朝。起きて二階からリビングへおりると、テレビがたれ流されているのはいつものことだ。
母さんは鼻歌混じりに台所でお弁当を詰めてて、一個下の弟の浩人は朝ごはんを頬張りながら食器の陰でこそこそとスマホ。自動車整備工場に勤務してる父さんは早番でとっくに家をでてってる。二歳のダックスフンド、オクラは紐のおもちゃをヘドバンなみにぶん回してて。だーれもテレビ画面を観ちゃいない。
よしよしテレビよ。今日も俺が唯一、お前の相手になってやろう。
『全国各地で梅雨入りの発表が──』
「うおー、まじか」
「なに」
左の壁際にあるテレビに目を向けたままダイニングチェアを引いてたら、不意にけだるげな掠れ声が耳に入ってきて、俺は正面に振り向く。スマホから顔を上げた浩人がこっちを見ながら眉間にしわを寄せて、げほんと咳をひとつする。続けてううんと唸って、またげほんと咳をひとつ。そんな浩人に俺はあくびをこぼしながら教えてやった。
「ふぁあ梅雨入りだって」
「そりゃ、六月半ばだもん。てか今年は遅いほうなんじゃね」
「ほーん。じゃ、毎年いつよ」
「げほん、っううん。知らんわ」
「知らんのかい」
「あら、洸太くん。おはよう」
浩人がスマホをさっとダイニングテーブルの下に隠すのを見届けてから、俺は右へと振り向いた。
「おはよ。母さん」
「洸太くんは朝ごはん、目玉焼きトーストでいい?」
「おっけー」
返事をしながら俺がダイニングチェアに座ると、浩人が「えー」と不満げな声を漏らす。視線を滑らせて見ると浩人は唇を尖らせてむっつりしてる。
それほど時間はかからずに俺のもとへ運ばれてきた目玉焼きトーストを前にして、浩人のへの字になってた口がついにだらしなくぱっくりと開かれた。
「いいなぁ。目玉焼きトースト」
「浩人も食えばいいじゃん」
「喉が死ぬ」
「あーね。声変わりはつらいっすなぁ」
「高みの見物うっぜ」
「かつての俺を見ているようだ」
「うぜぇまじっ、げほんっ」
目玉焼き白米ごはんの浩人に構わずに「いっただっきまーす」と俺は目玉焼きトーストに齧りつく。うんめぇ。トーストさくっさく、たまごとろっとろ。
「洸太くん。はい、これ。お弁当と、それから進路希望調査票」
「ん。ああ、うん。あんがと」
ダイニングテーブルの隅に置かれるお弁当の包みと、四月から二回目の進路希望調査票を尻目に、俺はひたすら口をもごもごと動かす。
俺がさっき教えてやったのに。梅雨入りを知らせるような浩人のじめっとした視線が、目玉焼きトーストを齧りはじめてからずっとしつこく、じめじめと俺に纏わりついてきている。
「コウくん結局、ショウくんと同じ高校を受験する感じ?」
トーストの固い耳の角を、細かく、細かく、噛み砕き、ごくんと喉を鳴らして飲み込んで。
「さぁ」
「さぁ?」
「あいつの志望校、知らんわ」
「げほん、っううん。知らんのかい」
「浩人くん。ごはん中はスマホ禁止、だったわよね?」
「……へーい」
◇
先にバスケ部の朝練のために家をでた浩人のあとを追って、帰宅部の俺はかわいいオクラのあさんぽのため十五分ほど家をでてた。家に帰ると玄関前に、俺の悩みの種のやつが立っている。俯き加減でスマホの画面を見ているそいつにオクラがきゅんきゅん甘ったれた声で鳴きはじめて、足元にいるオクラにお前はいいよな、と。俺はひっそり、苦笑いをこぼした。
明け透けなオクラの好意の声に気づいたらしいそいつは、スマホの画面からこっちに視線を飛ばしてくると、
「洸太。おはよ」
熱烈なアピールをしているオクラでなく、俺の名前を先に呼んで挨拶してくれた。……正直、めちゃくちゃ嬉しい。
「おはよ。翔次。来るの早くね?」
「お前がとろいだけだろ」
淡々と辛辣な物言いをして翔次はスマートにしゃがむ。
「オクラ。おはよ」
オクラはおしりごとしっぽをふりふり、翔次の手をぺろぺろと舐めて低い腰をさらに低くする。それから、ころんと地べたに寝転んだ。いわゆるへそ天ってやつ。立派なものを見せつけてくるオクラに翔次は一切躊躇わない。無防備なオクラのおなかを片手のひら全体を使って優しく撫でてやっている。空いてるほうの片手で立膝に頬杖をついて、薄い唇の端を隠す翔次のアンニュイ顔を眺めながら、俺はまた苦笑い。
いいよな、オクラは。男でも関係なしに、こいつにかわいがってもらえるんだもんな。
「洸太」
不意に翔次の静けさを湛える視線と音もなく衝突する。
「早くしないと遅刻するよ」
「……お前がオクラに構ってるから」
「なに?」
「なーんでもございませーん」
よいしょと俺は屈んでへそ天したままのオクラを抱き上げた。曲げた膝をゆっくりと伸ばしながら、腕のなかにいるオクラのつぶらな瞳に語りかける。
「オクラくーん。俺とおうちに入りましょうね〜」
オクラが自慢の胴長を活かして一生懸命に俺の鼻と唇を舐めてくる。まったく、かわいいから憎めない。
触れたくても触れられない。誰かさんの黒髪に似た色の、束だとちょっと硬め、だけど一本一本は柔らかい。陽だまりのにおいがする毛並みを撫でてやりながら、シャープな横顔にそっと頬ずりをする。人間のものよりもずっと速い鼓動と、ふんわりとした体温に愛おしさを感じて。
ふっと力が抜けて細まる俺の視界に、しゃがんだままの翔次は映り込まない。ふにゃりと緩む頬をそのままに、俺は翔次に背を向けてオクラと家に入った。
母さんは鼻歌混じりに台所でお弁当を詰めてて、一個下の弟の浩人は朝ごはんを頬張りながら食器の陰でこそこそとスマホ。自動車整備工場に勤務してる父さんは早番でとっくに家をでてってる。二歳のダックスフンド、オクラは紐のおもちゃをヘドバンなみにぶん回してて。だーれもテレビ画面を観ちゃいない。
よしよしテレビよ。今日も俺が唯一、お前の相手になってやろう。
『全国各地で梅雨入りの発表が──』
「うおー、まじか」
「なに」
左の壁際にあるテレビに目を向けたままダイニングチェアを引いてたら、不意にけだるげな掠れ声が耳に入ってきて、俺は正面に振り向く。スマホから顔を上げた浩人がこっちを見ながら眉間にしわを寄せて、げほんと咳をひとつする。続けてううんと唸って、またげほんと咳をひとつ。そんな浩人に俺はあくびをこぼしながら教えてやった。
「ふぁあ梅雨入りだって」
「そりゃ、六月半ばだもん。てか今年は遅いほうなんじゃね」
「ほーん。じゃ、毎年いつよ」
「げほん、っううん。知らんわ」
「知らんのかい」
「あら、洸太くん。おはよう」
浩人がスマホをさっとダイニングテーブルの下に隠すのを見届けてから、俺は右へと振り向いた。
「おはよ。母さん」
「洸太くんは朝ごはん、目玉焼きトーストでいい?」
「おっけー」
返事をしながら俺がダイニングチェアに座ると、浩人が「えー」と不満げな声を漏らす。視線を滑らせて見ると浩人は唇を尖らせてむっつりしてる。
それほど時間はかからずに俺のもとへ運ばれてきた目玉焼きトーストを前にして、浩人のへの字になってた口がついにだらしなくぱっくりと開かれた。
「いいなぁ。目玉焼きトースト」
「浩人も食えばいいじゃん」
「喉が死ぬ」
「あーね。声変わりはつらいっすなぁ」
「高みの見物うっぜ」
「かつての俺を見ているようだ」
「うぜぇまじっ、げほんっ」
目玉焼き白米ごはんの浩人に構わずに「いっただっきまーす」と俺は目玉焼きトーストに齧りつく。うんめぇ。トーストさくっさく、たまごとろっとろ。
「洸太くん。はい、これ。お弁当と、それから進路希望調査票」
「ん。ああ、うん。あんがと」
ダイニングテーブルの隅に置かれるお弁当の包みと、四月から二回目の進路希望調査票を尻目に、俺はひたすら口をもごもごと動かす。
俺がさっき教えてやったのに。梅雨入りを知らせるような浩人のじめっとした視線が、目玉焼きトーストを齧りはじめてからずっとしつこく、じめじめと俺に纏わりついてきている。
「コウくん結局、ショウくんと同じ高校を受験する感じ?」
トーストの固い耳の角を、細かく、細かく、噛み砕き、ごくんと喉を鳴らして飲み込んで。
「さぁ」
「さぁ?」
「あいつの志望校、知らんわ」
「げほん、っううん。知らんのかい」
「浩人くん。ごはん中はスマホ禁止、だったわよね?」
「……へーい」
◇
先にバスケ部の朝練のために家をでた浩人のあとを追って、帰宅部の俺はかわいいオクラのあさんぽのため十五分ほど家をでてた。家に帰ると玄関前に、俺の悩みの種のやつが立っている。俯き加減でスマホの画面を見ているそいつにオクラがきゅんきゅん甘ったれた声で鳴きはじめて、足元にいるオクラにお前はいいよな、と。俺はひっそり、苦笑いをこぼした。
明け透けなオクラの好意の声に気づいたらしいそいつは、スマホの画面からこっちに視線を飛ばしてくると、
「洸太。おはよ」
熱烈なアピールをしているオクラでなく、俺の名前を先に呼んで挨拶してくれた。……正直、めちゃくちゃ嬉しい。
「おはよ。翔次。来るの早くね?」
「お前がとろいだけだろ」
淡々と辛辣な物言いをして翔次はスマートにしゃがむ。
「オクラ。おはよ」
オクラはおしりごとしっぽをふりふり、翔次の手をぺろぺろと舐めて低い腰をさらに低くする。それから、ころんと地べたに寝転んだ。いわゆるへそ天ってやつ。立派なものを見せつけてくるオクラに翔次は一切躊躇わない。無防備なオクラのおなかを片手のひら全体を使って優しく撫でてやっている。空いてるほうの片手で立膝に頬杖をついて、薄い唇の端を隠す翔次のアンニュイ顔を眺めながら、俺はまた苦笑い。
いいよな、オクラは。男でも関係なしに、こいつにかわいがってもらえるんだもんな。
「洸太」
不意に翔次の静けさを湛える視線と音もなく衝突する。
「早くしないと遅刻するよ」
「……お前がオクラに構ってるから」
「なに?」
「なーんでもございませーん」
よいしょと俺は屈んでへそ天したままのオクラを抱き上げた。曲げた膝をゆっくりと伸ばしながら、腕のなかにいるオクラのつぶらな瞳に語りかける。
「オクラくーん。俺とおうちに入りましょうね〜」
オクラが自慢の胴長を活かして一生懸命に俺の鼻と唇を舐めてくる。まったく、かわいいから憎めない。
触れたくても触れられない。誰かさんの黒髪に似た色の、束だとちょっと硬め、だけど一本一本は柔らかい。陽だまりのにおいがする毛並みを撫でてやりながら、シャープな横顔にそっと頬ずりをする。人間のものよりもずっと速い鼓動と、ふんわりとした体温に愛おしさを感じて。
ふっと力が抜けて細まる俺の視界に、しゃがんだままの翔次は映り込まない。ふにゃりと緩む頬をそのままに、俺は翔次に背を向けてオクラと家に入った。
