ぐるぐると、紙の上で色とりどりの円が描かれていく。
最近の新の遊びはもっぱらお絵描きだ。
毬に飽きてきたのか、毬遊びをしていても投げるだけになっていたりとつまらなそうだったので、早苗が購入してくれたクレィヨンを使わせてみた。
さっと線を描いて見せたら気に入ったようで、それからというものひたすら何かを描いている。
累寧は紙を押さえてやりながら、クレィヨンと紙の消費が激しいなと苦笑していた。
「できた!」
また作品が一つ完成したようで、新が満面の笑みで声を上げる。
改めて紙を見てみると、大きな水色のぐるぐると黒色のぐるぐるが隣り合っている。
正直、新がなにを描いたのかまったくわからない。だから素直に聞いた。
「これは何を描いたの?」
「とーしゃまと、かーしゃま!」
即座に返ってきた言葉に驚く。ぐるぐるが人だということもだが、それ以上に義父のことを絵に描くとは思わなかったからだ。
ついこの間伸ばした手を払いのけられ泣いていたというのに……。まさかとは思うが、忘れてしまったのだろうか。
幼いからというのもあるだろうが、虐待されていたことを無意識に忘れていた前例もある。もしかすると、辛い記憶は忘れるようになってしまっているのではないだろうか。
だが、虐待はともかく辛いことをすべて忘れてしまうのは危険だ。忘れるということは、同じことを繰り返してしまうということでもあるのだから。
心配になった累寧は、慎重に言葉を選んで聞いてみた。
「新くんは、義父様のこと好き?」
これで好きと即答されたら心配が増しそうだ、と思っていたが、新は少し迷うようなそぶりを見せてから答える。
「ちょっとこわい……でも、しゅき!」
はじめに『ちょっとこわい』と言うのだから、手を払いのけられたことを忘れたわけではなさそうだ。
ほっと安堵しつつ、その後の『しゅき!』にやはり驚く。
恐れはあっても、それ以上に父という存在への好意があるということだろう。
稀凰と新が共にいることなどほぼ見たことはないが、子が親を求めるのは自然なことだ。……かつて、諦めてしまうまでの自分がそうだったように。
だが、稀凰は森村家の両親とは違うはずだ。少なくとも、必要だと思ったから新を養子にしたのだろう。
それに、新の手を払いのけたときの傷ついた表情。申し訳なさで頭がいっぱいで、苦しんでいたように見えた。新のことをどうでもいいと思っていたとしたら、冷たく突き放して終わりだったろう。
なので、稀凰も彼なりに新を大事に思っているはずだ。
(だとしたら、やはりこのままでいいはずがないわ)
新のためにも、なんとか稀凰の心の傷を癒し、人に——新に触れられるようになってもらわなくては。
そう考えたとき、この間訪ねてきた兄の言葉を思い出した。
稀凰のことを見てあげて欲しいと言った重輝は、帰り際にぽつりと零したのだ。
『もしかしたら、累寧の異能なら彼の恐怖を取り除くことができるかもしれない』
使い方によっては人の心を壊しかねない異能。だからこそ、稀凰の心の傷も消すことができるかもしれないということだろう。
とはいえ、普段は使わないようにしている。使ったとしても、この間新にしたように記憶を見るだけに留めるよう努めていた。
だが、稀凰の心の傷を消したいと思うならば、記憶を見るだけでなく直接干渉しなければならない。
力の制御も必要だし、干渉しすぎれば逆に新たな傷を残すことにもなる。
それでも、屈託のない新の笑顔を見ると、やはりこのままではいけないという結論に至るのだ。
「新くん……義母様、頑張るわ」
雪色という冷たそうな色彩なのに、お日様の香りがする新の髪を撫でて、累寧は静かに決意を告げた。
***
「……なぜ、君が俺を訪ねてくるんだ?」
夜、稀凰の私室へ訪れると疲れたようなため息と態度で問いかけられた。
少々不機嫌そうにも見える稀凰に、初日に彼が自分を訪ねてきたときとは逆だなと思う。
「失礼しますね」
入室は許されていないが、追い返されるわけにはいかないため断りを入れて中に入り襖を閉めた。
稀凰の正面に移動し、座る。
「累寧どの、流石に無礼だぞ? それに、夜に男の部屋を訪ねるなど不用心に過ぎる」
累寧の不躾な行動に稀凰は本気の怒りを垣間見せたが、累寧はくすりと笑って見せた。
「不用心とは……私たちは夫婦なので、何の問題もないのでは?」
累寧の挑発のような言葉に、稀凰は軽く驚いてから揶揄うように皮肉げな笑みを浮かべる。
「それは、俺に襲われても構わないということか?」
「襲えるのですか? 人に触れるのが怖いのに?」
皮肉に皮肉を返した累寧に、稀凰は息を呑む。驚き声を失っている彼の前で、累寧は表情を真剣なものに変えた。
「兄様から聞きました。稀凰様が、人に触れられるの嫌う理由を。……触れた人を凍らせてしまうことを恐れているのだと」
途端に冷たいほど整った顔を渋いものに変えた稀凰は、悪態をつくように呟く。
「重輝め……黙っていろと言ったのに」
重輝への文句を口にした稀凰へ、累寧は問う。
「先日、新くんの手を払いのけたのもそのせいですか?」
こればかりはしっかり確認しなくては。万が一他に理由があるとしたら、異能を使う意味がない。
重輝に口止めをするほど知られたくなかったようなので、もしかすると誤魔化されるかもしれないと思ったが、稀凰は渋々ながらも認めた。
「……そうだ」
誤魔化すことはせず、嘘をついている様子もない。そんな稀凰を見て、累寧は覚悟を決め彼に手を伸ばす。
「でしたらやはり、新くんのためにもその恐れは解消していただかなくては」
「っ! なにをする!?」
「勝手で申し訳ありませんが、あなたの心を見させていただきます!」
宣言し、額を合わせるためにぐっと稀凰へ近づくが、彼は慌てて避け累寧の手から逃れた。それでも近づこうとする累寧を稀凰は更に避ける。
乱暴なことをする気はないのだろう。あくまで避けるだけで、強引に止めようとはしてこない。
だが、累寧とて武道を嗜んでいるのだ。そのような生ぬるい逃げ方で躱せるわけがない。
「隙あり!」
仕事中など気を張っているときならともかく、今は自宅で不意打ちを食らったような状態だ。そのためできた隙をつき、累寧は稀凰の両手をつかみ、その勢いのまま彼を床に縫い付けた。
押し倒す状態になってしまったことは不本意だが、これで逃げられないだろう。
とはいえ力では叶わないので、押し戻される前に異能を使わなくては。
間髪入れず額を近づけようとすると、稀凰のか細い声が耳に届く。
「やめろ……はやく、離れるんだ」
震える声と共に、稀凰の手をつかんでいる累寧の手のひらが冷たさを知覚する。それはすぐに凍てつく痛みに変わった。
「くぅっ!」
「早く、離すんだ!」
焦りと怒りの滲んだ声で叫ぶ稀凰だったが、累寧はその命に従うつもりはない。
凍りつく痛みに耐えながら額を稀凰の額につけ、告げる。
「お断りです。私は母として、新くんのために頑張ると決めましたから。稀凰様、あなたも父として、頑張ってください」
「駄目だ、このままでは、累寧どのも……」
苦しげな、今にも泣きそうな声を聞きながら、累寧は意識を稀凰の中へと向けた。
***
意識が引き込まれる感覚に身を委ねながら、累寧は稀凰へ腹を立てていた。
(本当に嫌な男。人を遠ざけたいなら、その冷たい顔と同じく冷血でいればいいのに)
なのに、稀凰は人を傷つけた分自分傷つける。どうあっても冷血になれない彼のことを累寧は心の底からは嫌いきれなくて、だからこそ今回の契約婚も受けてしまったのだ。
それでも仲を深めるつもりなどなかったから、夫婦として同じ屋根の下にいるとしても近づこうとは思わなかったというのに。
(でも、仕方ないでしょう。大切な人たちが稀凰様を思っているのですもの)
誰よりも尊い存在である新が稀凰を好きだと言った。誰よりも累寧を大事にしてくれている重輝が頼むと言って稀凰の事情を聞かせてくれた。
ならばやるしかないだろう。自身の異能を行使し、稀凰の心の傷を癒すのだ。
累寧は靄の中を進みながら稀凰の記憶を探る。
求めるのは、心の傷となった使用人の子を凍らせてしまったときの記憶。
求めて手を伸ばすと、突然靄が晴れ見知った庭が広がった。
氷室家の池庭だ。ただ、覚えのある木々が少し小さめなことで、過去の場所だとわかる。
(稀凰様はここでかどわかされたのかしら?)
事件のあったときの記憶を求めて見えた場所なので、間違いはないはずだ。
稀凰はどこにいるのだろうと辺りを見回すと、叫び声が耳朶を打った。
「離せ! 稀凰様を離せよ!」
「うるせぇ! 邪魔すんな餓鬼が!」
幼い声と乱暴そうな男の声に視線を向けると、茶色の髪の男の子が新を大きくしたような子供を抱えた男につかみかかっているところだった。
男は邪魔そうにしながらも軽々と茶髪の子の着物をつかみ投げ飛ばし、雪色の髪の男の子を抱えたまま池庭を立ち去ろうとする。
逃げる背を見てとっ捕まえたい衝動に駆られるが、これは過去の記憶。いま助けたとしても、起こったことは変わらないし、稀凰の心の傷に対しても気休め程度にしかならない。
(まだ、待たなくては)
ぐっとこらえ見守っていると、男が突然足を止めた。
「なっ、こんな!? この餓鬼! やめろ!」
なにが起こったのか。怒りと恐怖の悲鳴を上げた男は、攫おうとしていた稀凰を離す。
おそらく、重輝に聞いたように異能が発現したのだろう。男の身体は稀凰を手放しても凍り続け、最後にはその場で立ったまま固まってしまった。
陽光の下、異能の残り香のように冷気が漂う中、使用人の子が稀凰へと近づく。
「稀凰様、よかった」
稀凰は自身がしたことへの恐れと助かったという安堵に呆然としている様子で、使用人の子が近づいたことにも気づかないようだ。
茶髪の子が近づき、そのまま「稀凰様の異能ってすげぇな」と肩に手を置いた瞬間、その顔色が驚きに変わる。
「つめたっ! ひっ、やめて……稀凰様、なんで……?」
稀凰の肩に置いた手から、柔らかそうな子供の手が先ほどの誘拐犯と同じように凍りついていく。
明るく高い声が恐怖で震え、そこでやっと稀凰は使用人の子の異変に気づいた。
誘拐犯と同じように凍っていく様を見て、自分の異能の力だということにも気づいたが、どうやって止めればいいのかわからず泣きそうな顔で狼狽える。
「え? や、だめ! どうして!? なんで止められないの!?」
震えながら力を押さえようとしたり、使用人の子から離れようとするが、離すために彼の身体に触れると、またそこから凍り付いてしまう。
「どうして、止められないの!?」
悲痛な叫びに、累寧はここだ! と判断し、駆け出した。
稀凰の背後からその身体を抱きしめ、耳元に唇を近づけ囁く。
「大丈夫、落ち着いて。あなたはちゃんと力を制御できているから」
手を取ると、累寧の手も凍り付く。だが、この記憶は今累寧の異能の管理下にある。
「ほら、私は凍らないわ」
優しく囁くと、凍りついた累寧の手はすぐに解けていく。
累寧が望めば、どんな記憶であろうとも思う通りに変えられるのだ。
記憶を置き換えるというほどのことは出来ないが、こうして相手にとっての重要な記憶に干渉することで、その心に変化をもたらすことができる。
これが、サトリの一族では珍しいと言われる累寧の異能だ。
幼い稀凰の記憶にある心の傷。大人になっても残るこの異能の暴走という傷は、本来なら制御ができる現在は心配しなくてもいいはずのものなのだ。
だから、この記憶に現在の稀凰の制御力を刻み込む。
自身の手だけでなく、使用人の子の身体も解かし、ゆったりと言い聞かせるように告げる。
「稀凰様、あなたはもうちゃんと自分の力を制御できるのです。恐れることはありません、人に触れたところで、凍らせることなどもうないのです」
「人に触れても、凍らない?」
「はい」
累寧の言葉を繰り返し、稀凰は体の力を抜いて落ち着きを取り戻していく。
稀凰の正面に移動した累寧は、そっと彼を抱きしめ新と同じ雪色の髪を撫でた。色は同じだが、ふわふわとした新と違い稀凰の髪は真っ直ぐでさらさらだ。別の心地よさがある髪質に目を細めて、累寧は微笑む。
いつもは小憎たらしい男だが、このように幼い頃はかわいげもあったのだなと思いながら、すでに整っている顔を見下ろし累寧は優しく告げる。
「ほら、こうして抱きしめたら暖かいでしょう? あなたには、ちゃんと人を思う優しさがある。だから、本来は触れただけで凍らせるなんてことにはならないのですよ?」
傷を癒すように柔らく撫でた背が、徐々に広くなっていく。
腕の中で少しずつ成長していく稀凰に、累寧は語り続けた。
「大丈夫です。あなたはもう、自分の異能を使いこなせているのですから」
怖がらなくていいと言い聞かせるように抱きしめると、すっかり大人の姿になった稀凰は逆に累寧の身体を強く抱きしめる。
「累寧どの……」
どこか熱を帯びた声音に少しどきりとしながら、もう大丈夫そうだと思った累寧はゆっくりと目を閉じた。
最近の新の遊びはもっぱらお絵描きだ。
毬に飽きてきたのか、毬遊びをしていても投げるだけになっていたりとつまらなそうだったので、早苗が購入してくれたクレィヨンを使わせてみた。
さっと線を描いて見せたら気に入ったようで、それからというものひたすら何かを描いている。
累寧は紙を押さえてやりながら、クレィヨンと紙の消費が激しいなと苦笑していた。
「できた!」
また作品が一つ完成したようで、新が満面の笑みで声を上げる。
改めて紙を見てみると、大きな水色のぐるぐると黒色のぐるぐるが隣り合っている。
正直、新がなにを描いたのかまったくわからない。だから素直に聞いた。
「これは何を描いたの?」
「とーしゃまと、かーしゃま!」
即座に返ってきた言葉に驚く。ぐるぐるが人だということもだが、それ以上に義父のことを絵に描くとは思わなかったからだ。
ついこの間伸ばした手を払いのけられ泣いていたというのに……。まさかとは思うが、忘れてしまったのだろうか。
幼いからというのもあるだろうが、虐待されていたことを無意識に忘れていた前例もある。もしかすると、辛い記憶は忘れるようになってしまっているのではないだろうか。
だが、虐待はともかく辛いことをすべて忘れてしまうのは危険だ。忘れるということは、同じことを繰り返してしまうということでもあるのだから。
心配になった累寧は、慎重に言葉を選んで聞いてみた。
「新くんは、義父様のこと好き?」
これで好きと即答されたら心配が増しそうだ、と思っていたが、新は少し迷うようなそぶりを見せてから答える。
「ちょっとこわい……でも、しゅき!」
はじめに『ちょっとこわい』と言うのだから、手を払いのけられたことを忘れたわけではなさそうだ。
ほっと安堵しつつ、その後の『しゅき!』にやはり驚く。
恐れはあっても、それ以上に父という存在への好意があるということだろう。
稀凰と新が共にいることなどほぼ見たことはないが、子が親を求めるのは自然なことだ。……かつて、諦めてしまうまでの自分がそうだったように。
だが、稀凰は森村家の両親とは違うはずだ。少なくとも、必要だと思ったから新を養子にしたのだろう。
それに、新の手を払いのけたときの傷ついた表情。申し訳なさで頭がいっぱいで、苦しんでいたように見えた。新のことをどうでもいいと思っていたとしたら、冷たく突き放して終わりだったろう。
なので、稀凰も彼なりに新を大事に思っているはずだ。
(だとしたら、やはりこのままでいいはずがないわ)
新のためにも、なんとか稀凰の心の傷を癒し、人に——新に触れられるようになってもらわなくては。
そう考えたとき、この間訪ねてきた兄の言葉を思い出した。
稀凰のことを見てあげて欲しいと言った重輝は、帰り際にぽつりと零したのだ。
『もしかしたら、累寧の異能なら彼の恐怖を取り除くことができるかもしれない』
使い方によっては人の心を壊しかねない異能。だからこそ、稀凰の心の傷も消すことができるかもしれないということだろう。
とはいえ、普段は使わないようにしている。使ったとしても、この間新にしたように記憶を見るだけに留めるよう努めていた。
だが、稀凰の心の傷を消したいと思うならば、記憶を見るだけでなく直接干渉しなければならない。
力の制御も必要だし、干渉しすぎれば逆に新たな傷を残すことにもなる。
それでも、屈託のない新の笑顔を見ると、やはりこのままではいけないという結論に至るのだ。
「新くん……義母様、頑張るわ」
雪色という冷たそうな色彩なのに、お日様の香りがする新の髪を撫でて、累寧は静かに決意を告げた。
***
「……なぜ、君が俺を訪ねてくるんだ?」
夜、稀凰の私室へ訪れると疲れたようなため息と態度で問いかけられた。
少々不機嫌そうにも見える稀凰に、初日に彼が自分を訪ねてきたときとは逆だなと思う。
「失礼しますね」
入室は許されていないが、追い返されるわけにはいかないため断りを入れて中に入り襖を閉めた。
稀凰の正面に移動し、座る。
「累寧どの、流石に無礼だぞ? それに、夜に男の部屋を訪ねるなど不用心に過ぎる」
累寧の不躾な行動に稀凰は本気の怒りを垣間見せたが、累寧はくすりと笑って見せた。
「不用心とは……私たちは夫婦なので、何の問題もないのでは?」
累寧の挑発のような言葉に、稀凰は軽く驚いてから揶揄うように皮肉げな笑みを浮かべる。
「それは、俺に襲われても構わないということか?」
「襲えるのですか? 人に触れるのが怖いのに?」
皮肉に皮肉を返した累寧に、稀凰は息を呑む。驚き声を失っている彼の前で、累寧は表情を真剣なものに変えた。
「兄様から聞きました。稀凰様が、人に触れられるの嫌う理由を。……触れた人を凍らせてしまうことを恐れているのだと」
途端に冷たいほど整った顔を渋いものに変えた稀凰は、悪態をつくように呟く。
「重輝め……黙っていろと言ったのに」
重輝への文句を口にした稀凰へ、累寧は問う。
「先日、新くんの手を払いのけたのもそのせいですか?」
こればかりはしっかり確認しなくては。万が一他に理由があるとしたら、異能を使う意味がない。
重輝に口止めをするほど知られたくなかったようなので、もしかすると誤魔化されるかもしれないと思ったが、稀凰は渋々ながらも認めた。
「……そうだ」
誤魔化すことはせず、嘘をついている様子もない。そんな稀凰を見て、累寧は覚悟を決め彼に手を伸ばす。
「でしたらやはり、新くんのためにもその恐れは解消していただかなくては」
「っ! なにをする!?」
「勝手で申し訳ありませんが、あなたの心を見させていただきます!」
宣言し、額を合わせるためにぐっと稀凰へ近づくが、彼は慌てて避け累寧の手から逃れた。それでも近づこうとする累寧を稀凰は更に避ける。
乱暴なことをする気はないのだろう。あくまで避けるだけで、強引に止めようとはしてこない。
だが、累寧とて武道を嗜んでいるのだ。そのような生ぬるい逃げ方で躱せるわけがない。
「隙あり!」
仕事中など気を張っているときならともかく、今は自宅で不意打ちを食らったような状態だ。そのためできた隙をつき、累寧は稀凰の両手をつかみ、その勢いのまま彼を床に縫い付けた。
押し倒す状態になってしまったことは不本意だが、これで逃げられないだろう。
とはいえ力では叶わないので、押し戻される前に異能を使わなくては。
間髪入れず額を近づけようとすると、稀凰のか細い声が耳に届く。
「やめろ……はやく、離れるんだ」
震える声と共に、稀凰の手をつかんでいる累寧の手のひらが冷たさを知覚する。それはすぐに凍てつく痛みに変わった。
「くぅっ!」
「早く、離すんだ!」
焦りと怒りの滲んだ声で叫ぶ稀凰だったが、累寧はその命に従うつもりはない。
凍りつく痛みに耐えながら額を稀凰の額につけ、告げる。
「お断りです。私は母として、新くんのために頑張ると決めましたから。稀凰様、あなたも父として、頑張ってください」
「駄目だ、このままでは、累寧どのも……」
苦しげな、今にも泣きそうな声を聞きながら、累寧は意識を稀凰の中へと向けた。
***
意識が引き込まれる感覚に身を委ねながら、累寧は稀凰へ腹を立てていた。
(本当に嫌な男。人を遠ざけたいなら、その冷たい顔と同じく冷血でいればいいのに)
なのに、稀凰は人を傷つけた分自分傷つける。どうあっても冷血になれない彼のことを累寧は心の底からは嫌いきれなくて、だからこそ今回の契約婚も受けてしまったのだ。
それでも仲を深めるつもりなどなかったから、夫婦として同じ屋根の下にいるとしても近づこうとは思わなかったというのに。
(でも、仕方ないでしょう。大切な人たちが稀凰様を思っているのですもの)
誰よりも尊い存在である新が稀凰を好きだと言った。誰よりも累寧を大事にしてくれている重輝が頼むと言って稀凰の事情を聞かせてくれた。
ならばやるしかないだろう。自身の異能を行使し、稀凰の心の傷を癒すのだ。
累寧は靄の中を進みながら稀凰の記憶を探る。
求めるのは、心の傷となった使用人の子を凍らせてしまったときの記憶。
求めて手を伸ばすと、突然靄が晴れ見知った庭が広がった。
氷室家の池庭だ。ただ、覚えのある木々が少し小さめなことで、過去の場所だとわかる。
(稀凰様はここでかどわかされたのかしら?)
事件のあったときの記憶を求めて見えた場所なので、間違いはないはずだ。
稀凰はどこにいるのだろうと辺りを見回すと、叫び声が耳朶を打った。
「離せ! 稀凰様を離せよ!」
「うるせぇ! 邪魔すんな餓鬼が!」
幼い声と乱暴そうな男の声に視線を向けると、茶色の髪の男の子が新を大きくしたような子供を抱えた男につかみかかっているところだった。
男は邪魔そうにしながらも軽々と茶髪の子の着物をつかみ投げ飛ばし、雪色の髪の男の子を抱えたまま池庭を立ち去ろうとする。
逃げる背を見てとっ捕まえたい衝動に駆られるが、これは過去の記憶。いま助けたとしても、起こったことは変わらないし、稀凰の心の傷に対しても気休め程度にしかならない。
(まだ、待たなくては)
ぐっとこらえ見守っていると、男が突然足を止めた。
「なっ、こんな!? この餓鬼! やめろ!」
なにが起こったのか。怒りと恐怖の悲鳴を上げた男は、攫おうとしていた稀凰を離す。
おそらく、重輝に聞いたように異能が発現したのだろう。男の身体は稀凰を手放しても凍り続け、最後にはその場で立ったまま固まってしまった。
陽光の下、異能の残り香のように冷気が漂う中、使用人の子が稀凰へと近づく。
「稀凰様、よかった」
稀凰は自身がしたことへの恐れと助かったという安堵に呆然としている様子で、使用人の子が近づいたことにも気づかないようだ。
茶髪の子が近づき、そのまま「稀凰様の異能ってすげぇな」と肩に手を置いた瞬間、その顔色が驚きに変わる。
「つめたっ! ひっ、やめて……稀凰様、なんで……?」
稀凰の肩に置いた手から、柔らかそうな子供の手が先ほどの誘拐犯と同じように凍りついていく。
明るく高い声が恐怖で震え、そこでやっと稀凰は使用人の子の異変に気づいた。
誘拐犯と同じように凍っていく様を見て、自分の異能の力だということにも気づいたが、どうやって止めればいいのかわからず泣きそうな顔で狼狽える。
「え? や、だめ! どうして!? なんで止められないの!?」
震えながら力を押さえようとしたり、使用人の子から離れようとするが、離すために彼の身体に触れると、またそこから凍り付いてしまう。
「どうして、止められないの!?」
悲痛な叫びに、累寧はここだ! と判断し、駆け出した。
稀凰の背後からその身体を抱きしめ、耳元に唇を近づけ囁く。
「大丈夫、落ち着いて。あなたはちゃんと力を制御できているから」
手を取ると、累寧の手も凍り付く。だが、この記憶は今累寧の異能の管理下にある。
「ほら、私は凍らないわ」
優しく囁くと、凍りついた累寧の手はすぐに解けていく。
累寧が望めば、どんな記憶であろうとも思う通りに変えられるのだ。
記憶を置き換えるというほどのことは出来ないが、こうして相手にとっての重要な記憶に干渉することで、その心に変化をもたらすことができる。
これが、サトリの一族では珍しいと言われる累寧の異能だ。
幼い稀凰の記憶にある心の傷。大人になっても残るこの異能の暴走という傷は、本来なら制御ができる現在は心配しなくてもいいはずのものなのだ。
だから、この記憶に現在の稀凰の制御力を刻み込む。
自身の手だけでなく、使用人の子の身体も解かし、ゆったりと言い聞かせるように告げる。
「稀凰様、あなたはもうちゃんと自分の力を制御できるのです。恐れることはありません、人に触れたところで、凍らせることなどもうないのです」
「人に触れても、凍らない?」
「はい」
累寧の言葉を繰り返し、稀凰は体の力を抜いて落ち着きを取り戻していく。
稀凰の正面に移動した累寧は、そっと彼を抱きしめ新と同じ雪色の髪を撫でた。色は同じだが、ふわふわとした新と違い稀凰の髪は真っ直ぐでさらさらだ。別の心地よさがある髪質に目を細めて、累寧は微笑む。
いつもは小憎たらしい男だが、このように幼い頃はかわいげもあったのだなと思いながら、すでに整っている顔を見下ろし累寧は優しく告げる。
「ほら、こうして抱きしめたら暖かいでしょう? あなたには、ちゃんと人を思う優しさがある。だから、本来は触れただけで凍らせるなんてことにはならないのですよ?」
傷を癒すように柔らく撫でた背が、徐々に広くなっていく。
腕の中で少しずつ成長していく稀凰に、累寧は語り続けた。
「大丈夫です。あなたはもう、自分の異能を使いこなせているのですから」
怖がらなくていいと言い聞かせるように抱きしめると、すっかり大人の姿になった稀凰は逆に累寧の身体を強く抱きしめる。
「累寧どの……」
どこか熱を帯びた声音に少しどきりとしながら、もう大丈夫そうだと思った累寧はゆっくりと目を閉じた。



