蠱毒の後宮妃~型破りな異端妃は美貌の皇子と謎を解く~

「え、私?」

 暇そうにあくびをしていた陀宝林は、眠気も吹き飛んだように目を丸くした。

 楊胤は陀宝林の下の名前を知らなかったので、一瞬誰のことかわからなかったが、彼女の慌てぶりを見て理解する。

「そうさ。われは足が悪い。今さらここを出て後宮内を歩くのは骨が折れる。だから、手助けをするのは仙霞の役目じゃ」

 陀宝林は露骨に嫌そうな顔をし、首を横に振った。

「陀宝林は蠱術が使えるのか?」

 楊胤の問いに、蠱婆が答える。

「蠱術を使う必要はない。罪人を見つけ出せばよいのだからな。仙霞は蠱毒の知識も十分にあるし、頭も切れる。良い補佐となるじゃろう」

「お待ちください、蠱婆さま。私が手伝いに行ったら、誰が蠱婆さまの面倒を見るのですか?」

「食事を置いておいてくれれば十分だ。あとは自分でできる。後宮内を歩く方が、よほど骨が折れるからな」

陀宝林を補佐にするのは、正直気が進まなかった。

 かといって、この年寄りと共に罪人探しをすれば、ほとんど介護のような状態になるだろう。どちらがましかといえば、やはり陀宝林だ。

 とはいえ、もし蠱毒を放ったのが蠱婆本人なら、そばにいた方が黒幕を特定しやすいかもしれない。

 もっとも、楊胤は呪殺を信じているわけではない。蠱毒という名目で毒を盛り、病にかからせて殺した可能性を疑っていた。

「わざわざ後宮を歩き回らなくても、私が華蠱宮に通えばいいのではないか?」

 楊胤の言葉に、陀宝林の顔がわかりやすく輝いた。

「何度来られても、占いで罪人を視ることはできぬ。だが仙霞には予知の能力がある。後宮内で罪人と接点を持てば、なにかを視ることができるかもしれぬ」

 陀宝林は「余計なことを……」と言いたげに、苦い顔で蠱婆を睨みつける。

(予知ねぇ……)

 楊胤は半信半疑だったが、ここは話を合わせておいた方がいいだろう。そう判断し、わざと驚いたふりをした。

「予知か、それはすごいな」

 楊胤が陀宝林を見やると、彼女は気まずそうに顔を背けた。

「とはいえ、蠱師見習いの者に大きな事案を任せるのは心許ない。ゆえに猫鬼《びょうき》を遣わそう」

 蠱婆が両手を叩くと、乾いた音が室に響いた。

次の瞬間、なにもなかった空間から、黒々としたもふもふの塊がふっと現れた。

『なゃあ』

 鳴き声は愛らしいのに、どこか野太さが混じっている。

 黒い毛並みのせいで輪郭がぼやけているが、どうやら猫らしい。

 ただし普通の猫にしてはずいぶん丸々としており、歩けば「もふ、もふ」と音を立てそうなほどの存在感だった。

「なんと面妖な……」

 楊胤は必死で平静を装ったが、頭の中は忙しい。

どんな仕掛けが隠されているのか考えを巡らす。だが、室内には炉以外になにもない。隠れる場所などもなかった。

「あら、猫鬼。久しぶりね」

 陀宝林の声に応えるように、猫鬼は一声鳴き、体を彼女にすり寄せた。

陀宝林がひょいと抱き上げると、猫鬼は大人しく胸の中に収まる。

「これは……猫なのか?」

 楊胤の問いに、陀宝林は眉をひそめてすぐさま言い返す。

「どう見ても猫でしょう」

「だが、あまりにも太りすぎではないか」

「蠱婆の飼い猫ですから」

 黒猫は『お前、失礼な奴だな』と言わんばかりに、じろりと座ったままの目で楊胤を見返した。

 蠱婆にしてみれば陀宝林の発言の方がよほど無礼だ。案の定、睨みを利かせていたが、当の本人はまったく気づかず猫を嬉々としてなで続けている。

「なにかあれば、猫鬼が守ってくれるだろう」

「そんなに強いようには見えぬが」

 楊胤は訝しげに猫鬼を見つめた。

外見だけを見れば、どこにでもいる黒猫にしか思えない。

さらに、丸々と太っているせいか、本来の猫らしい俊敏さはまるで感じられなかった。

「これは猫蠱《びょうこ》とも呼ばれる使役じゃ。妖怪のようでもあり、鬼のようでもあり……すでに死んだ猫だ」

「それを聞いて、お前はおそろしくはないのか」

 猫鬼を抱きかかえる陀宝林に問いかける。

「どうしてですか? こんなにかわいいのに」

 きょとんとした面立ちで、逆に聞き返された。

出会ったとき、大きなガマガエルを抱えていた姿を思い出す。

──こいつに一般的な感覚を求めるのは無駄らしい。

「……そうだな。とにかく調べなければならないことが山ほどある。一緒に行動できる者がいるのは有難い」

 蠱婆への疑いは晴れたわけではないが、蠱師見習いから情報を引き出せばいい。

むしろ陀宝林を使って、蠱婆のことを探らせる方が得策かもしれない。

 蠱婆は一筋縄ではいかなそうだ。共に過ごせば、逆に取って食われる可能性すらある。近づきすぎるのは危険に思えた。

「だそうじゃ。仙霞、任せたぞ」

「……蠱婆がそう言うのなら。気は乗りませんが」

 陀宝林は、やはり余計な一言を忘れない。

 かくして楊胤は、蠱師見習いの陀宝林と共に罪人を探すこととなった。

 陀宝林は愛おしそうに猫鬼を抱きしめ、頬をすり寄せている。この任務の重大さなど、まるで理解していないようだ。

(大丈夫だろうか)

 補佐を得たにもかかわらず、不安ばかりが増していく楊胤であった。