氷室家に来てから数日。
累寧の役割は契約通りほぼ新の世話兼遊び相手となっていた。
家政も少しはした方がいいかとも思ったが、森村家とは違い女中も多くいる氷室家では掃除洗濯料理などはする必要がなかった。
人を回すための指示はできるようになった方がいいようだが、それは早苗の仕事なので今すぐに覚える必要はないとのこと。
その早苗の指示で、まずは新の世話をしつつ屋敷に慣れていくということになったのだ。
愛らしい新と楽しく暮らすだけの日々に、これでいいのだろうかと思うこともあったが、今は親子の絆を深めるときなのだろうと割り切ってもいた。
そんな日々の中、一つ、どうしても見逃せないことがあった。
「……また、痣が増えているわ」
朝、新のおむつの交換をしていると、腿の辺りになにかにぶつけたような痣を見つける。
肩の辺りにも治りかけの青痣があるが、体中をよく見れば他にも痣があったと思われる薄茶色の跡があった。
はつは新がやんちゃなため、色々なところにぶつかってしまうのだと言っていたが……。
だとしても、痣になるほど強く打ち付けることがそう頻繁にあるだろうか?
おむつの洗濯をしたり、食事の準備をしたりと常に新を見守ることは出来ないだろうが、それでも短期間のうちに痣がいくつもできるのは異常だ。増して、今は日中のみとはいえ累寧が新の世話をほとんどしているのだ。以前より見守りが足りないということはないはずなのだが……。
それに、はつは新のことをやんちゃだというが、累寧が見ている限りでは大人しい子だ。目を離せば少々危うい場所へ向かおうとすることもあるが、基本的には部屋でちりめん本を眺めたり毬で遊んだりして過ごしている。
はつを疑いたくはないが、初対面の挨拶で新が泣いたときに見せた嫌悪の表情や、所々で嘘をついているように見られる部分を考慮すると……新の痣の原因ははつなのではないかと思えてしまう。
「新くん、この太ももの痣、どうしたの?」
聞いてもわからないかもしれないが、まずは本人に聞いてみようとおむつを替え終えてから問いかけてみる。
しかしよくわかっていないのか、きょとんとした表情をするので重ねて聞いてみた。
「太ももにぶつけた痕があったの。痛くない?」
「えんえんして、いたいいたいしたの」
答えは返ってきたが、いまいち要領を得ない。幼いのだから仕方がないし、出会って数日の累寧では意図を想像することも難しい。
泣いて、痛いことをした。という意味だろうが、実際に何があったのかはわからずじまいだ。
(どうしましょう……何があったか知る方法はあるのだけれど……)
だが、その方法は相手の許可を取るべきものだ。ある程度話を理解できる者ならば何をするのかを話して、許可を取ってから実行すべきこと。
新から許可を取ることは難しいため、本来ならば実行してはいけないのだが……。
(でも、原因がはつさんでなかったとしたら、なにかの病気ということもあるわよね?)
もしそうだとしたら、早めに医師に診せた方がいいのではないかとも考える。
実行するかしないのか……二つを天秤にかけて揺れ動き、最終的には実行する方に天秤は傾いた。
(少しだけ。痣の原因がわかったらすぐにやめるわ)
累寧は自分で止める境界線を引いて、新に語り掛ける。
「新くん。義母様ね、あなたのことが心配なの。だからちょっとだけ、心を見せてね?」
「う?」
話しても、やはり理解できないのか新は不思議そうに首をこてんと傾けるだけだった。
その可愛いふくふくとした頬を両手で包みながら、罪悪感に胸が痛む。
それでも、やると決めたのだ。
累寧はそのまま新の額に自分のそれをくっつける。そして、意識を新の中へ向け自身の異能を使った。
累寧の異能は兄の重輝や一族のものとはかなり異なる。
心を読む、という点では同じかもしれないが、心の声を聞いたり読み取ったりというものではなく、相手の心に直接入って見るのだ。
心に直接触れるような行為のため相手の心を変化させることもある危険な異能だが、今のように額をくっつけなければならないためそう簡単には使えない。
今回は新の痣の原因を知りたいだけなので、言葉で誘導しそこだけ見るつもりだ。
「新くん。足の痣、いたいいたいしたときのことを思い出して?」
「いたいいたい、のとき? んー?」
困ったように聞き返されたが、本人がはっきり思い出せなくとも心にはちゃんと刻まれている。累寧は、それを見に行くだけなのだ。
「少しだけ、じっとしていてね」
囁くように告げ、目を閉じる。
すると意識が引っ張られるような感覚に陥り、次に目を開けたときには周囲は暗闇に包まれていた。しかしよく見ると部屋は今いるのと同じ新の部屋だ。
その部屋の中では、夜泣きなのか新の泣き声が響いていた。
敷かれている布団を見ると、掛け布団を蹴り飛ばしながら泣く新がいる。
はつはどうしたのかと辺りを見回すと、丁度襖を開けて入ってくるのが見えた。
ただしその顔は、初対面の日に見た嫌悪に近い表情で……。
『毎晩毎晩……うるさいわねぇ』
苛立ちがあらわになった目だけが、暗闇の中光っているように見える。
新もはつが来たことに気づき一度泣き止んだが、彼女の様子を感じ取ったのか、また泣き始めた。
『うるさいって言っているでしょうが!』
はつは叫んで新に近づくが、そのように声を荒げては逆効果だろう。案の定、新の泣き声はさらにひどく大きくなる。
はつの顔に浮かぶ嫌悪や苛立ちは、もはや憎しみに近い感情に変わっているように見えた。
彼女はその表情のまま、新に覆いかぶさるようにして片手で口をふさぎ、強制的に泣き声を上げられなくさせる。
『んー! んー!』
声は出せなくとも泣き続ける新はひたすら呻き暴れている。鼻は塞がれていないため息はできるだろうが、息苦しさは感じているだろう。
『まったく、なんで私がお前のようなお荷物の世話をしてたと思ってんのよ。時期当主様に見初めてもらうためでしかないっていうのに、あんなぽっと出の小娘にその立場を搔っ攫われるなんて』
新を押さえつけながら、はつは忌々しげに語る。
『せめてお前が懐かなければお役御免にできたかもしれないってのに……へらへらと懐きやがって!』
怒りの語調で新を睨んだはつは、今度はまるでいいことを思いついたかのように笑う。にたりとした、嫌らしい笑みだ。
『そうね、だからこれはお前への罰だよ。世話してやっている私をないがしろにした罪のね』
呪いのように囁いたはつは、空いているもう片方の手で新の太ももをつねった。
『んー! んんぅー!』
新は声に出せない状態で涙を浮かべながら叫び、これ以上見ていられなかった累寧は、頭が真っ白になりそうなほどの怒りを覚えながら目を閉じた。
「酷い……こんな、小さな子に……」
もう一度目を開けると、目の前にはいつもの愛らしい新の顔がある。こんなかわいい子に、どうしてあそこまで酷い仕打ちができるのか。
しかも、記憶の中のはつの言葉にはなんの正当性もなかった。ただ、自分の都合と感情だけで新を虐待していたのだ。
(なんて身勝手な!)
怒りと、虐待されたときの新の気持ちを考えて涙が浮かぶ。その頬を小さな手が軽くぺちぺちと叩いた。
「かあしゃま、なくない!」
(なくない?)
一瞬なんのことだろうと思ったが、すぐに『泣かないで』と言っているのだと気づいた。まだまだわからない言葉の方が多いが、少しずつ理解できるようになってきたようだ。
「ありがとう、新くん。慰めてくれているのね?」
感謝を込めて笑みを浮かべると、それ以上に明るい笑顔が返ってくる。
あのような目に遭っても、こんなに明るく笑っている新が愛おしかった。
促しても思い出せないようだったので、もしかすると忘れているだけなのかもしれないが。
眠っている合間でのことであるし、あのような恐ろしい目に遭ったのならば、ただの悪夢だったと心が判断し忘却という選択を無意識に取ったのかもしれない。
しかし記憶にはなくとも、心にはしっかり刻み込まれてしまっている。先ほど見た彼の記憶が明細だったことからもそれは伺えた。
刻まれ方が浅ければ、もう少し靄がかって見えるはずなのだから。
新の心に深く刻まれてしまったあの光景は、恐らく以前から何度もあったことなのだろう。痣がいくつもあるのだから、間違っている可能性は低い。
「新くん……あなたは、私が守るわ」
血のつながりがなくとも、自分は新の母なのだ。
誰よりもこの子を守るべきであるし、守りたいと強く思う。
小さく、柔らかな存在を腕で包み込み、ぎゅっと抱き締めた。
(とにかく、これ以上はつを新の乳母にはしておけないわ)
女中の采配を振るっているのは早苗だ。いま見たことを伝え、はつを解雇してもらわなければ。
「新くん、ちょっとおばあ様のところに行きましょう」
抱き上げ立ち上がり告げると、「あい!」という元気な返事が返ってくる。
その愛しさに彼の身体をぎゅっと抱きしめた累寧は、早苗の下に向かった。
***
いまはまだ早朝と言える時間帯。
この時刻ならば早苗は厨で朝食の采配を振るっているだろう。
仕事の邪魔をする形になってしまうかもしれないが、これは急ぎ伝えたほうがいい案件だ。
厨へ向かいながら話すべきことを頭の中で整理していると、おむつの処理から戻ってきたはつと鉢合わせしてしまった。
「あら? 累寧様、もうすぐ朝食だというのにどちらへ行こうとなさっているのですか?」
「はつさん……」
なるべく動揺しないように気をつけたつもりだったが、はつを嫌悪する感情が顔に現れてしまっていたのだろう。それほどに、先ほど見た新の記憶は辛く怒りが湧いてくるものだった。
累寧の表情を見たはつは、それだけで何かを察したのだろう。すっとにこやかな笑みを消し探るような目を累寧に向ける。
「どうなさったのですか? 厨へ向かおうとしていた様子ですけれど……新様を連れていっては危ないですよ? なにかご用事があるのでしたら、私が新様を見ていますから」
そう言って伸ばされた手を、累寧は思わず避けるように後退りした。小さな子を虐待するような人に、新を触れさせたくない。
「累寧様、本当にどうなさったのですか?」
眉間にしわを寄せ強い不満を表してくるはつに、累寧はどう対応すべきか悩む。
早く早苗に伝えに行きたいが、はつが通してくれないと厨へは行けない。新をはつに預けられない理由を伝えなければ彼女は納得しないようだったが、まさかあなたが虐待しているからだ、なとど正直に伝えるわけにもいかないだろう。
悩んだ累寧は、単純に新の痣が気になって早苗に見てもらおうとしているのだと伝えようとした。
「その、新くんの痣が——」
「まあ! 新様の痣は、やはり累寧様の所為だったのですね!」
「え?」
だが、新の痣という言葉を口にした途端、はつはまるでそれを待っていたかのように大きな声を出す。
「最近新様のお身体に不自然な痣が増えたと思っていましたが……累寧様が虐待なさっていたなんて!」
「なにを言っているの!?」
はつの言葉も意味がわからないが、突然叫ばれて困惑する。
そうしているうちに、手の空いている使用人たちが何人か様子を見にきたようだ。周囲から「なに?」「どうした?」という声が聞こえてきて、騒ぎを聞きつけたのか厨の方から早苗もやってきた。
「なんの騒ぎですか?」
「あ、早苗様——」
早苗に気づき、新の痣のことを伝えようとしたが、それを遮るようにまたはつの大きな声が上がる。
「太ももの痣もあなたの仕業だったのですね、累寧様! 酷い……このような幼い子を虐待するなんて!」
「なっ!? はつ、あなた……!」
まるで周囲に聞かせているような様子に、累寧はやっと気がついた。はつは、新の虐待を累寧がやったことにしようとしているのだ。
「どういうことです? 累寧さんが新を虐待? まさか、そんなこと……」
はつの叫びを聞いた早苗は信じられないように困惑しているが、このまま累寧が何も言わなければはつの言い分を信じてしまうかもしれない。
自分が追い出されるようなことにだけはならないようにしなくてはと思った累寧は、慌てて否定の声を上げた。
「私はそのようなことしていません! 虐待していたのはあなたでしょう、はつさん!」
「まあ! なんという嘘を! そこまで根性の悪い方だとは思いませんでしたわ!」
ああ言えばこう言うといった様子で、はつは累寧を責める言葉を次々と吐き出す。
根性悪はどちらだ! と叫びたいところだったが、これではただの水掛け論だ。なにかはつが虐待しているのだという確たる証拠を提示しなくては。
考えながら、新だけは何としても守らなければと抱く力を強めていると、はつのぎらついた目が腕の中の新へと向けられた。
「新様、こちらにいらしてください! あなたをこんな性悪女になどまかせて置けません!」
「ひっ」
怒声に近い叫びを聞き、新は小さな体をびくりと震わせ累寧の着物をぎゅっとつかむ。新が状況をしっかり理解できているとは思えないが、はつの下へは行きたくないとその全身で発していた。
なのに、はつは新の様子など気にも留めずその柔らかな腕を強引につかみ、そのまま力まかせに引っ張った。
思わずはつに奪われないようにと新の身体をきつく抱くが、はつはその分更に強く引っ張ったようだ。新の悲鳴が廊下に響く。
「いたい! やあぁー!」
「新くん!?」
痛がる新の声を聞き、無意識に腕を緩める。はつに渡すわけにはいかないが、新が苦しむ方こそ捨て置けない。
腕を引かれている新が落ちないよう支えるだけの状態になったとき、誰かがさっと近づき累寧とはつの間に入った。
途端にはつが新の腕を離したため、累寧は慌てて新の身体を受け止める。少しよろけてしまったが、なんとか落とさず抱きとめることができた。
「かーしゃまぁ……」
半泣きの状態で累寧に縋りつく新の頭を撫で、つかまれていた腕を確認する。
かなり強くつかまれていたようで、はつの手形がしっかり残っていた。痛々しさに眉を寄せるが、まずは現状確認をと思い顔を上げる。
そうして見えた光景は、軍服を着た雪色の髪の男性が、鞘に納めたままの刀をはつの首に当てているものだった。
鞘がなければ、薄皮一枚は切れていただろう。
この屋敷で軍服を着ている人物は当主か稀凰だけ。艶のある髪を見れば、初老の当主ではなく稀凰なのだと後ろ姿だけでもわかった。
「話は聞かせてもらった。累寧どのは口うるさいが、子供をひどく扱うことはない。虐待しているのだとしたらお前だろう? 新の乳母としてこの屋敷に来てから、新のことを口実にして俺に会おうとしていたようじゃないか」
低く冷徹な声音が響き、場が凍り付いたように静まる。まるで、彼が氷鬼としての力を使っているときのようだ。
重輝からの話でしか聞いたことはないが、稀凰は戦いの場で敵を凍りで縛りその場に留めるのだという。その話と同じように、この場にいる者たちは僅かも動けない様子だった。
特に青灰色の鋭い目で睨まれているであろうはつは、顔面蒼白で氷に身を包まれたかのよう。
そんな凍てつく空気の中動いたのは、早苗だった。
ゆっくりと、累寧の下へ来て新の腕に残る手形を見て眉間にしわを寄せる。そして新の着物の裾をめくり痣を確認すると、しわは更に深く刻まれる。
「私のせいね、まさかこんなことをする者を雇い入れてしまっていたなんて……」
自責の言葉を吐き出し、真っ直ぐ背筋を伸ばした早苗ははつを見る。
そして、稀凰に劣らぬほど冷たい声で告げた。
「今の様子を見ただけでもどちらの言い分が正しいのかは明らかです。はつ、あなたを解雇します。今日中に荷物を纏めて出ていきなさい」
「あ、ああぁ……」
早苗の宣言にはつは頽れる。
そんな彼女を冷たく見下ろした早苗は、手の空いている者に指示を出しはつを任せ、他の者たちに朝の支度を再開させるように告げた。
「急がないと、旦那様と稀凰がお仕事に遅れてしまうわ」
せっつくように皆を追い立てた早苗は、最後に累寧へと向き直り手を取る。その手の柔らかさと温かさに、累寧は驚いた。
「累寧さん、新の痣に気づいてくれてありがとう。これからも、新をお願いね」
母として、祖母としての柔らかな笑みにどこかくすぐったい心地になる。このような笑み、実母から向けられたことなどなかったのだから。
「は、はい」
気恥ずかしさを覚えながら返事をすると、早苗は新の柔らかな雪色の髪をもう一度撫でる厨房へと戻って行った。
後に残されたのは、新を抱いた累寧と刀を腰に戻している稀凰だけ。
無言の稀凰と共にいることがなんだか気まずかったのと、助けてもらったのだからお礼くらいは言った方がいいだろうという思いから累寧は口を開く。
「稀凰様、助けていただきありがとうございます」
「いや、新をあのような女に預けるわけにはいかないし、累寧どののことは契約書にも書いたからな」
そっけなく返ってきた言葉に、累寧は重輝が契約の書面に付け加えた一文を思い出した。『累寧が嫌がることはしない』と言って書き加えた部分には、『累寧を守る』という文面もあった。
あの文を書き加えてくれた兄に感謝しつつも、稀凰には呆れる。
(この人、お礼も素直に受け取れないのかしら)
相変わらず愛想のない男だと思うが、今回は助けてもらった立場だ。いつものように言い返すことはせずにおこう。
ため息だけを零し文句を押し込めていると、腕の中の新が身じろぐ。
見ると、新はじっと稀凰の方を見つめていた。明るい茶色の清らかな目には、稀凰がどのように映っているのだろう。
見守っていると、にぱっと笑った新は稀凰に手を伸ばす。
「とーしゃま」
なんと、新は稀凰をちゃんと義父と認識していたようだ。
二人が顔を合わせたところを見たことはなかったが、一応親としての務めは果たしているということだろうか。
などと考えていたが、稀凰の取った行動に息を呑んだ。
「触るな!」
ぱしん! と、伸ばされた小さな手を稀凰は払いのける。
一瞬驚いて目を丸くした新は、次の瞬間わっと泣き出した。
「なにをなさるのですか!?」
累寧は思わず非難して叫ぶが、新を拒絶したはずの稀凰の方が傷ついた顔をしている。
青灰色の目には、罪悪感と恐れがないまぜになったような色が揺れていた。
(どうして、そんな顔をなさるの?)
困惑していると、稀凰は苦しげに累寧と新から目を逸らし、この場を去って行ってしまう。
そのまま彼は朝食の場にも来ず、仕事へ向かっていってしまった。
累寧の役割は契約通りほぼ新の世話兼遊び相手となっていた。
家政も少しはした方がいいかとも思ったが、森村家とは違い女中も多くいる氷室家では掃除洗濯料理などはする必要がなかった。
人を回すための指示はできるようになった方がいいようだが、それは早苗の仕事なので今すぐに覚える必要はないとのこと。
その早苗の指示で、まずは新の世話をしつつ屋敷に慣れていくということになったのだ。
愛らしい新と楽しく暮らすだけの日々に、これでいいのだろうかと思うこともあったが、今は親子の絆を深めるときなのだろうと割り切ってもいた。
そんな日々の中、一つ、どうしても見逃せないことがあった。
「……また、痣が増えているわ」
朝、新のおむつの交換をしていると、腿の辺りになにかにぶつけたような痣を見つける。
肩の辺りにも治りかけの青痣があるが、体中をよく見れば他にも痣があったと思われる薄茶色の跡があった。
はつは新がやんちゃなため、色々なところにぶつかってしまうのだと言っていたが……。
だとしても、痣になるほど強く打ち付けることがそう頻繁にあるだろうか?
おむつの洗濯をしたり、食事の準備をしたりと常に新を見守ることは出来ないだろうが、それでも短期間のうちに痣がいくつもできるのは異常だ。増して、今は日中のみとはいえ累寧が新の世話をほとんどしているのだ。以前より見守りが足りないということはないはずなのだが……。
それに、はつは新のことをやんちゃだというが、累寧が見ている限りでは大人しい子だ。目を離せば少々危うい場所へ向かおうとすることもあるが、基本的には部屋でちりめん本を眺めたり毬で遊んだりして過ごしている。
はつを疑いたくはないが、初対面の挨拶で新が泣いたときに見せた嫌悪の表情や、所々で嘘をついているように見られる部分を考慮すると……新の痣の原因ははつなのではないかと思えてしまう。
「新くん、この太ももの痣、どうしたの?」
聞いてもわからないかもしれないが、まずは本人に聞いてみようとおむつを替え終えてから問いかけてみる。
しかしよくわかっていないのか、きょとんとした表情をするので重ねて聞いてみた。
「太ももにぶつけた痕があったの。痛くない?」
「えんえんして、いたいいたいしたの」
答えは返ってきたが、いまいち要領を得ない。幼いのだから仕方がないし、出会って数日の累寧では意図を想像することも難しい。
泣いて、痛いことをした。という意味だろうが、実際に何があったのかはわからずじまいだ。
(どうしましょう……何があったか知る方法はあるのだけれど……)
だが、その方法は相手の許可を取るべきものだ。ある程度話を理解できる者ならば何をするのかを話して、許可を取ってから実行すべきこと。
新から許可を取ることは難しいため、本来ならば実行してはいけないのだが……。
(でも、原因がはつさんでなかったとしたら、なにかの病気ということもあるわよね?)
もしそうだとしたら、早めに医師に診せた方がいいのではないかとも考える。
実行するかしないのか……二つを天秤にかけて揺れ動き、最終的には実行する方に天秤は傾いた。
(少しだけ。痣の原因がわかったらすぐにやめるわ)
累寧は自分で止める境界線を引いて、新に語り掛ける。
「新くん。義母様ね、あなたのことが心配なの。だからちょっとだけ、心を見せてね?」
「う?」
話しても、やはり理解できないのか新は不思議そうに首をこてんと傾けるだけだった。
その可愛いふくふくとした頬を両手で包みながら、罪悪感に胸が痛む。
それでも、やると決めたのだ。
累寧はそのまま新の額に自分のそれをくっつける。そして、意識を新の中へ向け自身の異能を使った。
累寧の異能は兄の重輝や一族のものとはかなり異なる。
心を読む、という点では同じかもしれないが、心の声を聞いたり読み取ったりというものではなく、相手の心に直接入って見るのだ。
心に直接触れるような行為のため相手の心を変化させることもある危険な異能だが、今のように額をくっつけなければならないためそう簡単には使えない。
今回は新の痣の原因を知りたいだけなので、言葉で誘導しそこだけ見るつもりだ。
「新くん。足の痣、いたいいたいしたときのことを思い出して?」
「いたいいたい、のとき? んー?」
困ったように聞き返されたが、本人がはっきり思い出せなくとも心にはちゃんと刻まれている。累寧は、それを見に行くだけなのだ。
「少しだけ、じっとしていてね」
囁くように告げ、目を閉じる。
すると意識が引っ張られるような感覚に陥り、次に目を開けたときには周囲は暗闇に包まれていた。しかしよく見ると部屋は今いるのと同じ新の部屋だ。
その部屋の中では、夜泣きなのか新の泣き声が響いていた。
敷かれている布団を見ると、掛け布団を蹴り飛ばしながら泣く新がいる。
はつはどうしたのかと辺りを見回すと、丁度襖を開けて入ってくるのが見えた。
ただしその顔は、初対面の日に見た嫌悪に近い表情で……。
『毎晩毎晩……うるさいわねぇ』
苛立ちがあらわになった目だけが、暗闇の中光っているように見える。
新もはつが来たことに気づき一度泣き止んだが、彼女の様子を感じ取ったのか、また泣き始めた。
『うるさいって言っているでしょうが!』
はつは叫んで新に近づくが、そのように声を荒げては逆効果だろう。案の定、新の泣き声はさらにひどく大きくなる。
はつの顔に浮かぶ嫌悪や苛立ちは、もはや憎しみに近い感情に変わっているように見えた。
彼女はその表情のまま、新に覆いかぶさるようにして片手で口をふさぎ、強制的に泣き声を上げられなくさせる。
『んー! んー!』
声は出せなくとも泣き続ける新はひたすら呻き暴れている。鼻は塞がれていないため息はできるだろうが、息苦しさは感じているだろう。
『まったく、なんで私がお前のようなお荷物の世話をしてたと思ってんのよ。時期当主様に見初めてもらうためでしかないっていうのに、あんなぽっと出の小娘にその立場を搔っ攫われるなんて』
新を押さえつけながら、はつは忌々しげに語る。
『せめてお前が懐かなければお役御免にできたかもしれないってのに……へらへらと懐きやがって!』
怒りの語調で新を睨んだはつは、今度はまるでいいことを思いついたかのように笑う。にたりとした、嫌らしい笑みだ。
『そうね、だからこれはお前への罰だよ。世話してやっている私をないがしろにした罪のね』
呪いのように囁いたはつは、空いているもう片方の手で新の太ももをつねった。
『んー! んんぅー!』
新は声に出せない状態で涙を浮かべながら叫び、これ以上見ていられなかった累寧は、頭が真っ白になりそうなほどの怒りを覚えながら目を閉じた。
「酷い……こんな、小さな子に……」
もう一度目を開けると、目の前にはいつもの愛らしい新の顔がある。こんなかわいい子に、どうしてあそこまで酷い仕打ちができるのか。
しかも、記憶の中のはつの言葉にはなんの正当性もなかった。ただ、自分の都合と感情だけで新を虐待していたのだ。
(なんて身勝手な!)
怒りと、虐待されたときの新の気持ちを考えて涙が浮かぶ。その頬を小さな手が軽くぺちぺちと叩いた。
「かあしゃま、なくない!」
(なくない?)
一瞬なんのことだろうと思ったが、すぐに『泣かないで』と言っているのだと気づいた。まだまだわからない言葉の方が多いが、少しずつ理解できるようになってきたようだ。
「ありがとう、新くん。慰めてくれているのね?」
感謝を込めて笑みを浮かべると、それ以上に明るい笑顔が返ってくる。
あのような目に遭っても、こんなに明るく笑っている新が愛おしかった。
促しても思い出せないようだったので、もしかすると忘れているだけなのかもしれないが。
眠っている合間でのことであるし、あのような恐ろしい目に遭ったのならば、ただの悪夢だったと心が判断し忘却という選択を無意識に取ったのかもしれない。
しかし記憶にはなくとも、心にはしっかり刻み込まれてしまっている。先ほど見た彼の記憶が明細だったことからもそれは伺えた。
刻まれ方が浅ければ、もう少し靄がかって見えるはずなのだから。
新の心に深く刻まれてしまったあの光景は、恐らく以前から何度もあったことなのだろう。痣がいくつもあるのだから、間違っている可能性は低い。
「新くん……あなたは、私が守るわ」
血のつながりがなくとも、自分は新の母なのだ。
誰よりもこの子を守るべきであるし、守りたいと強く思う。
小さく、柔らかな存在を腕で包み込み、ぎゅっと抱き締めた。
(とにかく、これ以上はつを新の乳母にはしておけないわ)
女中の采配を振るっているのは早苗だ。いま見たことを伝え、はつを解雇してもらわなければ。
「新くん、ちょっとおばあ様のところに行きましょう」
抱き上げ立ち上がり告げると、「あい!」という元気な返事が返ってくる。
その愛しさに彼の身体をぎゅっと抱きしめた累寧は、早苗の下に向かった。
***
いまはまだ早朝と言える時間帯。
この時刻ならば早苗は厨で朝食の采配を振るっているだろう。
仕事の邪魔をする形になってしまうかもしれないが、これは急ぎ伝えたほうがいい案件だ。
厨へ向かいながら話すべきことを頭の中で整理していると、おむつの処理から戻ってきたはつと鉢合わせしてしまった。
「あら? 累寧様、もうすぐ朝食だというのにどちらへ行こうとなさっているのですか?」
「はつさん……」
なるべく動揺しないように気をつけたつもりだったが、はつを嫌悪する感情が顔に現れてしまっていたのだろう。それほどに、先ほど見た新の記憶は辛く怒りが湧いてくるものだった。
累寧の表情を見たはつは、それだけで何かを察したのだろう。すっとにこやかな笑みを消し探るような目を累寧に向ける。
「どうなさったのですか? 厨へ向かおうとしていた様子ですけれど……新様を連れていっては危ないですよ? なにかご用事があるのでしたら、私が新様を見ていますから」
そう言って伸ばされた手を、累寧は思わず避けるように後退りした。小さな子を虐待するような人に、新を触れさせたくない。
「累寧様、本当にどうなさったのですか?」
眉間にしわを寄せ強い不満を表してくるはつに、累寧はどう対応すべきか悩む。
早く早苗に伝えに行きたいが、はつが通してくれないと厨へは行けない。新をはつに預けられない理由を伝えなければ彼女は納得しないようだったが、まさかあなたが虐待しているからだ、なとど正直に伝えるわけにもいかないだろう。
悩んだ累寧は、単純に新の痣が気になって早苗に見てもらおうとしているのだと伝えようとした。
「その、新くんの痣が——」
「まあ! 新様の痣は、やはり累寧様の所為だったのですね!」
「え?」
だが、新の痣という言葉を口にした途端、はつはまるでそれを待っていたかのように大きな声を出す。
「最近新様のお身体に不自然な痣が増えたと思っていましたが……累寧様が虐待なさっていたなんて!」
「なにを言っているの!?」
はつの言葉も意味がわからないが、突然叫ばれて困惑する。
そうしているうちに、手の空いている使用人たちが何人か様子を見にきたようだ。周囲から「なに?」「どうした?」という声が聞こえてきて、騒ぎを聞きつけたのか厨の方から早苗もやってきた。
「なんの騒ぎですか?」
「あ、早苗様——」
早苗に気づき、新の痣のことを伝えようとしたが、それを遮るようにまたはつの大きな声が上がる。
「太ももの痣もあなたの仕業だったのですね、累寧様! 酷い……このような幼い子を虐待するなんて!」
「なっ!? はつ、あなた……!」
まるで周囲に聞かせているような様子に、累寧はやっと気がついた。はつは、新の虐待を累寧がやったことにしようとしているのだ。
「どういうことです? 累寧さんが新を虐待? まさか、そんなこと……」
はつの叫びを聞いた早苗は信じられないように困惑しているが、このまま累寧が何も言わなければはつの言い分を信じてしまうかもしれない。
自分が追い出されるようなことにだけはならないようにしなくてはと思った累寧は、慌てて否定の声を上げた。
「私はそのようなことしていません! 虐待していたのはあなたでしょう、はつさん!」
「まあ! なんという嘘を! そこまで根性の悪い方だとは思いませんでしたわ!」
ああ言えばこう言うといった様子で、はつは累寧を責める言葉を次々と吐き出す。
根性悪はどちらだ! と叫びたいところだったが、これではただの水掛け論だ。なにかはつが虐待しているのだという確たる証拠を提示しなくては。
考えながら、新だけは何としても守らなければと抱く力を強めていると、はつのぎらついた目が腕の中の新へと向けられた。
「新様、こちらにいらしてください! あなたをこんな性悪女になどまかせて置けません!」
「ひっ」
怒声に近い叫びを聞き、新は小さな体をびくりと震わせ累寧の着物をぎゅっとつかむ。新が状況をしっかり理解できているとは思えないが、はつの下へは行きたくないとその全身で発していた。
なのに、はつは新の様子など気にも留めずその柔らかな腕を強引につかみ、そのまま力まかせに引っ張った。
思わずはつに奪われないようにと新の身体をきつく抱くが、はつはその分更に強く引っ張ったようだ。新の悲鳴が廊下に響く。
「いたい! やあぁー!」
「新くん!?」
痛がる新の声を聞き、無意識に腕を緩める。はつに渡すわけにはいかないが、新が苦しむ方こそ捨て置けない。
腕を引かれている新が落ちないよう支えるだけの状態になったとき、誰かがさっと近づき累寧とはつの間に入った。
途端にはつが新の腕を離したため、累寧は慌てて新の身体を受け止める。少しよろけてしまったが、なんとか落とさず抱きとめることができた。
「かーしゃまぁ……」
半泣きの状態で累寧に縋りつく新の頭を撫で、つかまれていた腕を確認する。
かなり強くつかまれていたようで、はつの手形がしっかり残っていた。痛々しさに眉を寄せるが、まずは現状確認をと思い顔を上げる。
そうして見えた光景は、軍服を着た雪色の髪の男性が、鞘に納めたままの刀をはつの首に当てているものだった。
鞘がなければ、薄皮一枚は切れていただろう。
この屋敷で軍服を着ている人物は当主か稀凰だけ。艶のある髪を見れば、初老の当主ではなく稀凰なのだと後ろ姿だけでもわかった。
「話は聞かせてもらった。累寧どのは口うるさいが、子供をひどく扱うことはない。虐待しているのだとしたらお前だろう? 新の乳母としてこの屋敷に来てから、新のことを口実にして俺に会おうとしていたようじゃないか」
低く冷徹な声音が響き、場が凍り付いたように静まる。まるで、彼が氷鬼としての力を使っているときのようだ。
重輝からの話でしか聞いたことはないが、稀凰は戦いの場で敵を凍りで縛りその場に留めるのだという。その話と同じように、この場にいる者たちは僅かも動けない様子だった。
特に青灰色の鋭い目で睨まれているであろうはつは、顔面蒼白で氷に身を包まれたかのよう。
そんな凍てつく空気の中動いたのは、早苗だった。
ゆっくりと、累寧の下へ来て新の腕に残る手形を見て眉間にしわを寄せる。そして新の着物の裾をめくり痣を確認すると、しわは更に深く刻まれる。
「私のせいね、まさかこんなことをする者を雇い入れてしまっていたなんて……」
自責の言葉を吐き出し、真っ直ぐ背筋を伸ばした早苗ははつを見る。
そして、稀凰に劣らぬほど冷たい声で告げた。
「今の様子を見ただけでもどちらの言い分が正しいのかは明らかです。はつ、あなたを解雇します。今日中に荷物を纏めて出ていきなさい」
「あ、ああぁ……」
早苗の宣言にはつは頽れる。
そんな彼女を冷たく見下ろした早苗は、手の空いている者に指示を出しはつを任せ、他の者たちに朝の支度を再開させるように告げた。
「急がないと、旦那様と稀凰がお仕事に遅れてしまうわ」
せっつくように皆を追い立てた早苗は、最後に累寧へと向き直り手を取る。その手の柔らかさと温かさに、累寧は驚いた。
「累寧さん、新の痣に気づいてくれてありがとう。これからも、新をお願いね」
母として、祖母としての柔らかな笑みにどこかくすぐったい心地になる。このような笑み、実母から向けられたことなどなかったのだから。
「は、はい」
気恥ずかしさを覚えながら返事をすると、早苗は新の柔らかな雪色の髪をもう一度撫でる厨房へと戻って行った。
後に残されたのは、新を抱いた累寧と刀を腰に戻している稀凰だけ。
無言の稀凰と共にいることがなんだか気まずかったのと、助けてもらったのだからお礼くらいは言った方がいいだろうという思いから累寧は口を開く。
「稀凰様、助けていただきありがとうございます」
「いや、新をあのような女に預けるわけにはいかないし、累寧どののことは契約書にも書いたからな」
そっけなく返ってきた言葉に、累寧は重輝が契約の書面に付け加えた一文を思い出した。『累寧が嫌がることはしない』と言って書き加えた部分には、『累寧を守る』という文面もあった。
あの文を書き加えてくれた兄に感謝しつつも、稀凰には呆れる。
(この人、お礼も素直に受け取れないのかしら)
相変わらず愛想のない男だと思うが、今回は助けてもらった立場だ。いつものように言い返すことはせずにおこう。
ため息だけを零し文句を押し込めていると、腕の中の新が身じろぐ。
見ると、新はじっと稀凰の方を見つめていた。明るい茶色の清らかな目には、稀凰がどのように映っているのだろう。
見守っていると、にぱっと笑った新は稀凰に手を伸ばす。
「とーしゃま」
なんと、新は稀凰をちゃんと義父と認識していたようだ。
二人が顔を合わせたところを見たことはなかったが、一応親としての務めは果たしているということだろうか。
などと考えていたが、稀凰の取った行動に息を呑んだ。
「触るな!」
ぱしん! と、伸ばされた小さな手を稀凰は払いのける。
一瞬驚いて目を丸くした新は、次の瞬間わっと泣き出した。
「なにをなさるのですか!?」
累寧は思わず非難して叫ぶが、新を拒絶したはずの稀凰の方が傷ついた顔をしている。
青灰色の目には、罪悪感と恐れがないまぜになったような色が揺れていた。
(どうして、そんな顔をなさるの?)
困惑していると、稀凰は苦しげに累寧と新から目を逸らし、この場を去って行ってしまう。
そのまま彼は朝食の場にも来ず、仕事へ向かっていってしまった。



