蠱毒の後宮妃~型破りな異端妃は美貌の皇子と謎を解く~

鮮やかな青空に、薄い雲がゆるやかに漂っていた。時折吹く涼風が広葉樹を揺らし、朝日を受けて葉の緑がきらめく。



仙霞が東宮で暮らし始めて、もう一週間。久しぶりに楊胤が離れの棟を訪れた。



「お久しぶりですね」



仙霞は葉の裏に隠れていたナメクジを、手早く籠の中へ入れる。



昨夜の雨で濡れた葉には、まだ水滴が光っていた。



「私の仕事はこれだけではないからな。色々と忙しいのだ」



「でしょうね」



興味のなさそうに顔をそむけ、仙霞はナメクジ探しを続ける。



一週間も放っておかれ、ほんの少しだけふてくされていたが、皇子相手に不満を口にできるはずもない。



「なにをしているのだ?」



 楊胤が仙霞の横顔をのぞき込み、そのまま籠の中へ視線を移した。



「ナメクジを集めていました」



「……集めてなにを……いや、いい。それ以上は言うな」



仙霞は思わず口をつぐむ。むしろ集めてからがおもしろいのに──と、心の中で小さくつぶやいた。



「こちらに来たということは、四夫人に謁見できる段取りが整ったのですか?」



「ああ。四人の予定がそろったのは今日しかなかった」



「では、お茶会でも?」



「いや、あの四人は仲が悪い。別々に、それぞれの宮を訪ねることになる」



それはそれで骨が折れそうだ。



けれど、早めに済ませなければ華蠱宮に戻れない。



「では、すぐに行けるか?」



「はい」



仙霞は仕方なく、生け捕っていたナメクジを葉に戻した。



その様子を眺めながら、楊胤がふと仙霞の顔を見つめる。



「……なぜ化粧をしない。それにかんざしなどの装飾品も与えたはずだ」



「面倒くさいんですよ」



身にまとっているのは、楊胤から支給された鮮やかな(ほう)



華蠱宮にいたころよりずっと豪奢で、高級女官にひけを取らない装いだったが、本人に飾る気はさらさらない。



「……まあいい」



楊胤は、以前よりは見栄えがましになったと判断したのか、それ以上追及せず踵を返す。仙霞は黙ってその背を追った。



後宮の大門をくぐると、宦官の敬宋が控えていた。いかに皇子といえど、この領域では宦官の付き添いなく歩くことはできないのだろう。



「最初に訪問するのは、どなたの宮殿ですか?」



仙霞が問いかける。



()貴妃だ。四人の子を産み、今では後宮の実質的最高権力者。……仙霞は四夫人について、どこまで知っている?」



自然に名前で呼ばれていた。



思わず聞き流してしまいそうなくらい耳馴染みがよく、不思議なほど違和感がなかった。



「なにも知りません。正直、名前すら覚えていません」



楊胤は『それくらい覚えておけ』と言いたげに目を細め、呆れたように見下ろした。



李珪斉(りけいせい)様。帝と同い年で、御年四十五。皇太子時代からの正妃で、長男を産んだのは、二人が十八歳のときだ」



「娘も含めると、そこからさらに三人も……。寵愛を一心に受けられた妃様なのですね」



「いや、それが……帝位に就いてから後宮に妃が増えるにつれ、夫婦の仲は冷え込んだ。李貴妃の次男と、新たに入宮した(よう)淑妃の長男は、同じ年に生まれている」



──同じ年。



つまり帝は、同じ時期に二人の妃のもとへ通っていたということだ。後宮の制度上、それは珍しくはない。



「帝はしっかり務めを果たされたわけですよね。嫉妬するなんて、器が小さい」



「おい、言葉を選べ。李貴妃の前でだけは、決して口にするな」



楊胤が慌てて声をひそめる。



(しまった。四夫人の前ではなるべく喋らないようにしよう)



「嫉妬だけではない。揺淑妃は親密国の公主だ。対して李貴妃の父は、地方を巡察する役人にすぎない。身分の差は歴然としている。淑妃が皇后に選ばれてもおかしくはなかった」



「ああ、だから今も皇后がいないのですね」



子の数や寵愛を考えれば、李貴妃が皇后に昇るのは自然なはず。



だが、親密国の公主を差し置くことは、国政において致命的な火種となる。



「それに、長男は皇太子に任じられていない。かつて官吏がうっかり皇太子と呼んだ時、帝は烈火のごとく怒ったそうだ。長男は皇嗣であり、第一位の継承権者。誰もが当然、皇太子だと信じていた。……だが帝は自らそれを否定した」



仙霞の背筋に冷たいものが走る。



「つまり、帝は──貴妃様のお子以外を皇太子に据えるおつもりなのですか」



「それも判然としないのだ。帝が否定した以上、李貴妃の長男が皇太子になることはない──そう思いきや、常に最上位の席に据えておられるし、冷遇している様子もない。揺淑妃の立場を立てるために、いまは空位にしているだけで、本命は彼だという説もある。……帝の胸中は誰にも読めぬ」



皇太子に選ばれるのは、果たして貴妃の子か、それとも淑妃の子か。盤石に見える李貴妃もまた、決して安泰ではない。



一瞬、仙霞の脳裏を予知の記憶がかすめた。だが、それはあまりに重大で、深く考えることを拒んでしまう。



(私には関係のないこと)



自分にそう言い聞かせる。首を突っ込めば、確実に厄介な渦へ巻き込まれる。──そして仙霞のこうした勘は、なぜかよく当たった。



「そういう事情があるから、李貴妃と揺淑妃は犬猿の仲だ。……同じ時期に生まれた皇子たちも、常にいがみ合っている」



仙霞も建前だけは公主の身分だ。だが、それは吹けば飛ぶような小国の養女にすぎない。



揺淑妃のような直系の公主とは、天と地ほどの差がある。無下には扱えない相手なのだろう。



「ところで、帝のお子は何人いらっしゃるのですか?」



「皇子が五人、皇女が六人。合わせて十一人だ。本来なら十二人になるはずだったが……」



梅昭媛の腹に宿っていた子。そのことを指しているのだろう。



「いまだ現役、というわけですね」



「いい歳をした好色漢だ」



帝に向かって、なんという言葉──。



仙霞は思わず息を呑み、慌てて周囲を見回した。



誰かに聞かれてはいないだろうな、と。



貴妃の宮殿へと向かって歩いているので、立ち聞きされるようなことはない。だが、仙霞と楊胤の後ろには敬宋が控えている。耳に届いていないとは言い切れなかった。



振り返ると、敬宋は赤とんぼをぼんやりと目で追っている。



(気の抜けた老宦官……いや、もしかすると、こういう者をあえて選んだのかもしれない)



この任務は他言無用の極秘。ならば口の堅い宦官が選ばれて当然だ。



敬宋の場合は、堅いというより、ただ呆けて喋らないだけに見えるが。



「そうしているうちに、着いたぞ」



楊胤が声をひそめる。



「仙霞は……そうだな、話すな。返答はうなずくか首を振るだけにせよ。どうしても聞きたいことがあれば、俺に耳打ちしろ」



 仙霞は大きく数度うなずいた。もとより口を開くつもりなどない。



その反応を見届け、楊胤は満足げに口元を緩めた。



「うん、それでいい。では、行くぞ」



 その瞬間、彼の表情が切り替わる。



まるで戦場へ向かう武将のように鋭いまなざしとなり、つられて仙霞の背筋も伸びた。