上書き保存は狡いから。

 高校生のときの部活は、ゲーム部だった。正直楽しくはなかった。けど、特別嫌なわけでもなかった。
 よくある部活動とは言い切れない部活に入部する人は、珍しさから興味を持つ人と寝ても覚めてもゲームが好きな人にハッキリと分かれていた。俺が入部したのは、そのどちらでもでもなかった。
 理由はボードゲームが好きだったからだ。
 蓋を開けてみれば、黙々とスマホゲームをやっているか数人でテレビゲームやスマホゲームを遊んでいるかだった。ボードゲームがやりたかった俺は輪に入ることに完全に出遅れ、話しかける勇気もなく結局前者の仲間入りをしている。つまるところ、うちの高校のゲーム部はテレビゲームやスマホゲームだけだったらしい。
——みんなでボードゲーム、できると思ったんだけどな。
 2年生に進級した初めに、席の近くの人とグループを作り自己紹介をするというものがあった。真っ黒の重い前髪で目をしっかり隠し、1人も名前を知らないどころか俺以外は仲良さそうに話している疎外感しかない空間を耐える。そこでは名前はもちろん、部活動の話をしていた。
 必然的に俺の番が来た時、運動部ばかりのグループでゲーム部であると発言する。

「へー、ゲーム?」

 1人が放った興味なさそうな口ぶりに、やはり陽キャとは生きる世界が違いすぎると痛感した。早くこのグループ解散しないかな、と思考を巡らせながら息苦しい空間を耐える。
 周りは俺を気遣い、「何のゲームが好きなの? モンドラとか?」と声をかけてくれるが、最近人気のスマホゲームを例に出されボードゲームが好きとは言える空気ではなく言葉に詰まる。
 仲良くするという選択肢がなかった俺はこの場をこれ以上、白けさせても失うものもないと判断して無愛想に言葉を放った。

「ボドゲとか」

 わざとボドゲと略した。興味など持たないだろうという先入観だった。
——わからないだろうし、分られなくてもいいや。
 すると、その中にいた一番派手と言っても過言ではない人が首を傾げる。

「ボドゲってボードゲーム?」

 驚きのあまり背筋が伸びる。そして普段は合わせられない視線を前髪の微量な隙間から合わせ「うん」と首だけで頷くと、頬杖をついた彼は口を開けて笑った。

「いいよね。みんなで1つのゲーム囲って面と向かい合って遊べるから」

 俺の心が揺れるのを感じる。すごろくのコマがバランスを崩しながらひとつ進むみたいに不安定に揺れた。
——なんだ?
 机の下で握った手のひらが熱い。本当は言うのが怖かったせいで背中が冷や汗で冷たい。それなのに、心は温かい。


「ボードゲームかー、小さい頃やったわー。人生辿るやつとかね」
「あったねぇ。陣取りゲームみたいなのも好きだったなー」

 各々が思い出話をする。こんなに盛り上がると思わなかったと、自分の最低な先入観に反省した。それとは別に、きっかけを作ってくれた彼の放った言葉が、俺がボードゲームを好きな理由と完全に一致していて初めて同じ仲間を見つけられた気がして嬉しかった。
 嬉しかったどころではない。その後の学校生活で、気づけば彼のことを目で追った。授業中も体育の時間も。しかし俺に話しかける勇気はなく、2年生の間はこれと言って話せず時が過ぎて3年生に上がった。
 俺は意を決してゲーム部の皆にボドゲをしようと提案した。ところが誰も反応を示してくれず空気のように扱われてしまった。
 言葉はないのに、俺のことを知らないと言わんばかりの態度が棘のように刺さって痛い。
——彼の言葉を聞きたい。
 『いいよね』そう言った優しい声が耳に残って離れない。声だけで笑顔だということが分かる彼の抑揚のある話し方で刺さって抜けない棘を散り散りにしてほしい。
 そういえば自己紹介のとき彼はテニス部だと言っていた。3年生では別のクラスになってしまった1年経った今でも忘れるわけがない。
 名前は——榊優光。
 ゲーム部の教室を後にして、自然と足が向かった先はテニスコートだ。テニスコート3面分をフェンスで囲まれている。男女が同じコートを使用している中に榊を見つける。真剣な眼差しでテニスをしていると思ったら、休憩時間には笑顔で部員と話し始める。絵に描いたような青春を目の当たりにして住む世界が違うと直感的に思う。踵を返そうとした足が砂利の音をさせた時だった。

「藍弥?」

 同じ高校に通う誰からも下の名前で呼ばれたことはない。背後から耳にした優しくて温かい気持ちになれる声には聞き覚えがあった。
——さっきまで遠くにいたのに、近くに声を感じる。それになんで下の名前?
 頭の中では『陽キャの距離感 とは』『陽キャ 下の名前で呼んでくる』などと俺の中で答えを持ち合わせていないことは今すぐ検索したいという思いでいっぱいだった。
 足を戻し、テニスコートのフェンスと向かい合った。
 そこにはジャージ姿でテニスラケットを肩にかけた榊の姿があった。

「榊……くん」

 小さく口に出した名前。たった1人の名前を声にしただけで背中から暑さが滲む。名前の響きに応えるように、心臓の音が大きく鳴った。

「下の名前で呼んでいいのに」

 フェンス越しの笑顔は、夕方の沈む太陽に照らされ一層暖かさを纏っている。
——下の名前でなんて呼べるわけ……
 普段だったら呼べるわけないと断言する。人と話すことで精一杯なんだ。でも時よりどこから発揮されるのかわからない積極性が突然やってきて、後で後悔するまでがセット。自分の性格は痛いほど理解しているのに、榊の前ではなぜか通用しなかった。

「優光」

 満足したような屈託のない笑顔に心臓が壊れそうだと警告音を鳴らしても、視線が離すことができない。名前を呼ばれただけで先ほどまでのゲーム部の出来事がどうでも良くなるくらいには目の前の榊のことしか考えられない。
——本当に棘がなくなるなんて聞いてないって……。
 それが榊に恋をしたと自覚した瞬間だった。

 


 カーテンの隙間から覗き込む日差しに起こされる。
 懐かしい夢を見た。数年前の出来事。どう考えても榊に会ったせいだ。積極性に促されて名前を呼んだことは後悔しなかった。最初で最後だったからだ。というのも、人前で優光とは呼べず心の中で呼んでいてもふとした時に優光と呼びそうで苗字に戻した。と言っても、テニスコートで言葉を交わして以降話す機会はなく卒業したからだ。

 榊と話せた良いことと榊に好きな人がいたという悪いことを行き来した昨日のせいで俺の貧弱な体力は消え去り、重たい足取りでキッチンに向かった。
 「あんたこの時間まで寝てたの?」と呆れる母を無視して、腰を曲げて冷蔵庫の中を物色する。しかし、大きな鍋が冷蔵庫を陣取っていただけだった。鍋を蓋をつけたまま取り出し、中身を確認しようとする。間髪入れずに、母の怒声が飛んできた。

「それ食べないで! 夕飯だから‼︎」

 蓋を開けずとも、ほのかに漂うスパイシーな香りでカレーだと理解できた。
 仕方なくパジャマからジャージに着替えコンビニに向かった。
 家から徒歩5分のコンビニに入店する。するとスマホがバイブした。滅多に鳴らないスマホに少し期待を寄せてしまう。昨日、榊と連絡先を交換していたのだ。高校のときでさえ交換していなかったのに、榊から連絡先の交換を申し出られたため断る理由はなかった。
——まさか榊から?
 話すこともないはずだと、そんなわけないと分かっていながらも立ち止まって通知欄を見る。
 
『榊優光からメッセージが来ています』

 そのまさかだった。動揺して電源ボタンを押し、真っ暗な画面にしてしまう。そこに映った俺の顔は、とてもじゃないが人に見せられないほど、頬の筋肉が緩みきっている。
 適当に弁当を1つ手に取り、レジの会計は1秒でも早く退店できるように電子マネーで済ませた。
 一方で、気軽に連絡をよこしているであろう榊に人の気も知らないでと、不貞腐れた。それでも、圧倒的に嬉しさが勝るのは当たり前だ。
 店を出ればメッセージアプリに一直線。
 何の連絡か検討もつかないままスマホの画面を滑らせた指は、メッセージアプリを開く読み込む時間さえもどかしそうにスマホの空を動き回っている。

『響がいつサークル来れる? ってうるさい』

 たった一言だけ。しかも、他の男の名が入ったメッセージ。
 期待との落差に少しイタズラするつもりで返信する。

『先輩が来るならいつでも行きます』

 既読はすぐに付いた。

『俺ボドゲサークルじゃないってw』
『じゃあ行かないです』
『えぇ…響がまた古賀くんと話したいって言ってるんだよー』

 また”響”だ。それに”古賀くん”ね。
 
『先輩が1分でもいれば行きますよ』

 条件を変更してイタズラしてみる。俺にとって榊がいなければ、賑やかすぎるサークルに行く意味はないも同然だった。

『そんなことでいいのか⁇』

——そんなことって……。
 こっちにとっては重大事項だ。もっと過度な要求をしていいのか? 榊の危機感のなさにため息つきながらキーボードの上を指が踊る。

『一緒に遊ぶのも追加で』

 メッセージアプリだとやけに積極的になれる自分に衝撃を受ける。

『いいね、遊ぼうww』

「は……?」

 誘っておいて、了承されるだなんて思っていなかった返事にドキっとする。しかし榊にとって遊ぶというのは大勢の友達のうちの1人であり俺はただの後輩でしかないのだとすぐに、冷静を取り戻した。弁当の袋を握り直したときの重量感に、適当に取った弁当の正体をようやく知る。

「カレー買ってきちゃった……」

 昨日の昼と今日の夜もカレーなのに、また手にはカレーの入った袋を持って家へ急ぐ。次の大学の登校日が楽しみになり、足取りは軽かった。