「あー。またか」
四月に受けた健康診断の、視力検査の結果をもとにして作ったばかりの眼鏡。授業中。黒板を見るときにだけ使っているそれがケースごと、スクールバッグのなかのどこにもないことに気がついて。俺はくらりとめまいを覚えた。
日に日に青々と勢力を増して生い茂る街路樹のもと。西からの強い陽射しは枝葉に濾過され、歩道には光と影の斑模様がざわざわと揺れている。
とりあえず、本来の目的。喉が渇いたために、スクールバッグのチャックを開けたわけで。なかから目当ての水筒を手に取って、道端ながらに立ったまま。俺は人目をはばからずに、ごくごくと喉を鳴らして水分を摂った。
ようやく今週の頭から夏服が解禁され、制服の上着を脱いで登下校することができるようになった。五月の中旬だってのに。夏本番なみの暑さが、ここのところ毎日のように続いている。ガチの夏がきたら、この暑さ、どうなっちまうのかね。そのときにならねぇと、わかんねぇよな。
さてと。水分補給は済んでしまった。軽くなった水筒をスクールバッグに仕舞いながら、考えたくないことを考えることとしよう。
『またか』というのは。単に教室の自席に眼鏡を忘れてきた、ということじゃあなく。もうひとつの可能性が、俺の頭のなかに真っ先に浮かんで。それが『またか』に変換された。そういうことで。
はぁ。と、重いため息をついて。明日から休日だ。と、浮かれていた帰路の途中で踵を返す。
まだ。決まったわけじゃない。この目で確かめるまでは。
それはきっと、あるべき場所にあるはずだ。
そうであってくれるはずだ。
◇
俺の通う学校は、県内唯一の男子高だ。十五分もかけて学校へと戻って、野球部やらサッカー部やらの野太い雄叫びと熱気に眉間を顰めながら、俺はひたすらにずんずんと歩を進める。
やっとのことで昇降口をくぐった。が、休む暇はない。俺の下駄箱から上履きを手にして、すのこの上へと放り落とす。ぱこん、と音を響かせて転がるそれに両足を順に捩じ込みながら、片っぽだけ靴紐がないスニーカーを俺の下駄箱へと放り込む。
わずかに湿った前髪を左右不揃いに掻き分けて、額に滲む汗を手の甲で拭った。そのあいだにも俺の足は二階の教室を目指して忙しく動いている。
二年二組、そこが俺の教室だ。
三組の表札をちらりと目に映したのちに構えている扉が、開けっぱなしになっていることに、俺はまず違和感を覚えた。最後に教室をでる者は、必ず扉を閉めるように。と、いう。暗黙のルールがこの学校にはある。がさつなやろうの集まりである男子高だが、そこのところは案外きちんと守っているやろうばかりだ。やんちゃなやろうも、まぁいるが。治安はそれほど悪くはない。
開けっぱなしの二組の教室の、後方出入り口のところにまできて。俺は動かし続けていた足に急ブレーキをかけた。
教室内、中央列の後ろから三番目。
俺の席に、誰かが座っていて。あろうことか、そいつは机に突っ伏している。
……え。俺の席、だよな? ついさっき通り過ぎたときに目にした表札をばっと振り仰いで凝視。それから、きょろきょろと周囲を確認する。が、やっぱり。あれは紛れもなく俺の席だ。
なんで俺の席に?
まさか。あの、座っているやつが……。
俺は息を潜めて、教室に足を踏み入れた。抜き足、差し足、忍び足。そろぉっと自席へと近づくにつれて、心臓が思わぬ動きで速度を変える。
待て。待て待て待て。予想外の外。
こいつは、違う。ほぼ、百パーセント。『まさか』のやつとは、違うんだけど。
別の、『まさか』のやつだ。
どうしよう。まじで。急激に皮膚の下がうずうずと熱くなっていく。
話しかけても、いいんかな。
苗字。呼んでも、いいんかな。
ずっと。遠目から眺めるばかりだった。『まさか』のやつに。
「花倉」
ぽつり。吐息に近い声になった俺の弱々しい呼びかけに、そいつ──花倉はかすかに肩を震わせた。
重ね組むしなやかな腕の隙間から覗く、端正な横顔には黒髪が散らばっている。それが束となってなめらかな肌をさらりと滑り、閉じられていた瞼がけだるげにゆっくりと開かれた。それから、白シャツ越しに浮かぶ鋭角な肩甲骨がぐぐっと、翼を広げるように動いて。おもむろに上体を起こした花倉はゆるりと俺を仰ぎ見てくる。
きれいにセットしてんなって、いつも遠目ながらに感心していた。今どきなセンターパートの前髪は若干崩れてて。その下に見え隠れする切れ長な目には……寝起き、だからか? 淡い光の膜が瑞々しく張っている。奥に沈む黒い真珠のような瞳が、長い睫毛に扇がれてたかのようにゆらりと泳いだ。
「あ。悪い、いきなり。俺は」
「木野?」
明らかに動揺している様子の花倉に、見惚れているどころではなくなって。俺が慌てて苗字を名乗ろうとしたら、薄い唇からふわっと。喧騒とは無縁の空気に溶け入る声で、だけど確かに苗字を呼ばれて。
俺はどきっとしながら、上擦りそうになる声を必死にコントロールする。
「俺の苗字、知ってんだ」
「それ。こっちの台詞」
……ん? んん? こっちの台詞、って?
「いや。だって、お前。毎日ってくらい、話題にのぼる有名人じゃん。男子高ながらモテモテでさ。比べて俺はなーんも話題性ないし、過去に女子……ましてや男から告られたことないし」
「そう? お前の話題、しょっちゅう聞くけどな」
「え。なに。悪いやつ?」
「高嶺の花、みたいな?」
「はぁ? なんだそれ。花って、お前だろ。俺は木だ」
「あー、うん。それは確かにそう」
花倉の声は低く掠れ気味だ。それでも、まるで覚えたてのメロウソングを口ずさむようなたどたどしさがあって。クールな見た目からは想像できない。まろやかでゆったりとした、遊び心のある口調をしている。
俺の胸の奥は超どきどきしてて、緊張しながらも思いの外。花倉とスムーズに会話ができているのは、その聞き心地のいい声音のおかげだろう。
遠目から眺めているだけじゃ、知り得ることのできなかった花倉の要素だ。
「つか。そこ。俺の席なんだけど」
「え。俺の席だけど」
花倉がきょとんとする。俺も同じような顔をしていると思う。
「……お前。ここ、三組じゃなくて二組だぞ。後ろ振り向いて掲示板でも確認してみろよ」
俺の言葉に素直に花倉が肩越しに後ろを見て、
「まじ?」
「まじ」
「ごめん」
と、言いながら。
花倉は立ち上がろうとする気配がなく。
なんなら、俺が呼びかける前の状態。ふにゃふにゃとへたれて机に突っ伏してしまった。
おいおい。なんだなんだ。そのちょっと情けない花倉の姿にきゅんとしちまう俺って、かなり重症、だよな……。
四月に受けた健康診断の、視力検査の結果をもとにして作ったばかりの眼鏡。授業中。黒板を見るときにだけ使っているそれがケースごと、スクールバッグのなかのどこにもないことに気がついて。俺はくらりとめまいを覚えた。
日に日に青々と勢力を増して生い茂る街路樹のもと。西からの強い陽射しは枝葉に濾過され、歩道には光と影の斑模様がざわざわと揺れている。
とりあえず、本来の目的。喉が渇いたために、スクールバッグのチャックを開けたわけで。なかから目当ての水筒を手に取って、道端ながらに立ったまま。俺は人目をはばからずに、ごくごくと喉を鳴らして水分を摂った。
ようやく今週の頭から夏服が解禁され、制服の上着を脱いで登下校することができるようになった。五月の中旬だってのに。夏本番なみの暑さが、ここのところ毎日のように続いている。ガチの夏がきたら、この暑さ、どうなっちまうのかね。そのときにならねぇと、わかんねぇよな。
さてと。水分補給は済んでしまった。軽くなった水筒をスクールバッグに仕舞いながら、考えたくないことを考えることとしよう。
『またか』というのは。単に教室の自席に眼鏡を忘れてきた、ということじゃあなく。もうひとつの可能性が、俺の頭のなかに真っ先に浮かんで。それが『またか』に変換された。そういうことで。
はぁ。と、重いため息をついて。明日から休日だ。と、浮かれていた帰路の途中で踵を返す。
まだ。決まったわけじゃない。この目で確かめるまでは。
それはきっと、あるべき場所にあるはずだ。
そうであってくれるはずだ。
◇
俺の通う学校は、県内唯一の男子高だ。十五分もかけて学校へと戻って、野球部やらサッカー部やらの野太い雄叫びと熱気に眉間を顰めながら、俺はひたすらにずんずんと歩を進める。
やっとのことで昇降口をくぐった。が、休む暇はない。俺の下駄箱から上履きを手にして、すのこの上へと放り落とす。ぱこん、と音を響かせて転がるそれに両足を順に捩じ込みながら、片っぽだけ靴紐がないスニーカーを俺の下駄箱へと放り込む。
わずかに湿った前髪を左右不揃いに掻き分けて、額に滲む汗を手の甲で拭った。そのあいだにも俺の足は二階の教室を目指して忙しく動いている。
二年二組、そこが俺の教室だ。
三組の表札をちらりと目に映したのちに構えている扉が、開けっぱなしになっていることに、俺はまず違和感を覚えた。最後に教室をでる者は、必ず扉を閉めるように。と、いう。暗黙のルールがこの学校にはある。がさつなやろうの集まりである男子高だが、そこのところは案外きちんと守っているやろうばかりだ。やんちゃなやろうも、まぁいるが。治安はそれほど悪くはない。
開けっぱなしの二組の教室の、後方出入り口のところにまできて。俺は動かし続けていた足に急ブレーキをかけた。
教室内、中央列の後ろから三番目。
俺の席に、誰かが座っていて。あろうことか、そいつは机に突っ伏している。
……え。俺の席、だよな? ついさっき通り過ぎたときに目にした表札をばっと振り仰いで凝視。それから、きょろきょろと周囲を確認する。が、やっぱり。あれは紛れもなく俺の席だ。
なんで俺の席に?
まさか。あの、座っているやつが……。
俺は息を潜めて、教室に足を踏み入れた。抜き足、差し足、忍び足。そろぉっと自席へと近づくにつれて、心臓が思わぬ動きで速度を変える。
待て。待て待て待て。予想外の外。
こいつは、違う。ほぼ、百パーセント。『まさか』のやつとは、違うんだけど。
別の、『まさか』のやつだ。
どうしよう。まじで。急激に皮膚の下がうずうずと熱くなっていく。
話しかけても、いいんかな。
苗字。呼んでも、いいんかな。
ずっと。遠目から眺めるばかりだった。『まさか』のやつに。
「花倉」
ぽつり。吐息に近い声になった俺の弱々しい呼びかけに、そいつ──花倉はかすかに肩を震わせた。
重ね組むしなやかな腕の隙間から覗く、端正な横顔には黒髪が散らばっている。それが束となってなめらかな肌をさらりと滑り、閉じられていた瞼がけだるげにゆっくりと開かれた。それから、白シャツ越しに浮かぶ鋭角な肩甲骨がぐぐっと、翼を広げるように動いて。おもむろに上体を起こした花倉はゆるりと俺を仰ぎ見てくる。
きれいにセットしてんなって、いつも遠目ながらに感心していた。今どきなセンターパートの前髪は若干崩れてて。その下に見え隠れする切れ長な目には……寝起き、だからか? 淡い光の膜が瑞々しく張っている。奥に沈む黒い真珠のような瞳が、長い睫毛に扇がれてたかのようにゆらりと泳いだ。
「あ。悪い、いきなり。俺は」
「木野?」
明らかに動揺している様子の花倉に、見惚れているどころではなくなって。俺が慌てて苗字を名乗ろうとしたら、薄い唇からふわっと。喧騒とは無縁の空気に溶け入る声で、だけど確かに苗字を呼ばれて。
俺はどきっとしながら、上擦りそうになる声を必死にコントロールする。
「俺の苗字、知ってんだ」
「それ。こっちの台詞」
……ん? んん? こっちの台詞、って?
「いや。だって、お前。毎日ってくらい、話題にのぼる有名人じゃん。男子高ながらモテモテでさ。比べて俺はなーんも話題性ないし、過去に女子……ましてや男から告られたことないし」
「そう? お前の話題、しょっちゅう聞くけどな」
「え。なに。悪いやつ?」
「高嶺の花、みたいな?」
「はぁ? なんだそれ。花って、お前だろ。俺は木だ」
「あー、うん。それは確かにそう」
花倉の声は低く掠れ気味だ。それでも、まるで覚えたてのメロウソングを口ずさむようなたどたどしさがあって。クールな見た目からは想像できない。まろやかでゆったりとした、遊び心のある口調をしている。
俺の胸の奥は超どきどきしてて、緊張しながらも思いの外。花倉とスムーズに会話ができているのは、その聞き心地のいい声音のおかげだろう。
遠目から眺めているだけじゃ、知り得ることのできなかった花倉の要素だ。
「つか。そこ。俺の席なんだけど」
「え。俺の席だけど」
花倉がきょとんとする。俺も同じような顔をしていると思う。
「……お前。ここ、三組じゃなくて二組だぞ。後ろ振り向いて掲示板でも確認してみろよ」
俺の言葉に素直に花倉が肩越しに後ろを見て、
「まじ?」
「まじ」
「ごめん」
と、言いながら。
花倉は立ち上がろうとする気配がなく。
なんなら、俺が呼びかける前の状態。ふにゃふにゃとへたれて机に突っ伏してしまった。
おいおい。なんだなんだ。そのちょっと情けない花倉の姿にきゅんとしちまう俺って、かなり重症、だよな……。

