。
 元々、偶然会うと言うことはほとんどない俺たちにとって、サークルが唯一話せる場所だったのだ。それを分かっていたから、行くのをやめた。

 それから数週間が過ぎた。榊と話さないことにも慣れ、またちょっと前の日常が戻ってきた。髪型も服も全部”昔の俺”に元通りにした。
——恋って、周りを見えなくするって本当だったんだな。
 講義が終わり教室を出た時だった。

「藍弥、なんでサークル来ないの?」
「課題とかで忙しいかったので」

 いつもの俺になれたことで、不思議と冷静に対応できる。もちろん嘘を交えてだ。今の心にぽっかりと空いた穴を埋めるには嘘をついて、偽物で埋めるしかなかった。

「そう。俺ずっと待ってたんだけど」
「なんでですか? ボドゲなら他の人ともできますよ」
「……敬語に戻ってる」
「答えになってないです」
「思い出したんだよ。タメ口で話してくれてちょっと近づけたみたいで嬉しかったから戻さなくていいって」
「何、それ……」

――それだけ?
 感情的になってはいけない。いや、この後に及んで感情を外に出すことができなかった。そんな俺に追い討ちをかけられる。

「藍弥、髪の毛戻しちゃったの? あのセット……似合ってたのに」

——似合ってた? 1ミリたりとも思ってもないクセに、うるさいな。

「誰のせいで……」
「え?」
「先輩が言ったんです。ダサいって……!」

 顔なんて見れない。お酒が入った時に本心を言うタイプなのだとしたら、あの時の言葉が本心なはずだ。
——浮かれてたんだなぁ……。

 葉桜になった並木道を進む。こんなときは自然と白瀬珈琲の前まできてしまう。扉を開けば、珈琲の香りが出迎えてくれた。店内を見渡して、レジに注文をしに行く。注文を受けてくれたのは、楓斗だった。

「なんか、テンション低くね⁇」
「そんなことない」
「忙しい時間もうすぐで終わるから、待っててよ」

 「何もないよ」と言っても、楓斗はすぐに仕事を終え向かいに座った。

「で? 何があったの?」
「楓斗に言えるようなことじゃないよ」
「いつまでも子供扱いしないで」

 若干怒りが含まれている言い方に、目を丸くする。
 
「子供扱いしてるわけじゃないよ。ただ、俺も分からないから」
「そーゆー時は、人に打ち明けるのもひとつの手だって姉ちゃんが言ってた!」
「あぁ、美容師のお姉さんね」
「なんで知ってるの⁉︎」

 俺は美容室での出来事やサークルでの出来事を吐露した。
 好きな人の話も全てだ。

「藍弥はその先輩とどうなりたいの?」
「もうどうでもいい?」
「いや……でも今は話せる気がしない」
「じゃあ気が済むまで避ければいいじゃん! そんで焦らせちゃえ!」
「向こうは焦らないよ。俺なんて大多数の知り合いのうちの1人だから」

 「どうだか」と、返事する楓斗の言った通り少し心が軽くなった気がした。