硬筆男子は花に眩む

 肩を落として伏し目になった花倉。長い睫毛が下瞼をかげらせている。

 好きなやつのこんな姿、黙って見たままでいられるか。

 あー。だけど、悪い。
 その前に特大のため息をひとつ、つかせてくれ。
 俺はじわじわと熱くなる瞼を閉じながら肺をいっぱいに膨らませて、長く、ゆっくりと息をつく。
 ……うん。よし、切り替えよう。

 さ、熱が冷めてくれない瞼を開けて。

「……この便箋。使わずに残ってるやつ。今、持ってんの?」
「え。うん」
「じゃあ、それ。一枚、出せ」

 俺は花倉を視界に入れずに努めてそっけなく喋りながら、俺が座る席の机に置いていたスクバに上体を向ける。花倉が書いたラブレターを机にそっと置き、スクバのファスナーを端まで一気に開けた。なかから長年愛用している、黒いキャンバス生地のペンケースを掴み取って、机に置いたばかりのラブレターをそっと拾う。

 それから俺はおもむろに椅子の向きを調整し、花倉を正面にして座った。
 花倉の手には便箋がある。真っさらなはずのそれは、俺の手にある花倉が書いたラブレターの白さよりも劣って見えるから不思議だ。別の便箋なんじゃねぇのって、疑うレベル。
 俺は花倉と目を合わせないまま、持っているそれを花倉へと差し出して。

「交換。そっち、寄越せ」

 花倉の手が動く。机上で俺の手に真っさらな便箋、花倉の手に真っ白なラブレターが渡り、

「……読んでみ」
「え」
「なるべく、ゆっくり。声にして」

 俺はペンケースから『6B』と刻まれた鉛筆を出す。

「おまえが書いた、ラブレター。なんて書いてんの」

 校舎の壁を隔てて、野球部やらサッカー部やらの野太い雄叫びが、さざなみ程度にぼんやりと俺の耳に届く。いつのまに西日はさらに傾いていたのか。その光度は輝きを増し、教室内を淡い黄金色(こがねいろ)に染め上げている。耳にかけることのできない横髪が夕光(ゆうかげ)と溶け合い、俺の視界の隅がめらめらと燃えるような赤でふち取られた。
 鉛筆の先を便箋の一行目の端に添え、静かに背筋を伸ばし、書く姿勢をとる。黒い芯は多少縮んではいるが、まだ削らなくてもいいだろう。

 正面から息を呑むような音がかすかにした。

 ……緊張するのは、花倉も同じか。
 そりゃあそうだ。まさか自分が書いたラブレターを読み上げさせられるなんて、思いもしねぇよなぁ。それも、好きな相手にじゃなく。まったくの無関係な俺相手に。

 俺は準備万端。いつでもおまえのタイミングでいい。
 さぁ、言え。俺は覚悟を決めた。

「……、──」

 硬くたどたどしかった口調は徐々に柔らかくなめらかに、掠れ気味な声が途中から熱を帯びた声になって、閑寂とした教室内の四隅にまで漂い響く。
 鉛筆の軸にペンだこのできた中指を食い込ませるのと同時に、俺の胸の奥がぎゅっと締めつけられた。内容はともかく、その、滲みあふれる愛が込められた花倉の声音が。覚悟していたよりも遥かにきつい。

 そんなに……そんなに、好きなやつなんだ。
 ……いいな。花倉に好かれたやつ、どんなやつなんだろ。

 ひっそり、俺は唇を噛んで。かつ。かつ。花倉が紡ぐ愛の言葉を便箋に書き綴っていく。

 久しぶりだ。いつぶりだろう。こんなに丁寧に、字を書くのは。硬筆を習っていた小学生の頃を思い出す。畳の部屋、整然と並ぶ低い長机、座布団なし。学年が違うやつらが集まった、こぢんまりとした室内は、いつだって騒がしかった。ばたばたと走り回っているやつらがいたり、となりでいきなり取っ組み合いの喧嘩がはじまったり……と。なかなかにカオスだったよな。
 そんななかでも先生が書いた均整のとれた見本の字を眺めながら、一文字一文字それぞれの特徴を目で捉えて。大きさ、間隔、余白のバランスをそっくり用紙へと落とし込む。透明な筆跡をなぞるようにして書いていたら、小四で俺は硬筆八段を取得した。
 一方で習字もやっていたんだが、そっちはからっきしダメで。というか、まったく書いてて楽しくなかった。

 とにかく鉛筆で字を書くことが楽しくって、好きだった。今もそうで、周りがシャーペンばかりを使っていても、俺はいまだに鉛筆を使っている。

 大人に近づくにつれて、鉛筆よりもシャーペン、シャーペンよりもボールペンとなっていく。果てにはスマホやパソコンのデジタル。字をきれいに書けるからといって、特別なにかいいことはない。きれいさや丁寧さよりも、速く書けるか書けないか。授業で黒板の字を手もとの紙に書き写すのにもスピードが求められる。バイトの履歴書は手書きじゃなくてもいい。なにごともタイパ重視だ。
 心を静めて、落ち着いて字を書く機会は、だんだんと減っていく。きれいに書けたって、意味は──

「──好きだ」

 どきっ、て。した。
 書きかけの字がぐにゃりと曲がりそうになって、本来はらい(・・・)にするところを咄嗟にとめ(・・)にしてしまった。
 便箋から浮かせることができない鉛筆の先から、俺は視線を掬い上げるようにして。書くと決めたときから、極力見ないようにしていた花倉の顔を、我慢しきれずにこっそりと見た。
 自身で書いたラブレターを見つめたまま。花倉はうっすらと頬を赤らめて、ふんわりと切れ長な目もとをやわらげている。薄い唇は、まるでひと月前に散り去ったはずの春の花の色のようで。

 俺の目の前に、とびきり甘やかな花が咲きこぼれていた。

「俺と、付き合ってほしい」

 くらっ、て。した。
 鉛筆を握り直しながら、俺の視線は滑り落ちる。
 花倉は、なにも言わない。今のが、花倉が書いたラブレターの……結びの言葉。だったんだろう。

 俺は目をしばたたかせて、便箋から鉛筆の先をわずかに浮かせる。
 不自然になったとめ(・・)は、そのままにした。

 かつ。かつ。かつ。俺が握り込んでいる鉛筆の先が明瞭な音を立てて、便箋の余白に黒鉛を乗せていく。

 ──『好きだ。俺と、付き合ってほしい』

 最後に小さな句点を書き添えて、ひと息つく。
 俺は内容を一切読み返さずに、便箋を机に滑らせるようにして、半ば投げやりに花倉へと送った。花倉の指先が便箋に触れる前に、俺は目を背けてペンケースに鉛筆を戻す。すっかり縮みきった黒い芯は、帰ってから削ることにしよう。

「それ。なぞって書き直すなり、そのまま渡すなりなんなりして。すっ、リベンジしな」

 やば。ちょっと鼻、すすっちまった。耐えきれると思ったんだけどな。
 俺は後ろに振り向いて、開けっぱなしにしていたスクバにペンケースを放り入れる。それからファスナーを一気に閉めて、意味なく閉めたばかりのそこを軽くはたいた。

 花倉は、いまだになにも言わない。ずーっと、黙ってる。おーい。いい加減に無言、やめてくれよ。また鼻、すすっちまいそうで、やばいから。

「ほら。そろそろ、そこからどいて──」

 言いながら上体を正面へと戻したら、俺が書いて渡した便箋を真剣な表情で読んでいる花倉の姿があって。俺が尻すぼみに言葉を区切ったあとも、花倉の視線はしばらく便箋に注がれていた。
 そして、ある一点で視線の動きがぴたりと止まる。そこで、ようやく。かすかに、ぱっと音を鳴らして開かれた唇から、

「すげー、きれい」

 花倉の睫毛が軽やかに上がった。下瞼にあったかげりが失せ、黒い瞳が淡い黄金色をまとい、辺りに柔らかな光の粒子を散りばめている。
 ふいに花倉と視線が交差した。途端に、花倉の切れ長の目もとが、きゅうっと、細まった。視力のやや悪い俺が、ひとつひとつのパーツを鮮明に捉えられる距離で。移動教室のたびに廊下から眺めていた笑顔が、すぐ、そこで。

「おまえの字。心のこもったきれいな字だな」
「っ」

 かぁっと俺の顔がたちまち、満遍なく熱くなった。

「心のこもったもなにも……。おまえが読み上げた言葉をそのまま。書き起こしただけだ」

 狼狽えながら俯いて、なんとか言葉を返したら、

「そっか。じゃあ、これは俺の心か」

 ゆったりと、まろやかな声で返されたんだけども。
 ……それ。おかしくないか?
 俺の字がおまえの心、そのもの、なんて……。
 いや。別にいいんだけど、さ。なんか。変に照れる。

「これ。このままは渡せないな」
「……まぁ。俺の字じゃあ、な。さすがにおまえの字で書かねぇと」
「いや」
「いや?」
「そういうことじゃなくて」

 じゃあ、どういうことだよ。

「この字。誰にもあげたくない」

 ……なんだよ。それ。ほんと、変に照れる。

 半袖シャツから伸びる、俺のほっそりした腕がばかみたいに赤らんでて、小っ恥ずかしくて仕方ない。やっと夏服が解禁されて、快適だって喜んでた矢先の、これ。クリーニング屋に預けたままの制服の上着に思いを馳せる。今頃、あいつはどうしてんのかな……。

「木野」
「……なに」

 まったく冷たくないあつあつの手のひらで、机の陰に隠しきれない両腕を撫でていたら、花倉から二度目の苗字呼び。俺は机の木目を眺めながら、ぶっきらぼうに返事をする。
 律儀に俺の反応を待ってたっぽい花倉は、俺の小声を聞き逃さなかったみたいで。ワンテンポ遅れで、さらっと。

「俺の字の先生になってよ」
「……」

 俺はまばたきを何回しただろう。

「は」

 何回目かの無味乾燥とした視界のシャッターを切って、突如現れた花倉の顔。なよっちい俺の腕よりも男らしさを宿した腕を机上に重ね組んで、俯く俺の顔を小首を傾げながら覗き込んでくる。

 西日はまた気づかぬうちに傾く。光と影の濃淡は一秒ごとに微々たる変化をして。
 花倉の笑顔は、見るたびに目新しい。

 あの咲きこぼれるような甘やかな笑顔は、もう二度と、見ることは叶わないんだろうな。

「毎週金曜日の放課後。ここで、俺に教えて?」