蠱毒の後宮妃~型破りな異端妃は美貌の皇子と謎を解く~

「楊胤様、待って!」

 楊胤の背中に向かって声を放ったその瞬間、空に白い光が閃いた。

 次の刹那、空を裂くような轟音が大地を震わせる。常闇を貫く閃光がほとばしり、白銀の稲妻が大木へと落ちた。

 あまりに突然の出来事に、仙霞は身動きひとつできなかった。

 稲妻が幹を貫き、悲鳴のような音を立てて木々が裂ける。熱に焼かれた樹皮が剥がれ落ち、そこから炎が上がった。肉を裂くような音とともに、炎はとぐろを巻いて天へと昇る。

 現実離れした光景に、仙霞は息を飲んだ。

「仙霞っ!」

 大きな声で名を呼ばれ、ハッとしたときには、楊胤の体が仙霞を覆い、火の粉から守ってくれていた。

「大丈夫か⁉」

緊迫した表情で楊胤が仙霞を見つめる。

「はい……申し訳ありません。大丈夫です」

 楊胤は羽織っていた長衣を脱ぎ、仙霞に被せて安全な場所へと誘導した。

「敵は天変地異を操るのか。なるほど──これは強敵だ」

 燃え上がる大木を前に、楊胤は目を細めた。

「先ほど、宮殿の外から格子窓をのぞいたら、中で女官たちが倒れていたぞ」

「そうですか……これほどまでに強い呪力の持ち主だとは思いませんでした。蠱婆ですら、勝てるかどうかわかりません」

「もう人間ではないと言った意味が、ようやくわかったよ」

 仙霞は死を覚悟した。

 これは、仙霞が対抗できるような相手ではない。

 予知の映像の中に、仙霞の姿はなかった。楊胤が皇帝となるその時、仙霞はこの世にいないのかもしれない。

 それでも、どうにかして楊胤を生かし、自らを犠牲にしてでも滅ぼさねばならない。蠱師見習いとはいえ、それが仙霞の宿命だ。

「おい、あれは……なんだ?」

 楊胤が指さす先へ視線を向けると、中空に、透けるように流れる披帛《ひはく》が見えた。月明かりは乏しく、はっきりと姿を認めることはできない。

 だが、風に揺らめく披帛は、天女の羽衣のように美しく、滑らかだった。

 それは上級妃のものとわかる、華麗な衣装。艶やかな上襦下裙《じょうじゅかくん》に身を包み、高髻《こうけい》に結い上げた漆黒の髪には、玉《ぎょく》のかんざしと朱色の牡丹が飾られている。

 中空で体をくねらせ、遊ぶように漂うその姿は、まさしく幽鬼のようだった。

 呪われた妃は、鳥肌が立つほど妖艶で美しい。全てから解き放たれたように佇むその顔は、雪のように白く、まるで感情を失った天界の化身のようだった。

「喚賢妃……」

 仙霞は、零れるようにその名をつぶやいた。

 喚賢妃は、あまりにも美しかった。そしてなぜか、胸が締めつけられるほどの哀しみを纏っていた。

 鬼となった彼女の容貌は、人であった頃となにひとつ変わっていない。醜くおぞましい姿に成り果てていなくてよかった。仙霞は心の底でそう思った。

『なぜ、私だとわかった』

 喚賢妃の声は、普段と変わらぬ穏やかさを保ちながらも、どこか異様に響いた。声帯の揺らぎが銀の鈴のようで、小さな音色ながらも遠くまで届く、そんな声だった。

 仙霞は中空を仰ぎながら、静かに答える。

「喚賢妃の母君は、華南の少数民族の巫女であられましたね。華南は蠱毒の発祥の地。呪力が強いのは当然のことです」

 その情報は、楊胤に調べてもらった巻物に記されていた。

 喚賢妃は南詔の帝の公主。養女だったので、喚賢妃の本来の出生地は公式文書に載っておらず、調べるのに時間がかかった。南詔だけでは蠱毒とは結びつかないが──母の出生地まで辿って、ようやく確証を得たのだった。

『なるほど……やはりお前は、生かしておくべきではなかった』

 喚賢妃は細めた目で、静かに仙霞を見下ろした。

 その言葉に楊胤が反応し、仙霞を庇うように身を盾にする。しかし、仙霞はその手を制し、一歩前へ踏み出した。

「これほどの力を持ちながら、なぜ私を確実に仕留めなかったのですか。私に放たれた蠱毒は脆弱で、容易に滅ぼせるものでした。……私を殺すことに、ためらいがあったのでは?」

 皇帝に放たれた蠱毒とは、雲泥の差がある。

 本気で仙霞を呪殺しようとすれば、逃れる術などなかったはずだ。

『人の心は苦しいものだ。それを手放した今、私はようやく救われた』

 その声は、独り言のようでもあり、仙霞の問いへの答えのようでもあった。

 何の罪も恨みもない仙霞を殺すことが、喚賢妃には耐えがたかったのだろう。しかし、今は仙霞を殺すことに何のためらないもないことが窺える。

 本来は心優しい妃なのだ。それでもなお、蠱毒に手を染めなければならない理由が、喚賢妃にはあった。

(それは、きっと……)

「なぜ梅昭媛を呪殺した!」

 仙霞の隣に立っていた楊胤が、中空に漂う喚賢妃に向かって声を上げる。

『それを知ってどうする』

「後世に伝える。こんな悲しいことが二度と起こらないように」

『悲しいこと? 私の苦しみや辛さがわかるものか』

ふたりの会話を聞いていた仙霞は、そっと楊胤の肩に手を置き、軽く首を振った。

「楊胤様、違うのです。喚賢妃は、梅昭媛を殺してはいないのです」

「は? どういうことだ? だが、現に鬼になっているではないか」

 楊胤は信じられないという表情で、仙霞を見つめた。

「それは、私や帝に蠱毒を放ったからです。ただし、その前の梅昭媛とみられる女性の呪殺に関与していたのは事実です」

「梅昭媛とみられる女性とは……どういう意味だ? まるで、あの死体が梅昭媛ではなかったような言い方だな」

 そこまで言って、楊胤ははっと息をのんだ。

「まさか……」

 仙霞は静かにうなずく。