蠱毒の後宮妃~型破りな異端妃は美貌の皇子と謎を解く~

夜の帳《とばり》が下りたころ、楊胤が仙霞のもとを訪れた。

「何用ですか?」

「見舞いに来てやったというのに、その言い方はないだろう」

「もう治りました」

「それはなによりだ」

 楊胤は仙霞の返答など待たず、勝手に部屋に入っていく。

 いつものように文机の前に腰を下ろそうとしたが、ふと辺りを見回し、しばし警戒する。そしてなにもないと確認してから腰を下ろした。

どうやら猫鬼の突然の出現を恐れているらしい。

「こんな時間に訪れれば、妙な噂に拍車がかかりますよ」

「むしろ妙な噂のおかげで、余計な詮索をされずに済んでいる。お前を横抱きにして戻ってきても、不自然には思われなかっただろう」

「ですが私は、『早くお身ごもりを』なんて言われましたよ」

 その言葉に、楊胤は目を見開き、そして豪快に笑い出した。

「笑い事ではありません」

 仙霞は唇を尖らせ、半眼で睨みつける。

「いや、冗談を言いに来たわけではない」

 私だって冗談を話しているつもりはない、と仙霞は思う。

「昨夜の、お前の言葉が気になってな」

「私の言葉とは?」

 仙霞が首をわずかに傾げると、楊胤は「どうしてわからない」とでも言いたげに眉を寄せた。
昨夜は色々と話していたのだから、わからないのは当然だろうと思う。……口に出したら余計怒られそうなので黙っておくが。

「死ぬかもしれない、と言っていただろう」

「ああ……そのことですか」

「それ以上に重い言葉はあるまい」

 楊胤の口調には、責めにも似た厳しさが滲んでいた。よほど心配しているのだろう。

「大丈夫ですよ。狙われるとしたら、楊胤様ではなく私でしょうから」

「なにが大丈夫だ。まったく大丈夫ではないだろう。だが、なぜそう思う?」

「もし四夫人の中に罪人がいるのなら……私はその中の誰かに目を付けられていると思います。これほど強い術力の蠱師なら、私が蠱師見習いだと気づくでしょう。狙うなら私です。蠱毒の恐ろしさを一番知るのは、蠱師でしょうから」

「宮中に、怪しい気配でもあったのか?」

「いいえ、確証はありません。ただ、もし私が呪われれば、それが四夫人のうちに罪人がいるという証拠になります」

「嫌な判別法だな」

「ですが、その代わり、私は死ぬかもしれません」

 楊胤は複雑な面持ちで、しばらく仙霞を見つめた。

「梅昭媛を殺した罪人は、お前よりも蠱術が強いのか?」

「はい。あれほど見事な呪殺は、そうそうできるものではありません。あの無数に穴の空いた心臓……まさに至高の一品です」

 仙霞は黒く焼け焦げた心臓を思い出し、思わず愉悦の吐息を洩らした。

「なぜそんな蕩けそうな顔をする」

 楊胤は引きつった声で問いかける。

「あれは芸術品でした。あまりの美しさ――いえ、気味の悪さに見入ってしまって。つい顔を近づけすぎたせいで、術力の残滓にやられてしまったのです。できれば触ってみたかった」

「反省しているのか、していないのか、どっちなんだ」

 呆れ果てた楊胤の言葉を、仙霞は見事に無視して思案を続ける。

 もし触れていたら病を得ていたかもしれない。半日寝込んだ程度で済んだのはむしろ幸運だった。
だが、どうしても気になる。指先に煤は残るのか。その触感はどれほど不気味なのか。

 妄想に没頭していた仙霞は、楊胤の咳払いで現実に引き戻された。

「やられるのを手をこまねいて見ているわけにはいかぬ。こちらも対策を講じよう」

「どんな対策です?」

「わからん。昨日まで蠱毒など虚構だと思っていたのだからな。まずは知識を仕入れるしかない」

「……信じていなかったのですか?」

 仙霞が驚きのまなざしを向けると、楊胤はわずかに気まずそうに視線を逸らした。

「半信半疑だったのだ。仕方ないだろう、霊だの妖怪だの、この目で見たことがなかったのだから」

「猫鬼を見たではありませんか」

「あれは……人を欺く仕掛けでもあるのかと思っていたのだ」

 良く言えば用心深い。悪く言えば頭でっかち。

 仙霞は心の中でそう評した。

「とにかく、まずは情報収集だ。呪い返しの方法を調べねばならん」

「私、知っていますよ?」

「は? それなら、なぜ『死ぬかもしれない』などと言った」

「呪い返しができても、相手の蠱術が上なら跳ね返せませんから」

「……剣の腕前と同じか。だが、知らなければ対策の立てようもない。工夫の余地はある」

 仙霞は思い出す。楊胤は科挙に及第した秀才であることを。

(頭の良い人って、まず勉強から入るのね)

 真面目なことだと感心する。

「では早速、明日から内侍書庫に籠って調べるぞ」

 楊胤の言葉に、仙霞は飛びつかんばかりに身を乗り出した。

「私も行っていいのですか!?」

 瞳をきらきら輝かせ、まるで押し倒さんばかりに迫る。

「お、おう……その方が効率も良いからな」

「ありがとうございます!」

 仙霞は思わず楊胤に抱きついた。

「いいから、抱きつくな」

 楊胤はぞんざいに仙霞の顔を押し退ける。

「すみません、つい……。あれ? 楊胤様、耳が赤いですよ?」

「お前が俺を強く圧迫したからだ!」

 ふいと顔をそむける楊胤。そこまで力を込めた覚えはないのだが、と仙霞は首をかしげる。

 その様子を見ていた猫鬼が、いつの間にか現れ、『なゃあ』と笑うように鳴いた。