氷鬼の最愛~大事な兄のために子育て契約婚をお受けします~

 いつもいつも憎たらしい男。
 腹立たしくて、大嫌いな男。

 でも、私は知っている……。

 氷に閉ざされたあなたの本当の心は、春の陽光のように暖かいということを――。

***

 熱めに淹れた茶を、森村累寧(もりむらかさね)は目の前の男にぶちまけたくなった。
「いま、何とおっしゃったのかしら? 幻聴としか思えないようなことを聞いた気がするのだけれど」
 引きつりそうな頬を根性で笑みの形に留めて問うと、雪色(せっしょく)の髪の男はつまらなそうな表情のまま先ほどとまったく同じ言葉を発した。
「嫁に来いと言ったんだ。目の前ではっきりと告げたのに幻聴と勘違いするとは……累寧どのは耳だけでなく目や頭もおかしくなってしまったのか?」
「あら、そうかもしれませんね。あり得ない人の口からあり得ない言葉が出たので、目まいを起こしてしまったようです」
 いつもと同じく嫌味の絶えない物言いに、累寧は苛々しながら棘を含ませて返す。
 彼にとっては僅かも刺さらない棘かもしれないが、言い返さずにはいられないのだ。
 目の前の男・氷室稀凰(ひむろきおう)は累寧にとって天敵と言っても過言ではない。
 顔を合わせれば嫌味の応酬。しかも稀凰の方が家柄としても上なので、いつも累寧の方が辛酸を舐めることになるのだ。
 何より、この男は自分の大事な兄・重輝(あつき)をいつも振り回して、多大な迷惑を掛けている。
 今も稀凰の隣で可哀想なほどに眉尻を下げている兄を見て思う。
(この男が私と結婚したいだなんてあり得ない、なにか無茶な理由があるのだわ……まさかお兄様、脅されているのではないかしら?)
 どういう事情で自分が『嫁に来い』などと言われることになったのかはわからないが、兄の様子を見ればかなり無茶な内容なのだろうと推測できる。
 心の中で心配を言葉にしていると、自分とよく似ていると言われる黒い目がハッと見開きこちらを向いた。
「いや、累寧。僕は脅されてなんていないよ。それに今回はむしろ森村家にとっては有難い話なんだ」
 口には出していない累寧の心の声に重輝は答える。どうやらまた(・・)聞こえてしまったようだ。
 この和国(わこく)は妖を祖とする者たちが国政を担う国で、妖の異能を持つ者たちは華族として国に仕えている。
 森村家もサトリという妖の異能を持ち、特に重輝は意図せずとも周囲の心の声が聞こえてきてしまうそうで、いつも苦労していた。
 累寧も異能は持っているが、少々特殊なので兄のような苦労はない。
 だからこそ、兄のことは自分が護るのだと幼心に思ったものだ。
 などと軽く思い返しているうちにも、重輝は話を続けていく。
「うちの家は下級華族な上に、大きく稼げるような事業もなく、もしかすると僕の世代で爵位を返上せねばならない状況だろう? でも、古くから一族で家に仕えている者もいるし、できればそれは避けたい」
「ええ、そうね」
 家の事情を他家の者もいる場で話すのは褒められたことではないが、一応重輝の友人という立場の稀凰はすでにその辺りの事情も知っているので今更だろう。気にすることなく、累寧は頷き続きを促した。
「だが累寧が氷室家に嫁げば上級華族との繋がりにもなるし、金銭的な援助ももらえる。少なくとも、孫の世代までは安泰といえる」
「それは、確かに……」
 重輝の言うことはもっともで、兄の今後を心配する累寧としても有難い話だ。……問題は、その結婚話を稀凰が提案してきているという状況だ。
 累寧のことを好きでもない——寧ろ嫌っているであろう稀凰が、だ。
 一体何を企んでいるのだろうと、累寧は稀凰をじとりと見つめる。
 上級華族である氷室家の跡取りで、最強と言われる鬼の一族のひとつ、氷鬼の異能を持つ令息。
 しかも稀凰の異能は近年稀に見る強さで、二十二という若さでありながら少尉としてすでに実績もあるという。
 外見も美しい雪色の髪に青灰色の目という珍しい色彩で、男性らしいしっかりとした体躯に秀麗な顔立ち。少し意地悪そうな笑みにはどこか女性を虜にする魅力があるようで、多くの女性から秋風を送られているのを見たことがある。
 そんな、結婚相手などより取り見取りだろうと思われる稀凰が、なぜ下級華族で明らかに嫌っている相手の自分を選んだのか。
 そんなもの、稀凰に好意を寄せている令嬢ではダメだという面倒な理由があるに決まっている。
(一体何を企んでいるのかしら?)
 警戒も露わに、嫌味なほど整った顔の稀凰を見つめていると、重輝が「だが……」と眉間に深いしわを刻んだ。
「稀凰の申し出は有難いが、やはり僕は累寧に幸せになってもらいたいんだ! だから——」
「だから、俺との婚姻はやめろと言いたいのか? 累寧どのが氷室家の嫁となって、不幸になると決まったわけじゃないだろう?」
 重輝の話を遮った稀凰は、言葉の中に【自分と結婚すれば累寧は不幸になると言っているのか?】という問いも含まれていて、兄はとてもバツの悪そうな顔をする。
 だが、重輝の言い分の方が正しいだろう。いくら家のためになるとはいえ、はじめから嫌っている相手と婚姻を結ぶなど、どう考えても幸せになれるとは思えない。
 だというのに、なにを言っているのだろうかこの冷血漢は。
「まるであなたに嫁げば幸せになれると言っているようなものですね? 私があなたをどう思っているのかを知った上で言っているのだとしたら、自信過剰というものではないでしょうか?」
 にっこりと、嫌味たっぷりに告げる。
 稀凰と結婚などすれば、このように嫌味ばかりの会話になることくらい想像できそうなものだ。
 わかっているだろうに、と呆れる累寧だったが、稀凰も嫌そうに顔を歪める。
「俺だって口やかましい君にはいつもうんざりしている。幸せにできるなどと言うわけがないだろう? だが、この話は累寧どのにも利があるのだから、少なくとも不幸にはなるまい?」
「へぇ、私の利とは何かしら?」
 多少は実のある話になりそうな流れに、累寧は少し興味を持って聞き返した。
 少なくとも、『嫁に来い』というぶしつけな言葉よりは聞く気になる。
「まず、先ほど重輝が言ったように森村家のためになる。それに、重輝もそろそろ身を固めるべきだろう? だが、小姑が家にいては婚約者も森村家に来づらいのではないか?」
 淡々と話す稀凰を注意深く見つめながら聞く。適当なことを言われて、丸め込まれるわけにはいかない。
 とはいえ、今のところは家や大事な兄にとっての利を並べ立てられているだけだ。それが累寧の心の平安にもなるため、自分にもまったく利がないわけではないが……。
「そして何より、俺に嫁げば夫を愛する必要がない」
「それは……」
「累寧どのは男に愛して欲しいと求められるのが苦痛なのだろう? なのに好いてくれた男たちは皆君の愛を求めてくる。……外見だけはいいから言い寄ってくる男も多いだろうしな」
 口端を軽く上げ笑った稀凰に、累寧は少々苦い思いを抱く。
 互いに嫌っている相手ではあるが、それなりに付き合いが長いため稀凰は累寧の性格もよく知っていた。
 累寧はどうも恋愛というものがよくわからないのだ。
 友愛や親愛は理解できるが、主に異性へ向ける恋を通しての愛が理解できない。いずれ結婚するならば家族愛があればいいのではないかと思うのだが、相手はそうもいかないらしい。
 自分と婚約したいと申し出てくる殿方は、必ずと言っていいほど累寧の恋心を欲する。
 華族なのだから、結婚は政略的なものと割り切ってくれればいいのだが、自分の外見がそれを許してくれないようなのだ。
 烏の濡れ羽色と称される青みがかった艶やかな髪、お人形のようだと周囲から愛でられる大きな黒目。肌は白く、幼さが見え隠れする小さな唇は殿方を惑わすらしい。
 そんな美しい見た目は異性を惹きつけ、恋という感情を累寧に向けさせる。そして累寧にも同じものを求めてくるのだ。
 恋を理解しようと努めたこともあったが、どうしても親愛や友愛のようなものにしかならなかったので諦めた。知らないものを求められ続けて、疲弊していたということもある。
 そんな事情を嫌いな男に理解されていることが悔しくて、「最後の言葉は余計です」と呟くのが精一杯だった。
「とにかく、俺は累寧どのと恋をするつもりは無いので、都合がいいと思うぞ? あとはまあ、氷室家は裕福だからな。衣食住に不自由はさせない」
「恋はしなくていいとしても、お世継ぎはどうなさるのですか? さすがに必要でしょう」
 結婚相手としては都合がよくても、この嫌味な男と子作りをしなければならないと思うとやはり遠慮したい。
 だが、稀凰は「それも問題ない」と告げた。
 もったいぶっているのか、少し冷めた茶を口に含み、ゆっくり嚥下してから詳細を話す。
「俺は、子を作るつもりはない。継嗣(けいし)は弟の子を養子にするからな」
「弟さんの……?」
 稀凰の弟といえば、士官学校を卒業してすぐに平民の女性と結婚した礼二(れいじ)という者のことだろう。累寧は会ったことはないが、重輝を通して話だけは聞いたことがある。
 昨年不幸にも妻と共に事故で亡くなったと聞いたが、その二人の子だろうか。
「そうだ、甥を継嗣とするので俺は結婚せずともいいだろうと思っていたのだが、父に強く反対されてな」
 淡々とした話し声に、うんざりとした調子が混じる。
 なんでも、『お前には子の父となる素養がない。せめて妻を娶れ。でなくば孫は私の養子とする』と言われたそうだ。なので仕方なく甥を養子にするため、母となる妻を探しているらしい。
 軽い驚きを持って話を聞いていると、重輝が鉛を吐き出すかのような重いため息を吐いた。
「つまり、稀凰は累寧に妻を通り越して母になってくれと言っているんだよ。累寧にとっても都合のいい部分はあるからこうして話は通したけれど……」
 一度言葉を切った重輝はぐっと眉間に深くしわを作ると、普段のおっとりとした様子からは想像できないほど荒々しく卓子を叩く。
「でもやっぱりこんな縁談、いい訳がない! 後継ぎがすでにいるとしても、子を産まない華族の娘への世間の風当たりは強いんだ。累寧にそんな思いはさせたくない」
 あくまで家のことよりも妹のことを考えてくれる兄に胸が温かくなる。
 妖の異能を持つ華族は様々な場面で役に立つ。サトリは心を読み、氷鬼は狙った対象を氷漬けにするなど、国を護り、治めるにはそれらの力が必要なのだ。
 だからこそ、華族は異能を受け継ぐ血を絶やさぬよう幼い頃から言い聞かせられている。
 子を産まぬということは、華族の義務を果たさぬということでもあるため、世間の目は当然厳しくなるのだ。
 それについては上級華族である稀凰の方がより理解しているのだろう。
 諦めに似た眼差しを重輝から累寧に移し、嘆息するように話した。
「とまあ、重輝の言う通りではあるからな。都合がいいので累寧どのに来て欲しいが、無理強いはしない。どうする?」
 少々投げやりにも聞こえる口調で問われ、累寧は思案する。
 双方に利はあるが、今説明を受けたことをまとめてみると累寧自身の利はそこまで多くない。通常であればお断りするところなのだろうが……。
 累寧は心配そうな兄と半分諦めていそうな稀凰を見比べ、口を開く。
「このお話、お受けします」
「累寧!?」
 正気か? とでも叫びそうな勢いで重輝は累寧の方へ身を乗り出す。
 稀凰の方も累寧の返答が予想外だったのか、驚きその青灰色の目を見開いている。あまり感情を顔に出さない男の表情を変えることができて、少々胸がすっとした。
 二人の反応を見て、累寧は笑みを浮かべつつはっきりと自分の望みを告げる。
「ただし、しっかりと書面に残してくださいね。私があなたの妻でいるうちは、森村家への援助は惜しまない、と」
 その言葉を聞いた重輝は、今度は悲壮感を込めて「累寧!?」と叫ぶ。立ち上がり、累寧のそばへ来て両肩をつかんだ。
「家のためにお前が犠牲になることはないんだぞ?」
「あらお兄様、私にも一応利はあるのだから、犠牲というほどのことではないでしょう?」
 諭すような重輝の言葉に、累寧はころころと軽やかに笑う。そして強い意志を持って大事な兄を見返した。
「それに、私は森村家の存続を望みます。先ほどお兄様は家に仕えている者たちの心配しか口にしませんでしたが、爵位を返上して一番つらい立場になるのはお兄様ではありませんか」
「それは……」
 言い淀む重輝を累寧はじっと見つめる。
 華族は爵位を存続するためにそれなりの金銭がいる。返上すればその辺りの心配はないが、代わりに血の存続のみを義務付けられるのだ。
 人としての尊厳は最低限守られるが、異能の血を残すため管理され、自由はない。異能は殿方の力が子に受け継がれると言われているので、おそらく重輝は種馬のように扱われることとなる。
 そのような屈辱を、大事な兄に味わわせるわけにはいかない。
「子を産まぬ華族の娘への風当たりが強いと言っても、継嗣がすでにいるのならばそこまで強くはないでしょう。それに、継嗣の母という役割のみを求められているのだから、私はむしろ楽をさせてもらえるのですよ?」
「累寧……」
 冗談交じりの累寧の言葉に、重輝は全身から力を抜き彼女の肩を離す。累寧の意志は固いのだと理解したのだろう。心配そうな眼差しは変わらないが、それ以上は何も言わなかった。
 そんな二人の様子を見ていた稀凰が、くっと笑う。
「楽、か。累寧どのは面白いことを言う。……重輝、俺は少なくとも累寧どのに不自由な思いをさせるつもりはない。このじゃじゃ馬を愛することはないが、友人の妹だ。ちゃんと大事に扱うさ」
「じゃじゃ馬とは失礼な」
 思わず言い返した累寧だったが、稀凰は馬鹿にするように鼻で笑う。
「兄を守りたいと、家政よりも薙刀の修練に多くの時間を割いている令嬢はじゃじゃ馬だろう?」
「うぐっ」
 的確に言い返され、もはや返す言葉が出てこない。実際、両親からの苦言を無視して薙刀の稽古を続けているのだから、間違ってはいないのだ。
 まあ、両親も継嗣である重輝の方が大事なのでそこまで強くは止められていないのだが……。
 ともあれ、話はまとまった。
 重輝も深く諦めのため息を吐き、顔を上げる。
「わかったよ。でも、それなら尚更書面に残しておこう。累寧が嫌がることはしない、という文面もつけてね」
 重輝も承諾したことで、稀凰と累寧の婚約は成立した。
 家長である父の許しはまだないが、上級華族と繋がりを持てる婚姻に否を通すことはないだろう。
 こうして、嫌っている者同士の契約結婚が始まった。