新へのはつの虐待が発覚してから数日。
はつは早苗の指示通りその日のうちに氷室家を出され、新に接触することはなくなった。
ただ、夜の間に新を見ていられる女中をすぐに用意することはできないため、しばらくは累寧が夜も世話をすることになった。
夜泣きはあるが、ほとんどが一晩に一度で、多くても二度だと聞いていたのでそこまで負担ではないと思っていたのだが……通常は朝まで眠っているところを途中で起こされるというのは、想像していたより大変なことだった。
しかも起きてあやせばいいだけではなく、おむつを替えなければならないことも多い。それに新はすぐに寝てくれるとも限らず、なにをしてもしばらく泣き続けることもあった。
翌朝、大人たちの朝食が済んでから少し早い昼寝をさせてもらっているのと、おむつなどの処理は他の女中が合間を縫ってやっていてくれているからこそなんとか笑顔を保っているところだ。
虐待はどんな理由があっても許せないが、はつが苛々してしまう気持ちが少しわかってしまった。
世の母親はこれを子を産んだ後すぐにやっているのかと思うと、頭が上がらない。しかも生まれたては夜泣きも授乳の感覚も短いのだと聞いて、意識が飛びそうになった。
しかし、どんなに辛くとも多少は慣れるようで、一週間もすれば他のことへ意識を向ける余裕も少しは出てくる。
そうして考えるのは稀凰のことだ。
新の伸ばした手を振り払ったときの彼は、誰よりも傷ついているように見えた。一番悲しいのは手を振り払われた新のはずなのに、なぜ大の男の苦しげな顔の方が気になってしまうのか……。
嫌いな男のことで思い悩んでしまう自分がまた腹立たしく、もやもやと消化できない感情をため込んでいたある日の午後、兄の重輝が累寧を訪ねて氷室家へとやってきた。
「どうしたの兄様、突然訪ねてくるなんて」
新を早苗と女中に任せて応接間で兄を迎えた累寧は、久しぶりに会う兄へ驚きを混ぜた笑みを向ける。
だが、累寧の言葉に重輝の方が驚いていた。
「突然って……稀凰に今日訪ねると伝えていたはずなんだけれど。ここへ案内してくれた女中は聞いている様子だったし、家には伝えていたみたいだけれど……稀凰、累寧には伝えていなかったのかい?」
まさかの、自分だけが知らないという状況だったらしい。
契約結婚で夫婦の仲を深める必要もないため、二人きりで会うことは初日の夜以外なかった。特にこの一週間稀凰は食事も自室で取っているようで、顔を合わせることすらない。
はつを追い出したあの日、新の手を撥ね退けたことを気にしているのかもしれないが、兄の来訪予定くらい教えてくれてもいいのではないだろうか。
女中が知っているのなら早苗も知っていたのだろうし、話してくれれば——と思うが、もしかすると稀凰が伝えていると思ったのかもしれない。
(これは、後でお話合いが必要かもしれないわね)
今回は親しい身内だからよかったが、気難しい相手や上位の相手であればお叱りを受けるだけでは済まないかもしれない。このままなかったことに、というわけにもいかないだろう。
「……どうやら、手違いがあったようだね」
心の声が聞こえてしまったのか、それとも単純に察しただけなのか。いや、そのどちらもだろう。重輝の困り笑顔には、累寧を気遣う様子が見て取れた。
重輝には誤魔化しも通用しないので、累寧は諦めたように微笑み来訪の目的を聞く。
「そうみたい。それで兄様、どうしたの? 森村家でなにかあったのかしら?」
「森村家でなにか、じゃないよ。累寧の様子を見に来たに決まっているだろう?」
呆れた、とばかりに大きなため息を吐いた重輝に、累寧は遅ればせながらそうかと納得した。
優しい兄だ。この契約結婚自体初めは反対していたし、心配してくれたのだろう。
その心遣いに感謝し、累寧は氷室家であったことを洗いざらい話した。屋敷の者たちは皆やさしいこと。新の可愛さ。そんな新を乳母が虐待していたことが発覚し、屋敷から追い出したこと。
そして、稀凰が新の手を払いのけたことも。
黙したところで重輝には知られてしまうため、累寧はいつも兄にすべてを話す。
だが、聞いた重輝は困り笑顔で累寧を諭してきた。
「累寧、僕を信頼してくれるのは嬉しいよ。でもね、お前は今氷室家に迎え入れられ、氷室家の人間としてここにいる。継嗣となる子への虐待なんて、言いふらすものではないよ」
「でも、口にしなくても兄様には聞かれてしまうでしょう?」
結局知られてしまうのならば、話しても話さなくても変わらないのではないかと思う。そう告げると、重輝は珍しく厳しい表情を作った。
「だとしても、言葉にしたということは相手に伝えようとしたということだ。異能で勝手に読まれてしまったという状況とは違う」
前者は当人の意志で伝えることで、後者は当人の意志とは関係なく知られてしまうこと。結果として相手が同じ内容を知ってしまうとしても、当人の意志という意味ではまったく違うのだと説明される。
確かにその通りだ。
今の累寧の行動は、口が軽い者のように家のことをぺらぺらと他家の者に話していることと同義。いずれは上級華族の氷室家当主の妻として家を切り盛りしなければいけない者として、それではいけない。
「わかったわ、お兄様」
いくら信頼している兄だとしても、黙しても知られてしまうのだとしても、自ら話すわけにはいかないのだ。
理解し反省するが、してしまったことは変えられないため少し落ち込む。
無意識に項垂れた累寧だったが、いつもそうしてくれるように重輝が優しく頭を撫でてくれたため、気分が少し上向いた。
「とにかく、多少の問題はあってもうまくやれているならよかったよ」
「兄様……」
安堵した兄の様子に、本当に心配させてしまっていたのだなと思う。
これからは重輝も嫁を迎えたり、家の存続のために動いたりと忙しくなるのだから、あまり心配をかけるわけにはいかない。
しっかりしなければ! ……などと思っていたのに、続いた重輝の言葉に累寧は思わず身を乗り出した。
「でも、今は稀凰のことで悩んでいるんだね? 新くんの手を払いのけた稀凰が傷ついた顔をしていた、か……」
「そうなの、稀凰様は人に触れられるのを嫌がると早苗様がおっしゃっていたから、それが原因だと思うけれど……でも、あんなに傷ついた顔をする意味がわからなくて」
ここ最近ずっと胸にあった靄を解消したくて、つい相談してしまう。
人に触れられるのを嫌がると聞いたが、気安く重輝に絡んでいる稀凰の姿を覚えている。
早苗の言うことが真実なのか、触れるられる人とそうでない人が分けられているのか。それすらもわからない状態なのだから、致し方ないと思う。
「稀凰が人に触れられるのを嫌がるというのは、事実だよ。……これは稀凰に口止めされていたことだけれど、夫婦となるのだから累寧は知っておいた方がいいだろう」
真面目な顔で話す重輝に、累寧は背筋を伸ばす。口止めされていたことを話してくれるのだ、真剣に聞かなくては。
それに、稀凰の問題を解消することができれば、新が彼に拒絶されて泣いてしまうようなことは避けられるかもしれない。
「聞かせて、兄様」
自分と同じ色の目を見つめながら促すと、重輝は一呼吸おいてから口を開いた。
「稀凰が人に触れるのを嫌がるのは——いや、恐れているのは、幼い頃人を凍らせてしまったからだそうだ」
五つの頃だったらしい。屋敷で使用人の子と遊んでいた際、不審者が屋敷に忍び込んできて稀凰は攫われかけたのだそうだ。
華族は妖の異能を持つ者たち。その力を悪用したいと思う者にとって、幼い華族の子は狙い目だ。幼いうちにかどわかし、都合のいいようにしつけるのだという。
実際昔から華族の子を標的とした誘拐事件は定期的に起こる。稀凰のことも、そういう事件の一つだったのだろう。
ただ、稀凰はそのときに氷鬼としての異能に目覚め、誘拐犯を凍らせたためかどわかされることはなかった。
「犯人を凍らせたことを気に病んでいるということですか?」
話の流れから推測し問う。
いくら誘拐犯だとしても、自分の力で人が凍っていく様を見るのは衝撃だったろう。幼いのならば尚更。
そう思い聞いたのだが、重輝は沈痛な面持ちで首を横に振った。
「犯人だけなら、自業自得だったし心の傷となることはなかっただろうね。問題は、発現したばかりの異能の制御ができず、助けようとしてくれた使用人の子まで凍らせてしまったことだよ」
「そんな……」
「幸い命に別状はなかったけれど、凍傷の後遺症で手足にしびれが残ってしまったらしい」
それは、心の傷にもなるだろう。
制御できない力が、少し前まで共に遊んでいた相手を攻撃してしまった上に、一生残る障害を負わせてしまったのだ。
いくら嫌いな稀凰のことだとしても、幼い頃の彼の心情を思うと胸の内が重く苦しくなった。
そのときの心の傷が、他人に触れられるとまた凍らせてしまうかもしれないという恐怖になっているのだと重輝は語る。
「そんな恐怖から他人を拒絶し、稀凰は学校でもずっと一人だった。僕が彼と親しくできたのは、僕にはすべて見透かされてしまうと知っているからだよ」
「どういうこと?」
軽く眉を寄せながら累寧は問う。
心の内を見透かされてしまう方が普通は恐怖のはずだ。なのに何故? と。
「稀凰はね、触れられること自体に恐怖するようになってしまったせいか、他人と接触しただけでも力が制御できなくなるほど揺れ動いてしまう状態になっていたんだ。もともと力が強いことも災いしてしまったんだろうね」
累寧の疑問に、重輝は丁寧に答えてくれる。
「そんな彼の恐怖や緊張を僕がすべて読み取ってしまった。もちろん初めはあの稀凰でも動揺していたし、読み取られたくないと距離を取られたよ。でも、自分のすべてを知っている相手というのは、逆に言うと隠す必要のない相手ともいえる」
稀凰の心を読み取ってしまってからしばらくして、重輝は彼に言われたのだそうだ。
「『なにも隠せない……隠す必要のない者の近くは、こんなに心落ち着く場所だったんだな』って。そうして落ち着けるからか、稀凰は僕に触れても異能を暴走させることはなくなったんだ」
他の人には相変わらずだけれどね、と困り笑顔で笑う重輝を見て、累寧は視線を落としながらも僅かに笑みを浮かべる。
なぜなら、そのときの稀凰の気持ちが少しわかるような気がしたから。
自分も、両親から愛されないことで不安や傷を心に負っていた。
でも、重輝はそのすべてを受け止め、優しく包み込んでくれたのだ。あの安心感は……救われたような感覚は、どう言い表せばいいのかわからない。
それと似たようなものを稀凰も感じたのかもしれない。
僅かに親近感を覚えたが、付け加えるように重輝が口にした言葉で、覚えたばかりの親しみは一気に冷えた。
「まあ、そのせいで上級華族のみが受ける実習につき合わされたり、大変な目に遭うことも増えてしまったけれど」
あはは、と仕方なさそうに笑う重輝を累寧はじとりと見据える。
「『あはは』ではないでしょう、兄様。そうして兄様を振り回すから私はあの男——こほん、稀凰様が大嫌いなのよ?」
「累寧、呼び方だけ言い直してもその後の言葉が失礼だから意味がないよ」
呆れながら累寧を窘めた重輝は、力が抜けるように息を吐いてから彼らしい包み込むような優しい笑みを浮かべる。
「僕との関わりもあって色々思うところはあるかもしれないけど、稀凰は優しい人間だよ。どういった経緯であろうとも夫婦となったんだから、家族としてよく見てあげてくれ。……累寧の兄として、稀凰の親友として、お願いするよ」
すべてを見透かすような目。それでいて知ったことをひけらかすことはせず、すべてを受け入れ包み込むような広い心を持つ兄の言葉に、累寧はゆっくりと目を閉じる。
本当は累寧も知っているのだ、稀凰が優しい人間だということを。
彼は重輝を振り回すが、同時に下級華族と侮られやすい重輝を守ってくれている。累寧ともよく嫌味を言い合うが、それを不敬だと怒ることもない。
冷たい印象で周囲を突き放す稀凰だが、それらも彼の優しさからくる行動なのだということも今知った。
顔を合わせれば嫌味を言い合う天敵とも言える相手なので、彼が優しいということを認めるのは少々癪だが、大事な兄の頼みだ。新にとっても、両親の仲が悪いというのはあまりよくないだろう。
(もう少し、寄り添ってみた方がいいかもしれないわね)
なんとなく悔しい気持ちもあるが、重輝の言うことも最もなので、累寧は唇を尖らせながらも頷いた。
「……わかったわ」
はつは早苗の指示通りその日のうちに氷室家を出され、新に接触することはなくなった。
ただ、夜の間に新を見ていられる女中をすぐに用意することはできないため、しばらくは累寧が夜も世話をすることになった。
夜泣きはあるが、ほとんどが一晩に一度で、多くても二度だと聞いていたのでそこまで負担ではないと思っていたのだが……通常は朝まで眠っているところを途中で起こされるというのは、想像していたより大変なことだった。
しかも起きてあやせばいいだけではなく、おむつを替えなければならないことも多い。それに新はすぐに寝てくれるとも限らず、なにをしてもしばらく泣き続けることもあった。
翌朝、大人たちの朝食が済んでから少し早い昼寝をさせてもらっているのと、おむつなどの処理は他の女中が合間を縫ってやっていてくれているからこそなんとか笑顔を保っているところだ。
虐待はどんな理由があっても許せないが、はつが苛々してしまう気持ちが少しわかってしまった。
世の母親はこれを子を産んだ後すぐにやっているのかと思うと、頭が上がらない。しかも生まれたては夜泣きも授乳の感覚も短いのだと聞いて、意識が飛びそうになった。
しかし、どんなに辛くとも多少は慣れるようで、一週間もすれば他のことへ意識を向ける余裕も少しは出てくる。
そうして考えるのは稀凰のことだ。
新の伸ばした手を振り払ったときの彼は、誰よりも傷ついているように見えた。一番悲しいのは手を振り払われた新のはずなのに、なぜ大の男の苦しげな顔の方が気になってしまうのか……。
嫌いな男のことで思い悩んでしまう自分がまた腹立たしく、もやもやと消化できない感情をため込んでいたある日の午後、兄の重輝が累寧を訪ねて氷室家へとやってきた。
「どうしたの兄様、突然訪ねてくるなんて」
新を早苗と女中に任せて応接間で兄を迎えた累寧は、久しぶりに会う兄へ驚きを混ぜた笑みを向ける。
だが、累寧の言葉に重輝の方が驚いていた。
「突然って……稀凰に今日訪ねると伝えていたはずなんだけれど。ここへ案内してくれた女中は聞いている様子だったし、家には伝えていたみたいだけれど……稀凰、累寧には伝えていなかったのかい?」
まさかの、自分だけが知らないという状況だったらしい。
契約結婚で夫婦の仲を深める必要もないため、二人きりで会うことは初日の夜以外なかった。特にこの一週間稀凰は食事も自室で取っているようで、顔を合わせることすらない。
はつを追い出したあの日、新の手を撥ね退けたことを気にしているのかもしれないが、兄の来訪予定くらい教えてくれてもいいのではないだろうか。
女中が知っているのなら早苗も知っていたのだろうし、話してくれれば——と思うが、もしかすると稀凰が伝えていると思ったのかもしれない。
(これは、後でお話合いが必要かもしれないわね)
今回は親しい身内だからよかったが、気難しい相手や上位の相手であればお叱りを受けるだけでは済まないかもしれない。このままなかったことに、というわけにもいかないだろう。
「……どうやら、手違いがあったようだね」
心の声が聞こえてしまったのか、それとも単純に察しただけなのか。いや、そのどちらもだろう。重輝の困り笑顔には、累寧を気遣う様子が見て取れた。
重輝には誤魔化しも通用しないので、累寧は諦めたように微笑み来訪の目的を聞く。
「そうみたい。それで兄様、どうしたの? 森村家でなにかあったのかしら?」
「森村家でなにか、じゃないよ。累寧の様子を見に来たに決まっているだろう?」
呆れた、とばかりに大きなため息を吐いた重輝に、累寧は遅ればせながらそうかと納得した。
優しい兄だ。この契約結婚自体初めは反対していたし、心配してくれたのだろう。
その心遣いに感謝し、累寧は氷室家であったことを洗いざらい話した。屋敷の者たちは皆やさしいこと。新の可愛さ。そんな新を乳母が虐待していたことが発覚し、屋敷から追い出したこと。
そして、稀凰が新の手を払いのけたことも。
黙したところで重輝には知られてしまうため、累寧はいつも兄にすべてを話す。
だが、聞いた重輝は困り笑顔で累寧を諭してきた。
「累寧、僕を信頼してくれるのは嬉しいよ。でもね、お前は今氷室家に迎え入れられ、氷室家の人間としてここにいる。継嗣となる子への虐待なんて、言いふらすものではないよ」
「でも、口にしなくても兄様には聞かれてしまうでしょう?」
結局知られてしまうのならば、話しても話さなくても変わらないのではないかと思う。そう告げると、重輝は珍しく厳しい表情を作った。
「だとしても、言葉にしたということは相手に伝えようとしたということだ。異能で勝手に読まれてしまったという状況とは違う」
前者は当人の意志で伝えることで、後者は当人の意志とは関係なく知られてしまうこと。結果として相手が同じ内容を知ってしまうとしても、当人の意志という意味ではまったく違うのだと説明される。
確かにその通りだ。
今の累寧の行動は、口が軽い者のように家のことをぺらぺらと他家の者に話していることと同義。いずれは上級華族の氷室家当主の妻として家を切り盛りしなければいけない者として、それではいけない。
「わかったわ、お兄様」
いくら信頼している兄だとしても、黙しても知られてしまうのだとしても、自ら話すわけにはいかないのだ。
理解し反省するが、してしまったことは変えられないため少し落ち込む。
無意識に項垂れた累寧だったが、いつもそうしてくれるように重輝が優しく頭を撫でてくれたため、気分が少し上向いた。
「とにかく、多少の問題はあってもうまくやれているならよかったよ」
「兄様……」
安堵した兄の様子に、本当に心配させてしまっていたのだなと思う。
これからは重輝も嫁を迎えたり、家の存続のために動いたりと忙しくなるのだから、あまり心配をかけるわけにはいかない。
しっかりしなければ! ……などと思っていたのに、続いた重輝の言葉に累寧は思わず身を乗り出した。
「でも、今は稀凰のことで悩んでいるんだね? 新くんの手を払いのけた稀凰が傷ついた顔をしていた、か……」
「そうなの、稀凰様は人に触れられるのを嫌がると早苗様がおっしゃっていたから、それが原因だと思うけれど……でも、あんなに傷ついた顔をする意味がわからなくて」
ここ最近ずっと胸にあった靄を解消したくて、つい相談してしまう。
人に触れられるのを嫌がると聞いたが、気安く重輝に絡んでいる稀凰の姿を覚えている。
早苗の言うことが真実なのか、触れるられる人とそうでない人が分けられているのか。それすらもわからない状態なのだから、致し方ないと思う。
「稀凰が人に触れられるのを嫌がるというのは、事実だよ。……これは稀凰に口止めされていたことだけれど、夫婦となるのだから累寧は知っておいた方がいいだろう」
真面目な顔で話す重輝に、累寧は背筋を伸ばす。口止めされていたことを話してくれるのだ、真剣に聞かなくては。
それに、稀凰の問題を解消することができれば、新が彼に拒絶されて泣いてしまうようなことは避けられるかもしれない。
「聞かせて、兄様」
自分と同じ色の目を見つめながら促すと、重輝は一呼吸おいてから口を開いた。
「稀凰が人に触れるのを嫌がるのは——いや、恐れているのは、幼い頃人を凍らせてしまったからだそうだ」
五つの頃だったらしい。屋敷で使用人の子と遊んでいた際、不審者が屋敷に忍び込んできて稀凰は攫われかけたのだそうだ。
華族は妖の異能を持つ者たち。その力を悪用したいと思う者にとって、幼い華族の子は狙い目だ。幼いうちにかどわかし、都合のいいようにしつけるのだという。
実際昔から華族の子を標的とした誘拐事件は定期的に起こる。稀凰のことも、そういう事件の一つだったのだろう。
ただ、稀凰はそのときに氷鬼としての異能に目覚め、誘拐犯を凍らせたためかどわかされることはなかった。
「犯人を凍らせたことを気に病んでいるということですか?」
話の流れから推測し問う。
いくら誘拐犯だとしても、自分の力で人が凍っていく様を見るのは衝撃だったろう。幼いのならば尚更。
そう思い聞いたのだが、重輝は沈痛な面持ちで首を横に振った。
「犯人だけなら、自業自得だったし心の傷となることはなかっただろうね。問題は、発現したばかりの異能の制御ができず、助けようとしてくれた使用人の子まで凍らせてしまったことだよ」
「そんな……」
「幸い命に別状はなかったけれど、凍傷の後遺症で手足にしびれが残ってしまったらしい」
それは、心の傷にもなるだろう。
制御できない力が、少し前まで共に遊んでいた相手を攻撃してしまった上に、一生残る障害を負わせてしまったのだ。
いくら嫌いな稀凰のことだとしても、幼い頃の彼の心情を思うと胸の内が重く苦しくなった。
そのときの心の傷が、他人に触れられるとまた凍らせてしまうかもしれないという恐怖になっているのだと重輝は語る。
「そんな恐怖から他人を拒絶し、稀凰は学校でもずっと一人だった。僕が彼と親しくできたのは、僕にはすべて見透かされてしまうと知っているからだよ」
「どういうこと?」
軽く眉を寄せながら累寧は問う。
心の内を見透かされてしまう方が普通は恐怖のはずだ。なのに何故? と。
「稀凰はね、触れられること自体に恐怖するようになってしまったせいか、他人と接触しただけでも力が制御できなくなるほど揺れ動いてしまう状態になっていたんだ。もともと力が強いことも災いしてしまったんだろうね」
累寧の疑問に、重輝は丁寧に答えてくれる。
「そんな彼の恐怖や緊張を僕がすべて読み取ってしまった。もちろん初めはあの稀凰でも動揺していたし、読み取られたくないと距離を取られたよ。でも、自分のすべてを知っている相手というのは、逆に言うと隠す必要のない相手ともいえる」
稀凰の心を読み取ってしまってからしばらくして、重輝は彼に言われたのだそうだ。
「『なにも隠せない……隠す必要のない者の近くは、こんなに心落ち着く場所だったんだな』って。そうして落ち着けるからか、稀凰は僕に触れても異能を暴走させることはなくなったんだ」
他の人には相変わらずだけれどね、と困り笑顔で笑う重輝を見て、累寧は視線を落としながらも僅かに笑みを浮かべる。
なぜなら、そのときの稀凰の気持ちが少しわかるような気がしたから。
自分も、両親から愛されないことで不安や傷を心に負っていた。
でも、重輝はそのすべてを受け止め、優しく包み込んでくれたのだ。あの安心感は……救われたような感覚は、どう言い表せばいいのかわからない。
それと似たようなものを稀凰も感じたのかもしれない。
僅かに親近感を覚えたが、付け加えるように重輝が口にした言葉で、覚えたばかりの親しみは一気に冷えた。
「まあ、そのせいで上級華族のみが受ける実習につき合わされたり、大変な目に遭うことも増えてしまったけれど」
あはは、と仕方なさそうに笑う重輝を累寧はじとりと見据える。
「『あはは』ではないでしょう、兄様。そうして兄様を振り回すから私はあの男——こほん、稀凰様が大嫌いなのよ?」
「累寧、呼び方だけ言い直してもその後の言葉が失礼だから意味がないよ」
呆れながら累寧を窘めた重輝は、力が抜けるように息を吐いてから彼らしい包み込むような優しい笑みを浮かべる。
「僕との関わりもあって色々思うところはあるかもしれないけど、稀凰は優しい人間だよ。どういった経緯であろうとも夫婦となったんだから、家族としてよく見てあげてくれ。……累寧の兄として、稀凰の親友として、お願いするよ」
すべてを見透かすような目。それでいて知ったことをひけらかすことはせず、すべてを受け入れ包み込むような広い心を持つ兄の言葉に、累寧はゆっくりと目を閉じる。
本当は累寧も知っているのだ、稀凰が優しい人間だということを。
彼は重輝を振り回すが、同時に下級華族と侮られやすい重輝を守ってくれている。累寧ともよく嫌味を言い合うが、それを不敬だと怒ることもない。
冷たい印象で周囲を突き放す稀凰だが、それらも彼の優しさからくる行動なのだということも今知った。
顔を合わせれば嫌味を言い合う天敵とも言える相手なので、彼が優しいということを認めるのは少々癪だが、大事な兄の頼みだ。新にとっても、両親の仲が悪いというのはあまりよくないだろう。
(もう少し、寄り添ってみた方がいいかもしれないわね)
なんとなく悔しい気持ちもあるが、重輝の言うことも最もなので、累寧は唇を尖らせながらも頷いた。
「……わかったわ」



