重輝を証人に契約を結んでから数日後。
とんとん拍子に話は進み、累寧は花嫁修業の名目で氷室家の邸宅で生活することとなった。
迎えてくれたのはいずれ義母となる稀凰の母・早苗。彼女は累寧が面食らってしまうほど歓迎してくれた。
「ようこそ、累寧さん。あなたのような方が来てくれて嬉しいわ」
稀凰と似た面差しに、僅かな不安すらも感じ取れない満面の笑みを浮かべて言われ、累寧の方が戸惑う。
氷室家の継嗣の嫁とあればその立場に収まりたいと思う令嬢は多いだろう。だというのに、下級華族出身の自分がここまで歓迎されるとは。
(まさか、私が思っているほど稀凰様に人気はないのかしら? いえ、でもあの顔よ? 容姿端麗で家柄もいいのに人気がないわけはないわ)
稀凰の容姿は冷たい印象を抱かせるが、女性が心惹かれる美しさと強さがある。実際に彼を好んでいる令嬢は多いはずなので、自分が歓迎される理由は他にあるのだろう。
稀凰は妻を愛するつもりはなく、甥を養子にして継嗣とすると言っていたので、それを呑んでくれる令嬢がいなかったということだろうか。
(まあ、いくら政略結婚でも両方を吞み込める家や令嬢は少ないでしょうしね。稀凰様に好意を持っているのなら尚更)
などと考えていた累寧に、屋敷を案内がてら共に歩く早苗は困ったように頬に手を添えた。
「稀凰の親友である重輝さんの妹さんなら安心だし。本当に、あなたのように割り切ってくれる方が来てくれて助かるわ」
にこにこと喜びに満ちた笑みだったが、「それに」と続いた言葉には悲しそうな色が表れる。
中庭に面する縁側で足を止めた早苗は、鯉が泳ぐ池庭を見つめながら呟くように言った。
「稀凰は、他人が自分に触れるのを嫌がるから……」
苦しげにも見える眼差しを水面へとやる彼女に、なにか重い事情があるのだということを察したが、累寧は少し沈んだ空気を払拭するように明るい笑みを浮かべる。
「そうですか……確かに私は稀凰様に触れるつもりはありませんもの。問題ありませんね」
事情があるのだとしても、自分に求められているのは養子にした稀凰の甥の母となることだ。嫌いな稀凰との関係を深めるつもりはないので、その事情とやらにも深入りするつもりはない。
稀凰が他人に触れられるのを嫌がるというのは初耳だが、実際累寧が彼に触れることなどないのだから問題ないだろう。
ただ、ふと思う。
(あら? でもお兄様は触れていたような……? 友人だから大丈夫ということなのかしら?)
微かな疑問を覚えたが、累寧の言葉を受け取った早苗が困ったようにほほ笑みながら話題を変えたので、その疑問は思考の隅へと追いやられた。
「ああそうだ、それよりも新を紹介するわ。今なら乳母と遊んでいるはずよ」
「早く会いたいです!」
心が僅かに踊るのを自覚しながら、また歩を進める早苗についていく。
累寧は子供が好きだ。
世の中の酸いも甘いもまだ知らない無垢な存在。懐くと、真っ直ぐ好意を向けてくれる姿がとても愛おしくかわいらしいのだ。
それに、ふくふくとした頬を見ると思わず触りたくなってしまう。
新は一歳を過ぎたくらいだというから、よちよち歩きができるくらいだろうか。
「はつ、累寧さんを連れてきたわ。新は起きているかしら?」
案内された部屋の障子戸に早苗が声をかけると、若い女性の声で返事があった。
「はい、大丈夫ですよ」
障子戸を開け部屋に入ると、はつと呼ばれた乳母と新は毬を転がして遊んでいるところだったようだ。
ゆっくりと転がる毬を真剣に見つめて受け止めようとする赤子——新は、受け止め損ねた毬を追いかけるために立ち上がる。そのままよたよたと歩き出したが、まだうまく歩けないのだろう。途中で歩いて追いかけるのは諦めて、這って追いかけ始めた。
一連の行動や歩いたときにお尻が振れる様子がとても可愛らしく、累寧の頬は当然のように緩んだ。
新が毬を追いかけたのを見送ったはつは、早苗と累寧へ頭を下げあいさつをする。
「初めまして、累寧様。私は新様のお世話をさせていただいているはつと申します」
新の世話のために雇われたというはつは、一見子守をするような女性には見えなかった。
整った容姿に女性らしいたおやかさ。大人の魅力もあり、少女の魅力を秘めた累寧とは正反対の女性に見える。
とはいえ、人を見かけだけで判断するものではない。累寧は共に新を育てる者として、丁寧にあいさつを返した。
はつの向かい側に膝を折り、真正面から彼女を見る。
「初めまして、はつさん。新の義母となる累寧です。これからよろしくお願いいたします」
「これは、ご丁寧にありが——」
「ぎゃああぁあん!」
会話の途中で、新の泣き声が部屋に響いた。
瞬間、目の前のはつの表情が歪む。眉間に深いしわが入り、睨むような目を新へと向けた。
だが彼女はすぐに立ち上がり、新の下へと向かう。
「新様? どうなさったのですか?」
その様子はどう見ても新の身を案じているものだったので、先ほど見たはつの表情は見間違いだったのかもしれないと思った。
(あんな、嫌悪に満ちたような顔……まさか、ね。きっと、たまたまそう見えただけよ)
あのような幼い子に向ける顔ではない。
万が一見間違いではなかったのだとしても、幼い子供の世話は大変なので、たまたま苛々していただけなのかもしれない。これからは自分も新の世話をするので、はつの負担も減らせるだろう。
そう判断した累寧は、さっそく仲良くなれるようにと自分も泣く新の下へと向かった。
「大丈夫? そんなに泣いて、どこかにぶつけてしまったのかしら?」
近づき稀凰と同じ雪色の髪を撫でると、新はぴたりと泣き止んだ。きょとんとした顔で、累寧の顔を見上げている。
だぁれ? と問いかけられているようにも見えたため、累寧は自然と緩む頬をそのまま笑顔に変え自己紹介をした。
「初めまして、新くん。私は累寧というの、あなたの義母になるのよ?」
「かしゃ、ね? はは?」
まだ涙を浮かべたまま、今聞いたことを彼なりに理解しようとしているのか、累寧の言葉を繰り返す。成長が早いのか、思っていたよりも言葉が話せるようだ。
「はい、『かあさま』と呼んでくださいね。『かあさま』ですよ?」
念を押すように繰り返して伝えると、新はぱちぱちと瞬きをして聞き返すように呼んだ。
「かあ、しゃま?」
「はい」
「かあしゃま!」
母と呼ばれて返事をすると、反応があったことが嬉しかったのか新の顔がぱぁっと光り輝いた。
(かっかわいいっ!)
胸を撃ち抜かれる感覚とはこういうことを言うのだろうか。新がかわいすぎて、尊くて……辛い。
愛しさが溢れすぎてまともな反応を返せないでいると、横からはつの腕が伸びてきて新を抱き上げる。
「申し訳ありません新様、どこか痛いところはございませんか?」
累寧は新と仲良くしているところを邪魔されたように感じ一瞬ムッとするが、抱き上げたまま新の身体を心配するはつの行動は責められるようなものではない。むしろ自分も気をつけて見てやらねばならなかったのだと反省した。
(泣き止んだから大丈夫、ではないのよね。ちゃんと気をつけなければ)
義母となるのだから、母親として新のことを一番に考えなくては。と決意していると、様子を見守っていた早苗が近づいてきた。
「新は大丈夫かしら?」
「あ、はい。怪我をした様子もありませんので、少しぶつけただけか……もしくは毬が上手く取れず癇癪を起こしただけかもしれません」
「そう。なんにせよ、新に何かあっては困るわ。目を離さないように」
「はい、申し訳ございませんでした」
やんわりとはつを叱った早苗は、新の頭を愛おしそうにひと撫でしてから視線を累寧に移す。
優しく微笑むその顔のつくりは稀凰と似ているが、やはり表情はまるで違っていた。
「累寧さんと新が仲良くできそうで安心したわ。今日はゆっくり休んで、明日からこの屋敷に慣れていってちょうだい」
厳しくも優しい母親の眼差しを受け、累寧はどこか落ち着かない気分で頷き頭を下げた。
「はい、改めてよろしくお願いいたします」
***
慣れない屋敷に少々戸惑っていたが、氷室家の人々はみなよくしてくれたため、屋敷に来る前の不安は払拭されつつある。そんな、一日目の夜。
「どうしてあなたが訪ねてくるのでしょう?」
抑揚のない平坦な声音で問いかけると、襖を開けた稀凰は意地の悪い笑みを浮かべた。
「妻となる相手と親交を深めようと訪ねてきてはいけないのか?」
明らかに揶揄っているだけの言葉に、一応浮かべていた笑みすらもすとんと抜け落ちる。
稀凰は累寧との親交を深めようなどとはまったく思っていない。ただ、こう言えば累寧が嫌がるということを知っているからこその言動だ。
つまり、ただの嫌がらせなのだ。
いつもながら腹立たしい男に、累寧はその姿すら視界に入れたくなくなり顔を背け口を開いた。
「気持ちの悪い冗談を言っていないで、本題に移ってください」
「本当に累寧どのは面白みがないな。素直につき合ってくれる重輝とは大違いだ」
「……お兄様は、優しいですから」
つまらなそうに鼻を鳴らす稀凰の言葉に、今朝別れたばかりの兄を思う。
見送りにすら出てこなかった両親とは違い、ぎりぎりまで心配の言葉を掛けてくれた重輝。
両親は昔から累寧には関心を持ってくれなかった。もとより重輝の予備を欲して産んだのに、女だったことで産んだ意味がなかったと面と向かって言われたこともある。
政略結婚の道具としての価値はあるためちゃんと育ててはもらえたが、重輝に向けられるような愛情は与えられなかった。
重輝はそんな両親の振る舞いに怒りを覚えつつも、嫌うことは出来ず板挟みで苦しんでいた。その負い目もあるのだろう、重輝は累寧を両親の分までとても大事にしてくれた。
だからこそ、累寧も兄をより大事に思うようになってしまったのだ。
それに重輝は優しくて、どんな相手でも真摯に向き合う。この意地の悪い男にもいつもつき合って振り回され、疲れ果てる兄が可哀想で見ていられなかった。
我慢できず稀凰に文句を言ったら嫌味たっぷりで言い返してくるものだから、どんどん彼のことが嫌いになったのだ。
今も、兄を思う累寧の心境など考慮せず、嫌味な物言いをする。
「まあ、口うるさい累寧どのと長く会話したいとはこちらも思っていないのでいいのだが」
むかっとしたが、一々言い返していては話が進まない。長く会話したくないのはこちらも同じなのだ。
「そうですか、では本題を話してさっさといなくなってください」
とはいえ少々悔しいので、促し方にはっきり棘を含ませたのだが、稀凰は軽く鼻で笑って棘を吹き飛ばす。嘲るような笑みに、腹が立った。
(早くいなくなれ! この根性悪男!)
思わず心の中で悪態をつきながら、この場に兄がいないことに感謝する。
こんな言葉を聞き取ったら、重輝は悲しんでしまうから。
「まあ、それもそうだな。と言っても、この屋敷で上手くやれそうかと、新と仲良くできそうかを聞きに来ただけだがな」
「だったらはじめからそう言ってください」
嫌がらせの揶揄いの言葉を口にする必要はなかっただろうと責めるが、稀凰はどこ吹く風で累寧の言葉を聞き流す。
「冗談の通じない累寧どのの頭が固いだけだろう。それで? どうなんだ?」
(こっの! 一々気に障る言い方をして!)
苛々させられる男だが、就寝前にこれ以上煩わされたくない。累寧は怒りを吐き出すように息を吐き、聞かれたことに答えた。
「早苗さまも屋敷の方々もいい人ばかりですし、大丈夫そうです。新くんに関しては——」
話しながら、新の愛らしさを思い出しつい頬が緩む。
「とても可愛らしくて……私のことを『かあしゃま』って呼んでくれたんですよ? あのときの笑顔の尊さと言ったら!」
思わず力を入れて語ってしまい、話している相手が稀凰だと忘れかける。だが、顔を上げたところで稀凰の驚いた顔が見えて固まった。
(私ったら、稀凰様相手に何を語っているのかしら)
基本的には周囲に冷たく、累寧に対しては意地の悪さを発揮する男だ。語ったところで馬鹿にされるのが落ちなのに、と失敗を反省する。
だが、稀凰は青灰色の目を見開きながら「そういう顔もするのか」と呟いたのみで累寧を馬鹿にするような言葉はなかった。
いつもと少々違う反応を訝しんでいると、稀凰は累寧の部屋を出ていく。
「とにかく、新とも問題なさそうでよかった。では、おやすみ」
背を向けた状態で告げると、稀凰は襖を閉めていなくなってしまう。
「おやすみ、なさいませ」
もう声は届かなそうだが、一応挨拶を返した累寧は首を傾げた。
去り際にもう一つくらい嫌味を言われると思ったのに、何もなかったため不思議に思う。
(でもまあ、最後に嫌な気持ちにならずにすんでよかったわ)
それに、部屋を出ていったということは本当に夫婦としての営みは求めていないということだ。
契約の内容はしっかり守るのだとわかって、累寧は安心して床についた。
とんとん拍子に話は進み、累寧は花嫁修業の名目で氷室家の邸宅で生活することとなった。
迎えてくれたのはいずれ義母となる稀凰の母・早苗。彼女は累寧が面食らってしまうほど歓迎してくれた。
「ようこそ、累寧さん。あなたのような方が来てくれて嬉しいわ」
稀凰と似た面差しに、僅かな不安すらも感じ取れない満面の笑みを浮かべて言われ、累寧の方が戸惑う。
氷室家の継嗣の嫁とあればその立場に収まりたいと思う令嬢は多いだろう。だというのに、下級華族出身の自分がここまで歓迎されるとは。
(まさか、私が思っているほど稀凰様に人気はないのかしら? いえ、でもあの顔よ? 容姿端麗で家柄もいいのに人気がないわけはないわ)
稀凰の容姿は冷たい印象を抱かせるが、女性が心惹かれる美しさと強さがある。実際に彼を好んでいる令嬢は多いはずなので、自分が歓迎される理由は他にあるのだろう。
稀凰は妻を愛するつもりはなく、甥を養子にして継嗣とすると言っていたので、それを呑んでくれる令嬢がいなかったということだろうか。
(まあ、いくら政略結婚でも両方を吞み込める家や令嬢は少ないでしょうしね。稀凰様に好意を持っているのなら尚更)
などと考えていた累寧に、屋敷を案内がてら共に歩く早苗は困ったように頬に手を添えた。
「稀凰の親友である重輝さんの妹さんなら安心だし。本当に、あなたのように割り切ってくれる方が来てくれて助かるわ」
にこにこと喜びに満ちた笑みだったが、「それに」と続いた言葉には悲しそうな色が表れる。
中庭に面する縁側で足を止めた早苗は、鯉が泳ぐ池庭を見つめながら呟くように言った。
「稀凰は、他人が自分に触れるのを嫌がるから……」
苦しげにも見える眼差しを水面へとやる彼女に、なにか重い事情があるのだということを察したが、累寧は少し沈んだ空気を払拭するように明るい笑みを浮かべる。
「そうですか……確かに私は稀凰様に触れるつもりはありませんもの。問題ありませんね」
事情があるのだとしても、自分に求められているのは養子にした稀凰の甥の母となることだ。嫌いな稀凰との関係を深めるつもりはないので、その事情とやらにも深入りするつもりはない。
稀凰が他人に触れられるのを嫌がるというのは初耳だが、実際累寧が彼に触れることなどないのだから問題ないだろう。
ただ、ふと思う。
(あら? でもお兄様は触れていたような……? 友人だから大丈夫ということなのかしら?)
微かな疑問を覚えたが、累寧の言葉を受け取った早苗が困ったようにほほ笑みながら話題を変えたので、その疑問は思考の隅へと追いやられた。
「ああそうだ、それよりも新を紹介するわ。今なら乳母と遊んでいるはずよ」
「早く会いたいです!」
心が僅かに踊るのを自覚しながら、また歩を進める早苗についていく。
累寧は子供が好きだ。
世の中の酸いも甘いもまだ知らない無垢な存在。懐くと、真っ直ぐ好意を向けてくれる姿がとても愛おしくかわいらしいのだ。
それに、ふくふくとした頬を見ると思わず触りたくなってしまう。
新は一歳を過ぎたくらいだというから、よちよち歩きができるくらいだろうか。
「はつ、累寧さんを連れてきたわ。新は起きているかしら?」
案内された部屋の障子戸に早苗が声をかけると、若い女性の声で返事があった。
「はい、大丈夫ですよ」
障子戸を開け部屋に入ると、はつと呼ばれた乳母と新は毬を転がして遊んでいるところだったようだ。
ゆっくりと転がる毬を真剣に見つめて受け止めようとする赤子——新は、受け止め損ねた毬を追いかけるために立ち上がる。そのままよたよたと歩き出したが、まだうまく歩けないのだろう。途中で歩いて追いかけるのは諦めて、這って追いかけ始めた。
一連の行動や歩いたときにお尻が振れる様子がとても可愛らしく、累寧の頬は当然のように緩んだ。
新が毬を追いかけたのを見送ったはつは、早苗と累寧へ頭を下げあいさつをする。
「初めまして、累寧様。私は新様のお世話をさせていただいているはつと申します」
新の世話のために雇われたというはつは、一見子守をするような女性には見えなかった。
整った容姿に女性らしいたおやかさ。大人の魅力もあり、少女の魅力を秘めた累寧とは正反対の女性に見える。
とはいえ、人を見かけだけで判断するものではない。累寧は共に新を育てる者として、丁寧にあいさつを返した。
はつの向かい側に膝を折り、真正面から彼女を見る。
「初めまして、はつさん。新の義母となる累寧です。これからよろしくお願いいたします」
「これは、ご丁寧にありが——」
「ぎゃああぁあん!」
会話の途中で、新の泣き声が部屋に響いた。
瞬間、目の前のはつの表情が歪む。眉間に深いしわが入り、睨むような目を新へと向けた。
だが彼女はすぐに立ち上がり、新の下へと向かう。
「新様? どうなさったのですか?」
その様子はどう見ても新の身を案じているものだったので、先ほど見たはつの表情は見間違いだったのかもしれないと思った。
(あんな、嫌悪に満ちたような顔……まさか、ね。きっと、たまたまそう見えただけよ)
あのような幼い子に向ける顔ではない。
万が一見間違いではなかったのだとしても、幼い子供の世話は大変なので、たまたま苛々していただけなのかもしれない。これからは自分も新の世話をするので、はつの負担も減らせるだろう。
そう判断した累寧は、さっそく仲良くなれるようにと自分も泣く新の下へと向かった。
「大丈夫? そんなに泣いて、どこかにぶつけてしまったのかしら?」
近づき稀凰と同じ雪色の髪を撫でると、新はぴたりと泣き止んだ。きょとんとした顔で、累寧の顔を見上げている。
だぁれ? と問いかけられているようにも見えたため、累寧は自然と緩む頬をそのまま笑顔に変え自己紹介をした。
「初めまして、新くん。私は累寧というの、あなたの義母になるのよ?」
「かしゃ、ね? はは?」
まだ涙を浮かべたまま、今聞いたことを彼なりに理解しようとしているのか、累寧の言葉を繰り返す。成長が早いのか、思っていたよりも言葉が話せるようだ。
「はい、『かあさま』と呼んでくださいね。『かあさま』ですよ?」
念を押すように繰り返して伝えると、新はぱちぱちと瞬きをして聞き返すように呼んだ。
「かあ、しゃま?」
「はい」
「かあしゃま!」
母と呼ばれて返事をすると、反応があったことが嬉しかったのか新の顔がぱぁっと光り輝いた。
(かっかわいいっ!)
胸を撃ち抜かれる感覚とはこういうことを言うのだろうか。新がかわいすぎて、尊くて……辛い。
愛しさが溢れすぎてまともな反応を返せないでいると、横からはつの腕が伸びてきて新を抱き上げる。
「申し訳ありません新様、どこか痛いところはございませんか?」
累寧は新と仲良くしているところを邪魔されたように感じ一瞬ムッとするが、抱き上げたまま新の身体を心配するはつの行動は責められるようなものではない。むしろ自分も気をつけて見てやらねばならなかったのだと反省した。
(泣き止んだから大丈夫、ではないのよね。ちゃんと気をつけなければ)
義母となるのだから、母親として新のことを一番に考えなくては。と決意していると、様子を見守っていた早苗が近づいてきた。
「新は大丈夫かしら?」
「あ、はい。怪我をした様子もありませんので、少しぶつけただけか……もしくは毬が上手く取れず癇癪を起こしただけかもしれません」
「そう。なんにせよ、新に何かあっては困るわ。目を離さないように」
「はい、申し訳ございませんでした」
やんわりとはつを叱った早苗は、新の頭を愛おしそうにひと撫でしてから視線を累寧に移す。
優しく微笑むその顔のつくりは稀凰と似ているが、やはり表情はまるで違っていた。
「累寧さんと新が仲良くできそうで安心したわ。今日はゆっくり休んで、明日からこの屋敷に慣れていってちょうだい」
厳しくも優しい母親の眼差しを受け、累寧はどこか落ち着かない気分で頷き頭を下げた。
「はい、改めてよろしくお願いいたします」
***
慣れない屋敷に少々戸惑っていたが、氷室家の人々はみなよくしてくれたため、屋敷に来る前の不安は払拭されつつある。そんな、一日目の夜。
「どうしてあなたが訪ねてくるのでしょう?」
抑揚のない平坦な声音で問いかけると、襖を開けた稀凰は意地の悪い笑みを浮かべた。
「妻となる相手と親交を深めようと訪ねてきてはいけないのか?」
明らかに揶揄っているだけの言葉に、一応浮かべていた笑みすらもすとんと抜け落ちる。
稀凰は累寧との親交を深めようなどとはまったく思っていない。ただ、こう言えば累寧が嫌がるということを知っているからこその言動だ。
つまり、ただの嫌がらせなのだ。
いつもながら腹立たしい男に、累寧はその姿すら視界に入れたくなくなり顔を背け口を開いた。
「気持ちの悪い冗談を言っていないで、本題に移ってください」
「本当に累寧どのは面白みがないな。素直につき合ってくれる重輝とは大違いだ」
「……お兄様は、優しいですから」
つまらなそうに鼻を鳴らす稀凰の言葉に、今朝別れたばかりの兄を思う。
見送りにすら出てこなかった両親とは違い、ぎりぎりまで心配の言葉を掛けてくれた重輝。
両親は昔から累寧には関心を持ってくれなかった。もとより重輝の予備を欲して産んだのに、女だったことで産んだ意味がなかったと面と向かって言われたこともある。
政略結婚の道具としての価値はあるためちゃんと育ててはもらえたが、重輝に向けられるような愛情は与えられなかった。
重輝はそんな両親の振る舞いに怒りを覚えつつも、嫌うことは出来ず板挟みで苦しんでいた。その負い目もあるのだろう、重輝は累寧を両親の分までとても大事にしてくれた。
だからこそ、累寧も兄をより大事に思うようになってしまったのだ。
それに重輝は優しくて、どんな相手でも真摯に向き合う。この意地の悪い男にもいつもつき合って振り回され、疲れ果てる兄が可哀想で見ていられなかった。
我慢できず稀凰に文句を言ったら嫌味たっぷりで言い返してくるものだから、どんどん彼のことが嫌いになったのだ。
今も、兄を思う累寧の心境など考慮せず、嫌味な物言いをする。
「まあ、口うるさい累寧どのと長く会話したいとはこちらも思っていないのでいいのだが」
むかっとしたが、一々言い返していては話が進まない。長く会話したくないのはこちらも同じなのだ。
「そうですか、では本題を話してさっさといなくなってください」
とはいえ少々悔しいので、促し方にはっきり棘を含ませたのだが、稀凰は軽く鼻で笑って棘を吹き飛ばす。嘲るような笑みに、腹が立った。
(早くいなくなれ! この根性悪男!)
思わず心の中で悪態をつきながら、この場に兄がいないことに感謝する。
こんな言葉を聞き取ったら、重輝は悲しんでしまうから。
「まあ、それもそうだな。と言っても、この屋敷で上手くやれそうかと、新と仲良くできそうかを聞きに来ただけだがな」
「だったらはじめからそう言ってください」
嫌がらせの揶揄いの言葉を口にする必要はなかっただろうと責めるが、稀凰はどこ吹く風で累寧の言葉を聞き流す。
「冗談の通じない累寧どのの頭が固いだけだろう。それで? どうなんだ?」
(こっの! 一々気に障る言い方をして!)
苛々させられる男だが、就寝前にこれ以上煩わされたくない。累寧は怒りを吐き出すように息を吐き、聞かれたことに答えた。
「早苗さまも屋敷の方々もいい人ばかりですし、大丈夫そうです。新くんに関しては——」
話しながら、新の愛らしさを思い出しつい頬が緩む。
「とても可愛らしくて……私のことを『かあしゃま』って呼んでくれたんですよ? あのときの笑顔の尊さと言ったら!」
思わず力を入れて語ってしまい、話している相手が稀凰だと忘れかける。だが、顔を上げたところで稀凰の驚いた顔が見えて固まった。
(私ったら、稀凰様相手に何を語っているのかしら)
基本的には周囲に冷たく、累寧に対しては意地の悪さを発揮する男だ。語ったところで馬鹿にされるのが落ちなのに、と失敗を反省する。
だが、稀凰は青灰色の目を見開きながら「そういう顔もするのか」と呟いたのみで累寧を馬鹿にするような言葉はなかった。
いつもと少々違う反応を訝しんでいると、稀凰は累寧の部屋を出ていく。
「とにかく、新とも問題なさそうでよかった。では、おやすみ」
背を向けた状態で告げると、稀凰は襖を閉めていなくなってしまう。
「おやすみ、なさいませ」
もう声は届かなそうだが、一応挨拶を返した累寧は首を傾げた。
去り際にもう一つくらい嫌味を言われると思ったのに、何もなかったため不思議に思う。
(でもまあ、最後に嫌な気持ちにならずにすんでよかったわ)
それに、部屋を出ていったということは本当に夫婦としての営みは求めていないということだ。
契約の内容はしっかり守るのだとわかって、累寧は安心して床についた。



