蠱毒の後宮妃~型破りな異端妃は美貌の皇子と謎を解く~



 完解した帝は、再び大明宮の正殿である含元殿に皇子たちを呼び出した。

 横一列に並んだ皇子たちを、玉座の上から帝が見下ろす。

「顔を上げよ」

 帝の許しを得た皇子たちは天揖の礼を解く。

 完全復帰した帝は肌の色艶も良くご機嫌に見えた。覇気もあり元気そうだ。まだまだ現役であり、しばらくは玉座から降りることはないだろう。

「この度はご回復、心よりお祝い申し上げます。蠱毒に中《あた》られたと聞いたときは、ご病状を案じておりましたが、全快の吉報を受け安堵しております。持ち前の強い精神力と強靭な体力に蠱病も早々に退散したのでありましょう。あらためて感服いたしております」

 長子である文曜が、祝辞を述べる。

 帝は笑みを携えながらそれを聞いていた。

「此度は大変な騒動であった。いかに余といえど、蠱毒の病には、もはや駄目かと思ったほどだ。しかし──すべては終わった。ようやく平穏が訪れたのだ」

(すべては終わった……?)

帝の一言に、楊胤の胸がざわめく。

「すべてが終わったとは、処刑が終わったということでございましょうか」

末子の文爽が珍しく口を開いた。

帝がご機嫌な様子なので、安心して問いかけたのだろう。

「そうだ。蠱毒に関わる者は、もはやこの世にいない」

その言葉に、室内は歓喜の声で満たされた。

皇子たちのみならず、端に控えていた宦官たちまでもが、顔をほころばせている。

梅昭媛の行方不明については、楊胤と仙霞の力と同じく、ひとまず伏せておくことにした。もし彼女がまだ生きていると知られれば、無関係の女官たちまで命を落とすことになりかねない。

今回処刑された者たちは、蠱毒のことをなにも知らぬ者ばかりだった。すべて、喚賢妃の独断によるものであることは調査で明らかになっている。

それでもなお、多くの命が犠牲となったのだ。

政治的には、これが正しい判断なのかもしれない。

だが、人としては──本当にそれでよいのだろうか。

喚賢妃は確かに呪殺を行った。だが、彼女が手にかけた命はひとつだけ。それに対し、今回処刑された者たちの数は百に及ぶ。結果だけを見れば、どちらのほうが非道なのか。

楊胤は、胸の奥が凍りついていくのを感じた。

「此度の件に関しては、処断だけでなく、褒美を与えようと思う」

帝はそこで一拍置き、誇らしげに声を張り上げた。

「罪人を特定し、死の裁きを下した我が息子──楊胤を、皇太子に任ずる」

その瞬間、場の空気が凍りついたように静まり返った。

祝福する者は、ひとりもいなかった。

最初は驚きの色を浮かべていた人々の顔が、次第に怒りと失望に染まっていく。その視線は、帝ではなく、すべて楊胤に向けられた。

憎悪が渦を巻くような空気の中、楊胤は心の臓が縮むような思いを抱きながらも、平静を装って淡々と口を開く。

「身に余るお言葉を賜り、感謝いたします。しかしながら、私に皇太子を務める器はございません。──謹んで辞退を申し上げます」

その言葉に、皇子たちはほっとしたような表情を浮かべた。

だが、先ほどまで上機嫌だった帝の顔色が一変する。

眉間に深い皺を刻み、怒気を帯びた声が響いた。

「余の言を、覆すというのか」

その場の空気が一気に凍りつく。

息を呑むような沈黙が広がった。

皇帝の言葉に異を唱えることは、すなわち死罪を意味する。

「……覚悟の上でございます」

楊胤の声は揺らがなかった。

たとえこの場で首を刎ねられようとも、人として死にたかった。

(仙霞……)

最期に脳裏に浮かんだのは、生まれて初めて心惹かれた女の顔だった。

もし、楊胤が皇太子の位を辞して命を落としたと知ったら、仙霞はどう思うだろう。

悲しんでくれるだろうか。それとも、すぐに忘れてしまうのだろうか。

『立場がどうなろうとも、私にとって楊胤様は楊胤様です』

あの時の言葉が、静かに胸に蘇る。

(きっと……わかってくれるだろう)

人として死にたいという自分の願いを、この世でたったひとり理解してくれるのは仙霞だけ。それだけで、楊胤は救われる気がした。

帝は不快げに顔を歪めながらも、深く嘆息を吐き出した。

「此度の褒美は──余に無礼を働いたことを、不問にしてやることにしよう」

 思いもよらぬ言葉に、楊胤は驚きのあまり顔を上げた。

(……首が繋がった)

 押し寄せる安堵に、心臓が激しく鼓動する。

 死を受け入れる覚悟はできていた。だが、いざその瞬間を免れると、やはり生きたいという思いが胸の奥で強く脈打った。

 帝が演壇から退席し、会はお開きとなる。

 楊胤が処刑されかけたというのに、誰ひとり声をかける者はいなかった。楊胤が生きようが死のうが、皆にとってはどうでもよいことなのだ。兄たちもまた、楊胤が皇太子を辞退したのは当然だといった顔をしている。

 道を譲りながら最後に殿舎を出ようとしたそのとき、小声で文爽が耳打ちした。

「帝は、諦めたわけではなさそうですよ」

 驚いて文爽を見ると、彼は意味ありげに微笑んでいた。

 女性のように線の細い美貌を持つ末子は、そのまま軽やかに歩み去っていく。

(……なにを考えているのか、さっぱりわからぬ)

 楊胤は戸惑いを覚えながら、ただその場に立ち尽くした。