線路沿いの桜並木は色づく。次の駅へ停車するために減速した電車の中から桜を眺める。大学のサークルの帰り道、きっと今日も好きな人は来ていなかった。あと1年後この桜を見るとき、彼が隣にいなかったらその時はこの恋は諦めよう。
幾度となく通ってきた改札に定期をかざす。学生定期であることを証明する印字に『コガランヤ』という名前までご丁寧にフルネームである。俺はその横にある年齢である22という数字が後ろめたく感じる。今年22の誕生日を迎える俺は、この春大学2年生になった。
高校生のとき俺を助けてくれた同級生に恋をして、2年前大学受験をやり直してまで同じ大学に進んだ。2年離れてしまった学年の差は大きい。
最寄り駅からは徒歩で移動する。顎のラインにまで伸ばされた金髪は、無造作に揺れ動く。木の枝が旋毛に当たるのを感じ、少しムッとした。
定期と財布以外入っていないトートバッグをあたかも疲労困憊したかのように持ち直すと、最寄駅を出発した。行きつけのあの場所が近づくにつれて、腹の虫がうるさくなる。
「お腹空いたな」
ほのかに香る桜の香りが、コーヒーの香りに書き換えられる。
突如現れる煉瓦造りの建物には、力強い毛筆で『白瀬珈琲』と書かれている。開け慣れたアンティークな引き戸を軽快に開ける。左右どこを見ても同じくアンティークの家具と雑貨で埋められた店内はコーヒーの香りがより一層、鼻を抜ける。このコーヒーの香りが、パーカーに染み込んで、家にまで持ち帰ることはよくあった。
一歩踏み出すなり正面のレジカウンターに直行する。レジカウンターで注文と先払いをするシステムだからだ。
「野菜カレーとコーヒーお願いします」
メニュー表をノールックで注文する。
「いつもありがとうね」と、言いながらレジを軽快に打つマスターの手が止まる。
「今日は特等席取られちゃってるよー……」
「そう……ですか」
申し訳なさそうにするマスターの言う『特等席』とは、お店の一番端のソファだ。ベロア生地の1人用の大きさのソファが机を挟むようにして一つずつ置かれている。ここがお気に入りなのは、大きな鉢植えの陰になっていて、この席だけ隔離されているように感じれるからだ。そこで飲むブラックコーヒーは、誰の視線も感じず心地がいい。
――さて、どこに座ろうか。
特等席以外はどこに座っても広い店内を見渡せる。滅多に取られることのない『特等席』がないことで行き場を失う。
平日でもお昼時ということもあり、店内はおばあちゃんの井戸端会議や女子会、お昼休みのサラリーマンなど老若男女で賑わっていた。どこに居ても開放感があり、足がすくむ。
「藍弥! 春休みなのに大学?」
明るくテンションの高い声にびくりとする。振り返ると、175cmを超える身長を持つ俺と視線の位置が合う黒いエプロンを身に着けた男の子が笑顔で近づいて来ていた。よく知った顔に強張った肩の緊張が解ける。
「なんだ、楓斗か……」
楓斗というのは白瀬珈琲の息子だ。まだ高校生でありながら、学校のない時間は店の手伝いをしている。俺がここに通い始めた5年前から時々店に顔を出していたため、その時からの腐れ縁だ。
「なんだってなに‼︎」
わかりやすく口を膨らませる楓斗はそれでいて、明るかった。
楓斗と対照的なテンションで答える。
「別に。サークル顔出しただけだよ」
ふいと、つい目を逸らす。
サークルという言葉に華々しいキャンパスライフとやらを想像したのか「僕も早く大学生になりたいなぁ」と、噛み締めながら店の手伝いに戻って行った。
深く聞かれずにホッと胸を撫で下ろす。サークルに顔出しただなんて格好つけたが、本当はサークル室の前でドアに手をかけただけで、室内から豪快に聞こえた男女の笑い声に引き返した。せっかく2時間かけて行った大学も滞在時間は僅か5分。
サークルメンバーに挨拶もできない俺が所属しているサークルはボードゲームサークル。名前の通りボードゲームで遊ぶのだが、なんとこれが所謂陽キャラたちの集まりだった。お世辞にも明るいとは言えない俺でも明るい性格の楓斗と話していたお陰で初めの頃はメンバーとなんとか話せたものの、徐々に疲れてきてしまった。最後にサークルに顔を出せたのは何ヶ月も前だ。
陽キャラの多いこのサークルにわざわざ入った理由は、好きな人がいたからだ。とは言っても友人のほぼいない俺の情報源は聞き耳を立てて得た盗み聞きか噂だ。確証のない情報で入部したものの、結局その姿がないと知った時はひどく落胆したものだ。
しかしサークルメンバーではないものの時々参加していることがあると誰かが言っていたが、俺は大体入れ違いになっているらしく2年生になった今でも会えたことはない。
嫌なことを思い出してしまった反動で先客の顔を少しでも見てやろうと、角のソファを見に行く。
「えっ?」
思わず声が出る。
綺麗にセンター分けされ根元にボリュームを持たせた黒髪。くるくると遊ばれている毛先は耳の方に流されている。髪の毛から覗く目鼻立ちのはっきりとした横顔が彫刻のように美しい。
大学でもほとんど会ったことがないのにこんな大学から離れた場所で会うと思わなかった。彼に”好き”と言いたくて追いかけてわざわざ大学を受け直した。そのはずなのに、いざ目の前にすると本心は素直になれないらしい。
ハンターが獲物の気配に気づいたかのように、上目遣いをしてくる。この場から逃げようと思ったのに一歩遅かった。
合ってしまった目の瞬きが無意識に増える。彼の口が動く。
「……古賀くん?」
「あ、え? はい」
知っていたという衝撃から挙動不審になり、するつもりのなかった返事までしてしまう。言葉を交わしたのが久しぶりでじんわりと汗をかく手のひらを隠すように踵を返す。
「待って! 俺同じ大学なんだけど……!」
背中を向けていてもわかる子犬のような必死な声。整った顔から発せられるその姿が見たいという好奇心に負け振り返ってしまった。それでも顔をあげれないまま不自然にならない程度に返事をする。
「知ってます。榊……優光先輩ですよね?」
「知ってたの⁉︎」
それはこちらの台詞だと言い返したくなる。大学でもそうじゃなくても目立たない俺に知られていたって嬉しくもなんともないはずだ。それなのに、驚きの中に嬉しさを交えたように声のトーンを上げて言う榊に、心がくすぐられる。
嬉しくなったのも束の間、好きな人の前にいるという事実が徐々に俺を混乱させ、この場を離れようとした。
「これで俺は失礼しま……」
「あのー席はどちらにされますか?」
「あっ……」
楓斗ではなく、女性の店員さんが持つお盆に乗せられたカレーと珈琲の水面が揺れる。香ばしく香るカレーと珈琲が、お腹を空いていたことを思い出させた。
榊に気を取られていたおかげで、店内の席はほとんど埋まり4人席のテーブルが1つ空いているだけになっていた。4人席に1人で座る勇気はなく戸惑う。
「えーと……」
「ここに置いていいですよ!」
にこやかに対応する榊が流れるように目の前に座るように促す。笑顔という名の圧に負け渋々、榊の正面に腰掛けた。拗らした恋の矢を放つ的の榊を間近で見れるほど狂人な心臓は持ち合わせていない。
シルバーのスプーンを握るも人前でご飯を食べる気持ちになれず結局空いたお腹は、また満腹状態になってしまった。
ため息1つし、榊の方を見る。
「やっと顔上げてくれた」
「あ、いや……」
榊がいるから食べれないなんて言えるはずもなく、また目を伏せてしまう。膝の上で握りしめる拳を力強く握りすぎて爪が食い込んでいる感覚はあっても緩めることはできない。
「…ゆ……先輩は、なんで俺のこと知ってるんですか?」
「ボドゲサークルに赤髪に青メッシュ入ってる響っているだろ? そいつ俺の友達なんだよ」
あぁ。あの人かと、頭の中に思い浮かべる。誰だか分かったと言う反応をする俺に、榊は続けた。
「響が後輩にめっちゃボドゲ詳しい人入ってきたって喜んでたんだよね。それが古賀くんってわけ」
「そう……なんですね」
今日、帰ったことが後ろめたくなった。と同時に、やっぱり覚えていないんだと気持ちが落ち込む。
手付かずのカレーを食べる気にはなれなかった。
ボードゲームをボドゲと略しながら得意げに話す榊の手元を見ると、昼時だと言うのに食事をした形跡はなく、それどころか珈琲も進んでいなかった。
「先輩、お昼食べてないんですか?」
珈琲の水面が揺らぐ。
「あー、うん。なんか食欲湧かなくて」
ここで「なんで?」と聞いて仕舞えば、関わるきっかけになれるだろう。でも聞くことを不快に思われたらどうすればよいのだろうか。好奇心と恐怖が喧嘩する。しかし知りたいという欲に勝てなかった。
「どうして……ですか?」
「え? んーー」
気まずそうに顔にかかる髪を耳にかける先輩がやけに色っぽく見えて勝手に気まずくなる。
「あ、別に言いたくないならそれでいいですしっ。ただ、いつも笑って人に囲まれてる先輩が食欲なくすようなことあるのかなーなんて思っただけですし。もしかして、体調悪いのかななんて……思ったりもしただけですしっ……」
心配に混じって失礼なことを口走る。
そんなことを気にする素振りは見せず、根負けしたかのように笑う。
「言いたくないというか、こんなかわいい後輩に知られたら恥ずかしいなって思ってただけだよ。体調も悪くない、ありがとね」
——かわいいとか、思っているわけない……。
目つきの悪いと言われてきた細く切長の目はうっすらと二重になっている。それを隠すように伸ばされた前髪と耳の半分まである髪。筋肉のない高身長はしらたきだの爪楊枝だの、好き放題言われてきた。
これでも少しは、筋肉がついてきた方だ。反骨心で大学入学と同時に染めたことでブリーチを繰り返されて傷んでいる。これを決してかわいいとかは思わないだろう。
「いえ……それなら別にいいんです。ここで倒れられても支える自信ないですし……」
微笑する榊に「わ、笑わないでください。本当に無理ですから」と、付け加える。榊よりも身長は低く服の上からでもわかるほど筋肉質な榊を支えられるわけがない。
一拍置くと、榊がゆっくりと話し出した。
「振られたんだ」
「……榊先輩が?」
「振られないと思ってた?」
「まぁ」
榊を振るなんてどんな美女なのだろうか。想像もつかないし、想像をしたくもない。
すると、榊の口から思いも寄らない言葉が吐き出される。
「その子、高校生なんだよね」
「え……それは……」
「告白はしてない。さすがに怖いしね」
「じゃあなんで振られたんですか」
「好きな人がいるんだって」
——年下が好きなのかな。
微かな脈を感じることも許されないこの虚しい感情をどこに投げ入れればいいだろうか。
俺は後輩だけど……年下ではないから。
その後は、自分も何を言っているのかわからないくらいむしゃくしゃしながら会話を続けた。早くこんな時間が終わればいいのに。早くここから逃げ出したいと。
「それだったら、まだ可能性あるじゃないですか」
「あっはは。高校生相手に恋愛してる人の背中押しちゃダメでしょ」
「でも、その子が卒業したり成人できれば……」
なんで背中押すような真似なんてしてるんだろう。
榊は即答した。
「ないよ」
「え?」
「俺のこと好きだったって過去形で言われちゃって、もう気持ち変わらないか聞いたら変わらないってさ」
「何それ。自分勝手すぎるでしょ……」
「怒ってる?」
「別に。本当に自分勝手だなって思っただけです」
「いいんだよ、なんとなくわかってたし。好きだったっていう事実で少し浮かれた自分には呆れたけどね」
上手く返事ができないでいると、榊は明るい声を出す。
「はい! この話は終わり!」
「はぁぁ。なんかお腹空いてきたかも。そのカレー1口ちょうだい?」
「自分で買ってきてくださいよ」
好きな人がいたという事実に沈んだのに、親鳥を待つ小鳥のように口を大きく開ける榊が心を許してくれているようで浮かれてしまった。そんな自分に呆れる。
カレーを榊の口に流し込むと、おいしいと言いながらもう一口を要求するため、渋い顔をしながら内心踊る心に抗えなかった。
結局、半分以上榊に取られたカレーを食べ終え一緒に店を後にした。
「懐かしいな、高校この駅だったんだよ」
「そう、ですか」
お腹を満足そうにさすりながら、歩く榊が辺りを見渡しながら言う。
懐かしいと言う榊の言葉に少し期待した自分が情けない。
「古賀くんて、この辺りに住んでるの?」
「はい」
「大学から遠くね?」
「実家から通うためです」
「……一人暮らしよりも通った方が節約できるので」
「先輩こそ、こんな田舎まで何しに来たんですか?」
「あー……」
また先輩がバツが悪そうにする。歯切れ悪く話し始めた。
「今日なんか呼び出されて……」
「こんなところに呼び出すとか余計意味わからないんですけど」
地元は好きだが、わざわざ観光に来るような場所なのか疑問に思うほどには田舎だ。ビルという言葉を使う場面もなく、開けた土地。「良いところじゃん」と苦笑する榊に「で、なんでですか?」と、話を戻す。
「俺の好きな人と俺が両思いだと勘違いしてた子がいて、俺のこと呼び出して2人きりにしてくれたんだよね」
つまり、ついさっき告白されて振られたってことか。恐怖と嫉妬。それとチャンス。もし、恋人同士になっていたら、俺の間の前にはいないはずの俺の好きな人。
「……どこで告白したんですか」
「え? 駅の反対にある藤の木の下だよ」
「あー、あそこか」
思わず出たタメ口は朔風に吹かれて消えていった。舞い落ちる桜のカーテンをかき分けるように構わず進む。
「なになになに⁉︎」
有無を言わせない行動に戸惑いを隠せない榊だが、抵抗することなく早足でついてきた。
ひらひらとワイシャツの裾が揺れる。
駅の反対側だと榊の言う通り、踏切を渡る。
藤の木があるそこは、1畳ほどの休憩所になっていて2人掛けのベンチが木陰にポツンとあるだけだ。別世界のようにも見えるライラック色が鮮やかに咲き誇っていた。
「何て言われたんでしたっけ」
「俺のこと好きだったって……」
「先輩のこと好きでした」
「は⁇⁇」
素っ頓狂な声を出して驚く榊を跳ね除けて話を続ける。
「次が?」
「え? えっと、もう変わんないかって俺が言ったけど……」
「変わるよ」
「ん⁇⁇ どう言うこと?」
「きっと変わりますよ」
「ん⁉︎」
「……記憶を上書きしたいだけです。田舎だけど良い場所だから、振られた場所になってもう来なくなるとか、寂しいじゃないですか」
半分本音で半分建前。
「あ! 何? 慰めてくれてんの⁇」
慰めじゃなくて、ただの嫉妬だと、言葉を呑み込む。ここでせっかく話せた榊との関係を終わらせたくない。じんわりと、胸の奥から一緒にいたいという欲が湧くも、それが上がってくるほど情熱的にはなれないらしい。
「そうですよ。いつまでも辛気臭い顔してるから」
ここで「俺じゃ代わりになりませんか?」と聞けない自分の勇気のなさに呆れため息混じりに言った。
「ありがと」
榊が誰かと付き合って仕舞えば諦められる。だから、好きな人と付き合えるように背中を押すなんて自分の首を絞める真似をしたんだ。
でも、諦めたくない。
幾度となく通ってきた改札に定期をかざす。学生定期であることを証明する印字に『コガランヤ』という名前までご丁寧にフルネームである。俺はその横にある年齢である22という数字が後ろめたく感じる。今年22の誕生日を迎える俺は、この春大学2年生になった。
高校生のとき俺を助けてくれた同級生に恋をして、2年前大学受験をやり直してまで同じ大学に進んだ。2年離れてしまった学年の差は大きい。
最寄り駅からは徒歩で移動する。顎のラインにまで伸ばされた金髪は、無造作に揺れ動く。木の枝が旋毛に当たるのを感じ、少しムッとした。
定期と財布以外入っていないトートバッグをあたかも疲労困憊したかのように持ち直すと、最寄駅を出発した。行きつけのあの場所が近づくにつれて、腹の虫がうるさくなる。
「お腹空いたな」
ほのかに香る桜の香りが、コーヒーの香りに書き換えられる。
突如現れる煉瓦造りの建物には、力強い毛筆で『白瀬珈琲』と書かれている。開け慣れたアンティークな引き戸を軽快に開ける。左右どこを見ても同じくアンティークの家具と雑貨で埋められた店内はコーヒーの香りがより一層、鼻を抜ける。このコーヒーの香りが、パーカーに染み込んで、家にまで持ち帰ることはよくあった。
一歩踏み出すなり正面のレジカウンターに直行する。レジカウンターで注文と先払いをするシステムだからだ。
「野菜カレーとコーヒーお願いします」
メニュー表をノールックで注文する。
「いつもありがとうね」と、言いながらレジを軽快に打つマスターの手が止まる。
「今日は特等席取られちゃってるよー……」
「そう……ですか」
申し訳なさそうにするマスターの言う『特等席』とは、お店の一番端のソファだ。ベロア生地の1人用の大きさのソファが机を挟むようにして一つずつ置かれている。ここがお気に入りなのは、大きな鉢植えの陰になっていて、この席だけ隔離されているように感じれるからだ。そこで飲むブラックコーヒーは、誰の視線も感じず心地がいい。
――さて、どこに座ろうか。
特等席以外はどこに座っても広い店内を見渡せる。滅多に取られることのない『特等席』がないことで行き場を失う。
平日でもお昼時ということもあり、店内はおばあちゃんの井戸端会議や女子会、お昼休みのサラリーマンなど老若男女で賑わっていた。どこに居ても開放感があり、足がすくむ。
「藍弥! 春休みなのに大学?」
明るくテンションの高い声にびくりとする。振り返ると、175cmを超える身長を持つ俺と視線の位置が合う黒いエプロンを身に着けた男の子が笑顔で近づいて来ていた。よく知った顔に強張った肩の緊張が解ける。
「なんだ、楓斗か……」
楓斗というのは白瀬珈琲の息子だ。まだ高校生でありながら、学校のない時間は店の手伝いをしている。俺がここに通い始めた5年前から時々店に顔を出していたため、その時からの腐れ縁だ。
「なんだってなに‼︎」
わかりやすく口を膨らませる楓斗はそれでいて、明るかった。
楓斗と対照的なテンションで答える。
「別に。サークル顔出しただけだよ」
ふいと、つい目を逸らす。
サークルという言葉に華々しいキャンパスライフとやらを想像したのか「僕も早く大学生になりたいなぁ」と、噛み締めながら店の手伝いに戻って行った。
深く聞かれずにホッと胸を撫で下ろす。サークルに顔出しただなんて格好つけたが、本当はサークル室の前でドアに手をかけただけで、室内から豪快に聞こえた男女の笑い声に引き返した。せっかく2時間かけて行った大学も滞在時間は僅か5分。
サークルメンバーに挨拶もできない俺が所属しているサークルはボードゲームサークル。名前の通りボードゲームで遊ぶのだが、なんとこれが所謂陽キャラたちの集まりだった。お世辞にも明るいとは言えない俺でも明るい性格の楓斗と話していたお陰で初めの頃はメンバーとなんとか話せたものの、徐々に疲れてきてしまった。最後にサークルに顔を出せたのは何ヶ月も前だ。
陽キャラの多いこのサークルにわざわざ入った理由は、好きな人がいたからだ。とは言っても友人のほぼいない俺の情報源は聞き耳を立てて得た盗み聞きか噂だ。確証のない情報で入部したものの、結局その姿がないと知った時はひどく落胆したものだ。
しかしサークルメンバーではないものの時々参加していることがあると誰かが言っていたが、俺は大体入れ違いになっているらしく2年生になった今でも会えたことはない。
嫌なことを思い出してしまった反動で先客の顔を少しでも見てやろうと、角のソファを見に行く。
「えっ?」
思わず声が出る。
綺麗にセンター分けされ根元にボリュームを持たせた黒髪。くるくると遊ばれている毛先は耳の方に流されている。髪の毛から覗く目鼻立ちのはっきりとした横顔が彫刻のように美しい。
大学でもほとんど会ったことがないのにこんな大学から離れた場所で会うと思わなかった。彼に”好き”と言いたくて追いかけてわざわざ大学を受け直した。そのはずなのに、いざ目の前にすると本心は素直になれないらしい。
ハンターが獲物の気配に気づいたかのように、上目遣いをしてくる。この場から逃げようと思ったのに一歩遅かった。
合ってしまった目の瞬きが無意識に増える。彼の口が動く。
「……古賀くん?」
「あ、え? はい」
知っていたという衝撃から挙動不審になり、するつもりのなかった返事までしてしまう。言葉を交わしたのが久しぶりでじんわりと汗をかく手のひらを隠すように踵を返す。
「待って! 俺同じ大学なんだけど……!」
背中を向けていてもわかる子犬のような必死な声。整った顔から発せられるその姿が見たいという好奇心に負け振り返ってしまった。それでも顔をあげれないまま不自然にならない程度に返事をする。
「知ってます。榊……優光先輩ですよね?」
「知ってたの⁉︎」
それはこちらの台詞だと言い返したくなる。大学でもそうじゃなくても目立たない俺に知られていたって嬉しくもなんともないはずだ。それなのに、驚きの中に嬉しさを交えたように声のトーンを上げて言う榊に、心がくすぐられる。
嬉しくなったのも束の間、好きな人の前にいるという事実が徐々に俺を混乱させ、この場を離れようとした。
「これで俺は失礼しま……」
「あのー席はどちらにされますか?」
「あっ……」
楓斗ではなく、女性の店員さんが持つお盆に乗せられたカレーと珈琲の水面が揺れる。香ばしく香るカレーと珈琲が、お腹を空いていたことを思い出させた。
榊に気を取られていたおかげで、店内の席はほとんど埋まり4人席のテーブルが1つ空いているだけになっていた。4人席に1人で座る勇気はなく戸惑う。
「えーと……」
「ここに置いていいですよ!」
にこやかに対応する榊が流れるように目の前に座るように促す。笑顔という名の圧に負け渋々、榊の正面に腰掛けた。拗らした恋の矢を放つ的の榊を間近で見れるほど狂人な心臓は持ち合わせていない。
シルバーのスプーンを握るも人前でご飯を食べる気持ちになれず結局空いたお腹は、また満腹状態になってしまった。
ため息1つし、榊の方を見る。
「やっと顔上げてくれた」
「あ、いや……」
榊がいるから食べれないなんて言えるはずもなく、また目を伏せてしまう。膝の上で握りしめる拳を力強く握りすぎて爪が食い込んでいる感覚はあっても緩めることはできない。
「…ゆ……先輩は、なんで俺のこと知ってるんですか?」
「ボドゲサークルに赤髪に青メッシュ入ってる響っているだろ? そいつ俺の友達なんだよ」
あぁ。あの人かと、頭の中に思い浮かべる。誰だか分かったと言う反応をする俺に、榊は続けた。
「響が後輩にめっちゃボドゲ詳しい人入ってきたって喜んでたんだよね。それが古賀くんってわけ」
「そう……なんですね」
今日、帰ったことが後ろめたくなった。と同時に、やっぱり覚えていないんだと気持ちが落ち込む。
手付かずのカレーを食べる気にはなれなかった。
ボードゲームをボドゲと略しながら得意げに話す榊の手元を見ると、昼時だと言うのに食事をした形跡はなく、それどころか珈琲も進んでいなかった。
「先輩、お昼食べてないんですか?」
珈琲の水面が揺らぐ。
「あー、うん。なんか食欲湧かなくて」
ここで「なんで?」と聞いて仕舞えば、関わるきっかけになれるだろう。でも聞くことを不快に思われたらどうすればよいのだろうか。好奇心と恐怖が喧嘩する。しかし知りたいという欲に勝てなかった。
「どうして……ですか?」
「え? んーー」
気まずそうに顔にかかる髪を耳にかける先輩がやけに色っぽく見えて勝手に気まずくなる。
「あ、別に言いたくないならそれでいいですしっ。ただ、いつも笑って人に囲まれてる先輩が食欲なくすようなことあるのかなーなんて思っただけですし。もしかして、体調悪いのかななんて……思ったりもしただけですしっ……」
心配に混じって失礼なことを口走る。
そんなことを気にする素振りは見せず、根負けしたかのように笑う。
「言いたくないというか、こんなかわいい後輩に知られたら恥ずかしいなって思ってただけだよ。体調も悪くない、ありがとね」
——かわいいとか、思っているわけない……。
目つきの悪いと言われてきた細く切長の目はうっすらと二重になっている。それを隠すように伸ばされた前髪と耳の半分まである髪。筋肉のない高身長はしらたきだの爪楊枝だの、好き放題言われてきた。
これでも少しは、筋肉がついてきた方だ。反骨心で大学入学と同時に染めたことでブリーチを繰り返されて傷んでいる。これを決してかわいいとかは思わないだろう。
「いえ……それなら別にいいんです。ここで倒れられても支える自信ないですし……」
微笑する榊に「わ、笑わないでください。本当に無理ですから」と、付け加える。榊よりも身長は低く服の上からでもわかるほど筋肉質な榊を支えられるわけがない。
一拍置くと、榊がゆっくりと話し出した。
「振られたんだ」
「……榊先輩が?」
「振られないと思ってた?」
「まぁ」
榊を振るなんてどんな美女なのだろうか。想像もつかないし、想像をしたくもない。
すると、榊の口から思いも寄らない言葉が吐き出される。
「その子、高校生なんだよね」
「え……それは……」
「告白はしてない。さすがに怖いしね」
「じゃあなんで振られたんですか」
「好きな人がいるんだって」
——年下が好きなのかな。
微かな脈を感じることも許されないこの虚しい感情をどこに投げ入れればいいだろうか。
俺は後輩だけど……年下ではないから。
その後は、自分も何を言っているのかわからないくらいむしゃくしゃしながら会話を続けた。早くこんな時間が終わればいいのに。早くここから逃げ出したいと。
「それだったら、まだ可能性あるじゃないですか」
「あっはは。高校生相手に恋愛してる人の背中押しちゃダメでしょ」
「でも、その子が卒業したり成人できれば……」
なんで背中押すような真似なんてしてるんだろう。
榊は即答した。
「ないよ」
「え?」
「俺のこと好きだったって過去形で言われちゃって、もう気持ち変わらないか聞いたら変わらないってさ」
「何それ。自分勝手すぎるでしょ……」
「怒ってる?」
「別に。本当に自分勝手だなって思っただけです」
「いいんだよ、なんとなくわかってたし。好きだったっていう事実で少し浮かれた自分には呆れたけどね」
上手く返事ができないでいると、榊は明るい声を出す。
「はい! この話は終わり!」
「はぁぁ。なんかお腹空いてきたかも。そのカレー1口ちょうだい?」
「自分で買ってきてくださいよ」
好きな人がいたという事実に沈んだのに、親鳥を待つ小鳥のように口を大きく開ける榊が心を許してくれているようで浮かれてしまった。そんな自分に呆れる。
カレーを榊の口に流し込むと、おいしいと言いながらもう一口を要求するため、渋い顔をしながら内心踊る心に抗えなかった。
結局、半分以上榊に取られたカレーを食べ終え一緒に店を後にした。
「懐かしいな、高校この駅だったんだよ」
「そう、ですか」
お腹を満足そうにさすりながら、歩く榊が辺りを見渡しながら言う。
懐かしいと言う榊の言葉に少し期待した自分が情けない。
「古賀くんて、この辺りに住んでるの?」
「はい」
「大学から遠くね?」
「実家から通うためです」
「……一人暮らしよりも通った方が節約できるので」
「先輩こそ、こんな田舎まで何しに来たんですか?」
「あー……」
また先輩がバツが悪そうにする。歯切れ悪く話し始めた。
「今日なんか呼び出されて……」
「こんなところに呼び出すとか余計意味わからないんですけど」
地元は好きだが、わざわざ観光に来るような場所なのか疑問に思うほどには田舎だ。ビルという言葉を使う場面もなく、開けた土地。「良いところじゃん」と苦笑する榊に「で、なんでですか?」と、話を戻す。
「俺の好きな人と俺が両思いだと勘違いしてた子がいて、俺のこと呼び出して2人きりにしてくれたんだよね」
つまり、ついさっき告白されて振られたってことか。恐怖と嫉妬。それとチャンス。もし、恋人同士になっていたら、俺の間の前にはいないはずの俺の好きな人。
「……どこで告白したんですか」
「え? 駅の反対にある藤の木の下だよ」
「あー、あそこか」
思わず出たタメ口は朔風に吹かれて消えていった。舞い落ちる桜のカーテンをかき分けるように構わず進む。
「なになになに⁉︎」
有無を言わせない行動に戸惑いを隠せない榊だが、抵抗することなく早足でついてきた。
ひらひらとワイシャツの裾が揺れる。
駅の反対側だと榊の言う通り、踏切を渡る。
藤の木があるそこは、1畳ほどの休憩所になっていて2人掛けのベンチが木陰にポツンとあるだけだ。別世界のようにも見えるライラック色が鮮やかに咲き誇っていた。
「何て言われたんでしたっけ」
「俺のこと好きだったって……」
「先輩のこと好きでした」
「は⁇⁇」
素っ頓狂な声を出して驚く榊を跳ね除けて話を続ける。
「次が?」
「え? えっと、もう変わんないかって俺が言ったけど……」
「変わるよ」
「ん⁇⁇ どう言うこと?」
「きっと変わりますよ」
「ん⁉︎」
「……記憶を上書きしたいだけです。田舎だけど良い場所だから、振られた場所になってもう来なくなるとか、寂しいじゃないですか」
半分本音で半分建前。
「あ! 何? 慰めてくれてんの⁇」
慰めじゃなくて、ただの嫉妬だと、言葉を呑み込む。ここでせっかく話せた榊との関係を終わらせたくない。じんわりと、胸の奥から一緒にいたいという欲が湧くも、それが上がってくるほど情熱的にはなれないらしい。
「そうですよ。いつまでも辛気臭い顔してるから」
ここで「俺じゃ代わりになりませんか?」と聞けない自分の勇気のなさに呆れため息混じりに言った。
「ありがと」
榊が誰かと付き合って仕舞えば諦められる。だから、好きな人と付き合えるように背中を押すなんて自分の首を絞める真似をしたんだ。
でも、諦めたくない。

