蠱毒の後宮妃~型破りな異端妃は美貌の皇子と謎を解く~



(……面倒なことになったわね)

 仙霞は大きな布包みに荷をまとめながら、気の重い気分でいた。

 先日、楊胤と名乗る皇子が華蠱宮に突然現れた。宦官以外の男性を見るのは久しぶりのことだ。

後宮の門をくぐってから早くも二年。皇帝にお目通りする機会すらないまま、仙霞は最初から華蠱宮に配属されたのだから。

 ──やたらと顔のいい皇子だな。仙霞の感想はそれくらいだった。

『なゃあ』

 荷物を詰め終えたころ、猫鬼が野太い声で甘えるように鳴いた。

「かわいい子」

 喉を鳴らして体をすり寄せてくる猫鬼をなでてやる。

神出鬼没なこの黒猫は、ときおり蠱婆の室で見かけることはあっても、離れを出たところを目にしたことはなかった。

 いまや主人は仙霞。ゆえに、仙霞の行くところに現れるらしい。

見た目はただの愛らしい黒猫なのに──ふいに現れたり消えたりするたび、采女たちは腰を抜かしそうなほど驚き、気味悪がっていた。

 こんなにかわいいのに、なぜだろう。仙霞には本気で理解できなかった。

(さて、準備完了。そろそろ皇子が迎えに来る頃ね)

 華蠱宮は後宮の奥深くにあるため、仙霞ひとりが引っ越すことになった。

昼過ぎに迎えが来ると言っていたから、もう間もなくだろう。

 大きな布包みを背に担ぎ、寝室を出る。身の回りの品は少ない方だが、蠱毒に関する巻物がかさばって、思ったよりも重い。

 華蠱宮を出ると、庭では采女たちが掃き掃除をしていた。

 仙霞がいなくなれば蠱婆の世話をしなければならず、つい先日まで不平を口にしていたものだ。

けれど楊胤が「特別手当を支給する」と言った途端、誰も愚痴を言わなくなった。

 あんなに離れに入るのを嫌がっていたのに──銭さえ貰えればやるのか、と仙霞は呆気に取られる。やはり世の中、何事も銭次第らしい。

「……もうそろそろかしら」

「ねぇ、私の髪の毛、変じゃないわよね?」

「もっといい衣があれば良かったのに」

 いつもより熱心に掃除していると思ったら──どうやら楊胤が来るので浮き足立っているらしい。よく見れば、皆いつもより厚化粧をしている。

(まあ、顔は良かったものね)

 ついでに背も高かった。人柄まではわからなかったし、知りたいと思うほど興味もない。

 采女たちは、仙霞が姿を現しても気づかないふりをした。先ほどまで楽しげに弾んでいた声も、仙霞が近づくにつれ、すうっと萎んでいく。

 誰ひとり目を合わせようとはしない。

 仙霞は少し離れた場所で立ち止まり、彼女たちをじっと見つめていた。やがて、そっと視線を落とす。

 暇なので虫でも探して待つかと、重い荷を背負ったまま腰を屈める。すると、地面には大量の蟻に食われているミミズの死骸があった。仙霞は興味深くのぞき込む。

──それからどれくらい経っただろうか、上から声が降ってきた。

「なにをしておる」

 呆れと軽蔑がにじむ声音だった。

見上げると、そこには見目麗しい尊顔があった。だが、その美貌は眉をひそめ、仙霞をのぞき込んでいる。

 濃紫の長衣は絹で織られ、繊細な文様が浮かんでいる。痩身ながらも鍛え上げられた体つきで、やはり宦官の女性的な体躯とは違う。衣に焚かれた香のせいか、高貴な匂いも漂っていた。

 気圧されるほどの美貌──けれど仙霞を見つめる瞳には、蔑みとも憐れみともつかぬ色が宿っている。

「ミミズの死骸が、無数の蟻に分解されて運ばれていく様子を眺めていました」

 仙霞は地面を指さして素直に答えた。

 どうやら楊胤が来ていたことに、まったく気づかなかったらしい。

よほど集中していたのだろう。腰を屈めてからどれほど時間が過ぎたのかもわからない。

 楊胤はミミズの死骸に視線を移し、それから仙霞を見た。……その目は、どうやら仙霞をミミズの死骸と同列に見なしているようだった。

「それで、この死骸を見つめながら、どのようなことを考えていたのだ」

「ミミズの死骸は……美味しいのかなと」

「……聞いた俺が悪かった」

 楊胤は額に手を当て、呆れたように目を閉じた。

 また余計なことを言ってしまっただろうか、と仙霞は視線を泳がせる。

蠱婆からもよく「お前は一言余計じゃ」と叱られるが、本人にとってはどこが余計なのかさっぱりわからない。失礼なつもりなど、これっぽっちもないのだ。

 とりあえず立ち上がろうとしたものの、背負った荷の重さと痺れた足が合わさり、仙霞の体はぐらりと後ろへ傾いた。

 楊胤の腕が仙霞の背に回る。仙霞の体は横向きとなりながらも、たしかな力で支えられた。

 抱きとめられる姿勢となり、仙霞と楊胤は視線を合わせる。楊胤の顔が思いのほか近く、仙霞は驚きと戸惑いに息が詰まった。

 不思議な間が二人に生じ、我に返った楊胤は気まずそうに顔を逸らせた。気のせいか、耳が赤いように見える。

「これは失礼いたしました」

 体勢を立て直した仙霞は、しっかりと地面に足をつけてから、頭を下げる。